12
あれはたしか、まだわたしが小学生の頃。クリスマスイブの夜に、横浜にも雪が降った。
ホワイトクリスマス、なんて、この街では珍しくはないだろうけど、横浜ではめったにないことだったから、今でもなんとなく覚えている。
わたしはお母さんと手をつないで街を歩いていて、イチゴの載ったケーキを買ってもらった。
いつもより華やかな街。家の窓からもれる灯りはどこもあたたかそうで、街灯に照らされた雪はすごく綺麗で……わたしはお母さんの手をぎゅっとにぎって歩いた。
お父さんはいなかったけれど、わたしはいつだって幸せだった。
「沙和……」
ふわりとわたしの頭に触れた手のひら。ゆっくり顔を上げると、お母さんが優しい表情でわたしを見ていた。
「あ、やだ……わたし寝てた?」
「ええ。もう、ぐっすりとね」
眠っていたお母さんの布団に顔を伏せて、わたしもいつの間にか眠ってしまったらしい。
「外、まだ雪が降ってるのねぇ……」
お母さんが薄暗くなってきた窓の外を眺めながらつぶやいた。
「ねぇ、お母さん、覚えてる?」
「ん?」
「クリスマスの夜に、雪が降ったことあったよね」
「ああ……沙和が五年生くらいの頃ね」
やっぱりお母さんも覚えていたんだ。
「クリスマスケーキを買おうとしたけど、売り切れちゃってたのよね」
「え、そうだっけ? でもイチゴのケーキ買ったよね?」
「あれはお誕生日用のケーキ。ケーキ屋さんにひとつだけ売れ残ってたの。ハッピーバースデーのプレートが飾ってあったでしょう? 味は変わらないんだけどね」
そう言ってお母さんが懐かしそうにくすくすと笑う。
お誕生日のケーキ……ふとなぜか、ひとりで雪に向かって手を伸ばした、由井くんの後ろ姿を思い出した。
由井くんは小さい頃、ちゃんとお誕生日を祝ってもらえたんだろうか。
「クリスマスには……家に帰りたいな」
ぽつりとつぶやくお母さんの声。
「わたし、クリスマスケーキ作るよ」
「いいわね。食べたいわぁ、沙和の作ったケーキ」
「外泊許可もらえないか、先生に聞いてみようよ、ね?」
そう言いながら、わたしにはわかっていた。
会うたびに痩せていくお母さんの病状が、あまりよくないってこと。
もしかしたら、もう二度と、家には帰って来られないんじゃないかってこと。
「じゃあ……また来るね」
「気をつけて帰るのよ。もう暗いから」
「うん」
ベッドの中のお母さんに手を振って、病室を後にする。
静まり返った廊下。消毒の匂い。ひとりで乗るエレベーター。
こんな時、誰かにそばにいて欲しいと思ってしまうわたしは、きっとまだ甘えている。
「さわちゃん!」
病院を出て少し歩くと、背中に幼い声が聞こえた。じんわりとにじみ出た涙を、あわてて手の甲で拭う。
振り返ると、今一番会いたくない人たちに会ってしまった。
風太くんと――貴子さん。
そんなに広くない街だもの。大通りで偶然ばったりなんてこと、何度あってもおかしくはないけど……だけど今は、この狭い街を恨んだ。
「こんばんは。今日はひとりなの?」
買い物帰りらしい貴子さんが、風太くんの手を引きながらわたしに言う。
「はい……」
どうしてだか無性に後ろめたい気持ちになって、思わず貴子さんから視線をそらす。
――仲良くして……あげてくださいね?
あの日の貴子さんとの約束。わたしはもう、守れそうにない。
「あ、あの、この前は手袋……ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。いつも風太と遊んでくれて、どうもありがとう」
そう言ってから貴子さんは、にっこり微笑んで付け加える。
「でもあの手袋ね。こうちゃんが選んだのよ」
「え……」
「沙和ちゃんの手は、いつも冷たいからって」
心臓が小さく音を立てる。
あの日。由井くんが嘘をついて貴子さんに会った日。由井くんはわたしの手袋を選んでくれた。
胸にこみ上げてきた想いを打ち消すように、わたしはバッグの中に手をつっこむと、さっき由井くんに渡しそびれた小さな袋を貴子さんに差し出す。
「これ……プレゼントのお礼です。わたしの作ったクッキーなんですけど」
「まぁ……いいの?」
こくんとうなずいてから、少し強引に貴子さんにそれを押し付け、隣にいる風太くんの手にも同じものを握らせる。
「そ、それでは、これで……」
逃げるように背中を向けたわたしに、風太くんが無邪気な声で言った。
「さわちゃん! これ、こうちゃんにもあげた?」
ゆっくりと振り返って風太くんを見る。風太くんはにこにこした顔で、わたしのことを見上げている。
「ううん。あげてない」
「じゃあぼくの半分あげるね。こうちゃん絶対、よろこぶよー」
わたしは風太くんの前にしゃがみこみ、そっとその頭をなでる。
「風太くんは……こうちゃんのことが、好きなんだね?」
「うん! だいすきだよ!」
だいすきだよ――。
こんなに素直に、自分の気持ちを口に出せる小さな子が、うらやましい。
「さわちゃんは?」
わたしの心の奥をのぞきこむかのように、風太くんが首をかしげる。
「さわちゃんも、こうちゃんのこと、すき?」
風太くんの声を聞きながら考える。
わたしは……わたしは、誰が好きなんだろう。
「わかんないの……ごめんね」
もう一度、やわらかな髪をなでてから、わたしはすっと立ち上がった。
「じゃあね、風太くん」
「うん! またね、さわちゃん!」
またね……その言葉に胸がちくりと痛む。
顔を上げたら、穏やかな表情でわたしたちを見ている貴子さんと目が合って、わたしは頭を下げ、足早にその場を立ち去った。