10
次の日は朝から良い天気だった。土曜日の今日は、午前中からお母さんの面会に行ける。結局昨日は病院に行けなかったから、今日はできるだけお母さんと一緒にいたい。
「沙和ちゃん、お母さんによろしくね」
「うん」
足の悪いおばあちゃんは、雪が積もってからあまり外へは出られない。
だからお母さんの洗濯物を取りに行ったり、買い物をしたりするのはわたしの役目だった。
「じゃあ、いってくるね」
「いってらっしゃい。気をつけて」
おばあちゃんに見送られて外へ出る。吹き付ける風は冷たくて、白い雪が眩しい。
玄関を閉め、小さな庭を抜けて門を開くと、わたしはその場に立ち止まった。
「由井くん?」
お向かいの家の塀に寄りかかるようにして、寒そうに立っているのは由井くんだった。
「何してるのっ」
思わず叫んで駆け寄ってしまう。
「沙和ちゃんを待ってた」
「なんでうちに来ないのよ?」
「だって沙和ちゃん怒ってるだろ? おばあちゃんの前で追い返されたら、おれ、カッコ悪いじゃん」
そう言ってかすかに笑う由井くんの手にそっと触れる。
手袋をしていないその手は、思った通りひんやりと冷たくて、わたしは自分の手を由井くんの背中に回した。
「……怒ってるんじゃないの?」
わたしより背の高い由井くんを、抱きしめているのか、抱きしめられているのかよくわからない格好で、わたしはその声に答える。
「もういいよ。また風邪ひかれたら、責任感じちゃうもの」
「よかった」
由井くんの手が背中に回り、わたしの体がぎゅっと引き寄せられる。
こんな道端でこんなことして、近所の人に見られたら恥ずかしい。
だけど、先に手を伸ばしたのはわたし。
こんな寒い中、いつからここで待ってたんだろうって思ったら、どうしようもなくもどかしい気持ちになって……由井くんのこと、あたためてあげたくなってしまった。
「あ、そうだ。これ」
そっとわたしから離れた由井くんが、ポケットの中からリボンのついた紙袋を取り出す。
「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント」
「……わたしに?」
由井くんの手からわたしの手に、紙袋が渡される。かすかに触れた指先の感覚に、とくんと胸の奥が震える。
「そう、沙和ちゃんに。貴子さんから」
「貴子さんから?」
わたしを見ている由井くんが、小さく笑う。わたしの頭に、昨日のふたりの姿が浮かんでくる。
「そんな……悪いよ。もらえない」
一度受け取った紙袋を、由井くんの胸に押し返す。
「いいからもらっとけよ。風太と遊んでくれたお礼だってさ」
「でも……」
「開けてみな?」
由井くんにそう言われて、仕方なく袋を開けさせてもらう。
中に入っていたのは、桜色のふんわりとあたたかそうな手袋。
「つけてみなよ」
由井くんが手袋を手に取って、わたしの手にはめてくれる。
心臓がすごくどきどきする。
「どうもありがとう……って、貴子さんに伝えて」
由井くんが笑って、手袋をはめたわたしの手をにぎる。
「沙和ちゃん、どこ行くの?」
「え、ああ、お母さんの病院に」
「そこまで送る」
由井くんに手をひかれて歩き出す。
だけど、手袋越しにつないだ手と手は、なんだかいつもと違って中途半端で……。
それはわたしと由井くんの関係に、よく似ていた。
お母さんの病院へ行った帰り、わたしはひとりで駅前のショッピングセンターを歩いた。
華やかに飾られたクリスマスの商品を眺めながら、ふと手にはめた手袋を見つめる。
貴子さんにお返ししなくちゃ……風太くんにも、なにかあげたいな。
耳に聞こえるクリスマスソング。楽しそうな人たちの笑い声。そんな中を、ひとりで歩きながら、茜ちゃんたちから聞いた言葉を思い出す。
――由井の誕生日って……クリスマスイブなんだよ。
店の中で目についたのは、男物の手袋。今朝触れた、由井くんの冷えた手を思い出しながら、ひとつの手袋に手を伸ばす。
だけどその手は、別方向から伸びてきた誰かの手とぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
触れ合った手を引っ込めて顔を向けると、わたしと同じ学校の制服を着た女の子が、同じように手を引いたところだった。
なんとなく気まずくて、あわててその場を立ち去ろうとしたわたしに、彼女が言った。
「それ、由井にあげようと思ったの?」
驚いてその子の顔を見る。やわらかなウェーブがかかった髪の、可愛らしい顔立ちの女の子。制服を着ているから、部活帰りなのかもしれない。
「新庄沙和さん……よね?」
「……はい」
少し戸惑いながらうなずいた。
「わたし、隣のクラスの木下美菜です」
美菜……その名前は知っている。
だけど、何を話したらいいのかわからなくて……黙っているわたしを見て、美菜さんが小さく笑った。
「由井のこと、本気で好きにならないほうがいいよ?」
「え」
「だって由井は、あなたのこと、本気で好きになったりしないから」
わたしの目の前で、どこか自信ありげな顔つきをして、そんなことを言う美菜さん。
「由井には好きな人がいるの。だからその人以外、誰も好きになったりしない」
胸に、何かが突き刺さった気がした。
――由井くんだって……好きな人、いるんじゃないの?
いつか聞いたわたしの言葉。あやふやだった由井くんの答え。ずっと抱えていた不安な気持ち。
ああ……やっぱりそうなんだ。
じっとわたしを見つめていた美菜さんが視線をそらし、背中を向けて去って行く。
残されたわたしはうつむいたまま、手につけていた手袋をそっとはずした。
「それで? 沙和はあたしに何を答えて欲しいわけ?」
その日の夜、横浜にいる一佳に電話をかけて、転校してから今日までの出来事を全部話した。
悩んで、行き先がわからなくなった時、いつも相談に乗ってくれたのは一佳だったから。
「このままその彼と付き合うか、麻野先輩とよりを戻すか……あたしに答えて欲しいわけ?」
「そんなこと……言ってないけど」
はあっと一佳がため息をつく。
さっぱりとした性格で、なんでも決断の速い一佳からすれば、わたしは優柔不断で、いじいじ悩んでばかりの鈍い子なんだろうな。
「あのね、沙和。あたしはあんたのこと親友と思ってるから、はっきり言わせてもらうけど」
わたしは一佳の声だけに耳を傾ける。
「沙和は……甘えてると思う」
ちくんと胸の奥が痛んだ。
「引っ越しして転校して、先輩とも別れて……寂しい気持ちもわかるけど。でも沙和は、誰かにそばにいてもらいたいだけなんじゃないの?」
少し息を吸い込んで、一佳が続けてわたしに言う。
「先輩の代わりは、その彼じゃなくても……誰でもよかったんじゃないの?」
知らない街の知らない学校で、いきなり男の子にキスされて……雰囲気に流されて、手をつないで一緒に帰って……。
もしも、それが由井くんじゃなくても……わたしはきっと、よかった。
「うん……そうだね」
一佳の言うとおり、わたしは甘えていたのかもしれない。
「明日、由井くんとちゃんと話す。こんな気持ちで付き合うのは、もうやめる」
「先輩はどうするの?」
「先輩は……」
――まだ……好きなんだ。
その言葉を思い出し、じんわりと胸が熱くなる。
「少し……考えてみる」
「先輩とよりを戻すんだったら、沙和、もっと強くならなきゃだめだよ?」
もっと強く、か。
そうだね。誰かに頼ってばかりじゃだめだよね。これからは一佳にも。
「うん、ありがと。一佳」
「がんばりな、沙和。あたしはいつでも沙和の味方だから」
一佳の声を聞きながら、そっと目を閉じる。
窓の外には音もなく、今夜も雪が降り続いていた。