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窓からこぼれるオレンジ色のあかりが、いつもよりあたたかく見える夜。
母親からもらった五百円玉を握りしめ、ひとりぼっちで夜空を見上げた。
「ゆきだ……」
めずらしく、港町に降る白い雪。
街灯のあかりに照らされたそれは、宝石みたいにキラキラ光って、すごくきれいに見えて……。
小さな手のひらを思いっきり夜空に伸ばし、大事な物をつかむようにそっと握りしめる。
サンタクロースなんていないって知っているけど。プレゼントなんて欲しくもないけど。
暗闇の中、静かにその手を開いてみた。
だけどそこに残っていたのは、冷たい水滴だけで……。
欲しかったのは、あたたかなぬくもりと、たったひとつの言葉。
――あなたが生まれてきたのは、間違いじゃない。
誰かにそう言って欲しかった。
ただ、それだけだったんだ。
***
「おばあちゃん、見て。雪、積もってる」
引っ越してきたばかりのおばあちゃんの家の玄関を出ると、うっすらと白いものがアスファルトを覆っていた。
生まれた時からついこの間まで住んでいた横浜の街は、めったに雪なんて降らなかったから、それはわたしにとって見慣れない光景だった。
「あら、本当だ。でもこんなの、すぐとけちゃうよ」
山に囲まれた小さなこの街で生まれ育ったおばあちゃんは、わたしの前でのんびりとそんなことを言う。
「これから寒くなったら、もっともっと積もるから」
やだな……寒いの、苦手。もっともっと積もるって……一体どのくらい積もるんだろう。
わたしには想像もつかない。
はあっと白い息を吐いて顔を上げる。灰色の雲に覆われた空からは、またちらちらと雪が舞いはじめていた。
――ごめんね……沙和。
昨日この場所から、病院へ向かうタクシーに乗り込んだ、お母さんが言った言葉。
――お母さんのせいで……ごめんね。
頭に浮かんだその声を、振り払うように笑顔を作る。
「じゃあ行くね、おばあちゃん。転校初日に遅刻なんて、恥ずかしいから」
「悪いね、沙和ちゃん。一緒に行ってあげられなくて」
「大丈夫だよ、ひとりでも。いってきます」
「いってらっしゃい。足元気をつけてね」
玄関先で手を振るおばあちゃんに、手を振り返して歩き出す。
はじめてひとりで歩く通学路。はじめて着た制服。はじめて感じる空気の冷たさ。
今日からわたしはこの街で暮らす。
誰も知っている人のいない、雪がたくさん降るというこの街で――わたしはおばあちゃんとふたりきりで暮らすんだ。
「新庄沙和さんね。二年三組担任の林です」
転校先の県立高校の担任教師は、やさしそうな人で少し安心した。
学生と言っても通用するような、若い女の先生だ。
「よろしくお願いします」
小さな声で言ったわたしに、林先生が微笑みかけてくれる。ちょっと嬉しい。心臓は、どきどきしているけれど。
「少し待っててね。今、準備するから」
「はい」
書類をそろえる先生の、長い指先から目を離す。職員室の中はストーブの熱でほんわかとあたたかく、窓はうっすらと曇りかけていた。
ぼんやりと立つわたしの目に映るのは、山に囲まれた街の色のない空。雪は音もなく降り続き、ひと気のないグラウンドはひっそりと静まり返っている。
そんな広いグラウンドを、ひとりの男子生徒が歩いていた。
スクールバッグを肩にかけ、両手をポケットに突っ込んで、制服を着た背中を寒そうに丸めながら。
曇った窓ガラスのせいだろうか。その光景は夢の中のようにおぼろげで、今にもふっと消えてしまいそうで……だけどわたしはなぜか、そこから視線をそらすことができなかった。
「お待たせ。新庄さん」
先生の声にはっと我に返る。
「じゃあ教室行きましょうか」
「はい……」
返事をしながら、もう一度窓の外に目を向ける。
けれどさっきの生徒の姿は、もうそこにはなかった。
「昨日話した、転入生の新庄沙和さんです」
「……よろしくお願いします」
黒板の前に立ち、林先生の隣で小さく頭を下げた。パチパチとまばらな拍手が耳に聞こえたけれど、それよりも自分の心臓の音が体中に響いてうるさい。
ドラマや漫画で見たありがちなシーンは、想像以上に緊張する。この緊張感は、きっと経験した人にしかわからないだろう。
一番前の席の女の子が、にこやかに微笑みかけてくれた。だけどたいていの人たちは、わたしのことを観察するように眺めていて、後ろの席の男の子たちは、ふざけながらにやにやと笑っている。
注目されるのは苦手だ。突き刺さるような視線が痛い。早く席について、この場所から逃れたい。
「ええっと、新庄さんの席は……」
そんな先生の声を遮るように、教室の引き戸が勢いよく開いた。みんなの視線がそこに集中する。
「おはようございまぁす」
「由井くん? あなたまた遅刻よ?」
眉をひそめる先生に笑いかけ、悪びれた様子もなく、その生徒は堂々と前のドアから入ってくる。
ゆるんだネクタイ、茶色くて長めの前髪、肩にかけたスクールバッグ……。
――あ、この人……。
さっきグラウンドを歩いていた、あの男の子だ。
「あ、林先生。今、教頭先生が、先生のこと探してましたよ?」
「え、わたしのことを?」
「急用じゃないのかなぁ? なんか急いでるみたいだった。ちょっと職員室行ってみたら?」
「そうね……あ、新庄さんは、そこの空いている席に座っててね」
先生がそう言い残し、バタバタと教室を出て行く。途端に騒がしくなる生徒たち。
「ゆーい!」
立ちつくす私の耳に、誰かのひやかすような声が聞こえた。ふと視線を動かすと、さっきの男の子が目の前に立ち、わたしの顔をのぞきこんでいる。
「ヤバいな。マジかわいいじゃん」
「え?」
「悪いけど、ちょっとだけ目つぶってて。すぐ終わるから」
なに? なんなの?
次の瞬間わたしの唇に、あたたかいものがほんの一瞬だけ触れた。
その後のことは、よく覚えていない。
クラス全員の見ている前で、わたしは思いっきり、男の子の顔をバッグで殴りつけたらしいんだけど……。
「新庄さん、横浜から来たんだって?」
「うん」
「お父さんの転勤かなんか?」
そんなことを話しながら、わたしの前でお弁当の包みを開けているのは、自己紹介の時に笑いかけてくれた楠木さんだ。
ショートカットで背が高くて、いかにもスポーツやってますって雰囲気の彼女は、バレー部に所属しているって、さっき話してくれた。
賑やかな教室の中、一緒にお弁当を食べてくれる人がいてホッとした。たったひとりでぽつんと座っている自分の姿を、今日まで何度も想像していたから。
「ううん、お父さんは小さい頃に亡くなったから、いないの」
さらりと笑顔で言ったつもりなのに、楠木さんは申し訳なさそうな顔をする。
隠すのもなんとなく気が引けたし、正直に話しただけなんだけど。
それにわたし自身、お父さんのことはよく覚えてなくて、お父さんが亡くなったって実感も、あまりないんだ。
「そ、それでね、お母さんとふたり暮らしだったんだけど、今度はお母さんが入院することになっちゃって、この街のおばあちゃんちに……」
楠木さんが微妙な顔つきでわたしを見ている。
ひいたかな……ひかれちゃったよね。これじゃあ不幸自慢してるみたいだ。
わたしはできる限りあかるく微笑んで、話題を変える。
「あ、えっと……朝、雪が降っててびっくりしちゃった」
「ああ、今日が初雪だよ。これからもっともっと降るよ」
「どうしよう。わたし寒いの苦手だから」
わたしが少し大げさに両手を抱え込むと、楠木さんがやっと笑ってくれた。
「でももう、やんだね」
ふたりで窓の外を見る。
さっきまでちらついていた雪はいつの間にか止んでいて、雲の隙間から頼りない陽ざしが差し込んでいた。
「やだな……寒いの……」
ぽつりとつぶやいた言葉が本心だと自分で気づく。
やだな……引っ越しなんかしたくなかった。転校なんかしたくなかった。
こんなところ――来たくなかった。
ガラリと音を立てて教室の引き戸が開く。少しの冷たい空気と一緒に、男の子たちのふざけ合う声が聞こえてくる。
「来た。あいつら」
楠木さんがそう言って、箸をそろえて静かに置くと、右手で高く手招きをした。
「ちょっと、由井。こっちおいで」
コンビニの袋をぶら下げた男の子がこちらを振り向く。わたしはあわてて視線をそらす。
「なんだよ、茜。おれ、これから昼飯なんだけど」
「由井、あんたねぇ。ちゃんと新庄さんに謝ったの?」
朝のホームルーム。大騒ぎになったあの瞬間を思い出す。
「いきなりあんなことして。セクハラで訴えるよ、あんた」
ああ、もう帰りたい。今すぐここから逃げ出したい。
「あの……楠木さん。もう、いいから」
苦笑いを作って楠木さんに言う。だけどわたしの頼りない声は、楠木さんのヒートアップしていく声にかき消される。
「いいわけないでしょ! ゲームで負けたヤツが転校生とキスする、ってありえないし! どうしてウチの男子は、そういうバカな発想ばかり思いつくんだろうねぇ? 小学生よりひどいわ!」
楠木さんの隣で、他人事のような笑い声が聞こえる。
「笑うな、由井。あんたに言ってんの!」
「ああ、ごめん。でもほんのちょびっと触れただけだろ? あんなのキスとか言えないよ。なぁ、新庄さん?」
恥ずかしくて、腹が立って、泣きたくて……わたしはうつむいてしまった。
「新庄さん?」
そんなわたしの耳に聞こえる男の子の声。
「怒ってる?」
当たり前でしょ! そう心の中で叫びながら顔を上げたら、わたしのことをのぞきこんでいる彼と目が合った。彼は前髪の奥の瞳で、じっとわたしの顔を見つめてから言う。
「あんまん、食う? おわびにあげるよ」
コンビニの袋の中から差し出されたのは、まだ湯気の立っている白い中華まん。ごくんと飲み込む唾液を無視して、わたしは首を横に振る。
「あ、肉まんのほうがよかった?」
「由井ー、いい加減にしなよぉ?」
楠木さんが口を挟む。
「わかった、わかった。反省してる。ごめんなって」
ぐいっと手をつかまれた。あわてて引っ込めようとしたその手のひらに、温かい中華まんがのせられる。ゆっくりと視線を上げたわたしに、屈託のない笑い顔を見せる彼。
調子のいい人なのかもしれない。いい加減な人なのかもしれない。この笑顔にごまかされているのかもしれない。
だけど――この人の唇、すごくあたたかかった。
わたしはやわらかくてあたたかい中華まんを黙って見つめる。
「あー、新庄さん。放課後ヒマ?」
背中を向け、立ち去ろうとした足をふと止めて、振り返った彼が言う。
「ヒマだったら、一緒に帰ろうよ」
わたしは夢の中にいるみたいに、ぼんやりとその声を聞く。
転校初日の初雪の降った朝――わたしは由井くんって人とキスをした。