5(完)
一瞬、炎が和らいだ。
効かないとは分かりつつ、超常現象に慣れていない佼輔は、至極全うに消化器を持ち出し炎に噴射していた。案の定あの炎は消えるどころか勢いを増すばかりで、目の前で飲み込まれた創平の姿も依然捉えることができない。一体どうしたらいいのか分からず、ただ焦りばかりが募る。それは、腹を括っていっそ飛び込むか、と思った矢先の出来事だった。
和らいだ炎の向こうに、創平の姿が霞んで見えた。ほっと胸をなで下ろした佼輔。だが、彼はなぜか「ひとりではなかった」。
輪郭はぼんやりとしているが、一緒にいるのはどうやら己と同年代の男らしい。黒くやや長い髪に、赤褐色の瞳。思わずぞっとするほど美しいその青年は、立ちすくむ創平の腕を引き、――キスした。
さすがに佼輔は動揺した。同時に、その青年の正体がなんとなくだが理解できた気がする。
間違いなく見たことはないはずなのに、「知っている」。彼の記憶に該当する人物は、ひとりだけだ。
あれが、皆の言う「詞喰鬼」か。
何故今このタイミングで視えてしまったのか、と思ったが、かの鬼の行為によって縹色の炎が和らいだのは事実。創平のことはおそらくあの鬼がどうにかしてくれる。ならば、自分は相模をどうにかしなくてはなるまい……もちろん、嫌嫌でしかないが。
ためらいなしに、佼輔はその身ひとつで『鬼火』に飛び込んでいった。無謀にも程があるが、彼にとってそんなことは心底どうでもよかった。熱さは感じない。むしろ極寒の地にろくな装備なしで飛び込んでいったかのような、猛烈な寒さが全身を襲う。
この炎は、創平が生み出したものだとするならば――
佼輔の目に、人影が映る。相模だ。彼は気を失ってしまったらしく、ぐらりと体が斜めに傾いた。崩れ落ちる刹那、慌てて右腕を取る。そのまま引っ張り上げようとしたが、それを何かが静止した。佼輔の手に重なる、全く別の感触があった。
「人の、手……?」
ふと顔を上げると、相模の肩に何かがいる。黒く靄がかってよく見えないが、おそらく多分、“幽霊”とかいうやつだと彼は直感した。ゆらりと立ち上るそのひとつの影は、まるで蜃気楼のように捉えどころがない。だが、よくよく見てみるとその影の形には見覚えがあった。
そうだ、見たことがある。以前『隻影』の調査資料で確認した、現在最も保持している疑いが強いとされていた人物の顔だ。佼輔は小さく舌打ちした。
「武下、巽か……!」
たったひとつの影は、頷きもせずただ佼輔の行動をひたすらに止めようとしていた。彼は、このまま相模を消し去ってしまいたいのだろうか? そもそも、そんな形になっているということは、武下自身の生存はもう絶望的ではないか。死して尚、彼は相模を炎の渦につき落そうとしている。
違うだろ、と思った。
本当はもっと、彼にはやることがあったはずだ。先程まで一緒に車に乗っていた、まだ幼い彼の娘。あの子を育てたくはなかったのか。見守ってやりたくはなかったのか。こんな男を貶むことが本望ではないだろう! そこまで自分を貶めるんじゃない!
「っ、悪かった!」
そう思ったら、佼輔の口からそんな一言が自然と飛び出していた。燃え盛る炎の中、彼の言葉はこの黒き隻影に確実に届いているようだった。その証拠に、佼輔に触れていた力が弱まる。佼輔は続けた。
「あなたがこんなことになったのは……三代目・芦田團十郎が無理に『隻影』を武下氏から奪ったからだ。それを利用しあなたを直接貶めたのは相模ですが、元をたどれば私たちが悪い。恨むなら……どうか」
四代目である俺を、と言いかけたところで、少し離れたところから別の甲高い声が上がった。こんな場所に似つかわしくない、可愛らしい少女の声だ。その声の正体は知っている。武下桜だ。
振り返ると、腰を抜かしている行平たちの中、呆然とした様子で立ちすくむ桜の姿があった。後に篠宮が追いかけてきたところをみると、彼女は何かを察知して篠宮の元から逃げ出してきたらしい。その何かとは、おそらくこの場所にいる父親のことだ。
決定的だった。ゆらりと黒の隻影が動く。そして、炎の中をずるりと泳いで、桜の元へと近づこうとした。だが、炎の正体は本来“不幸”を触媒にする『鬼火』。それに捕らわれた武下が、炎から抜け出すことなどできやしない。今の武下は、まさしく“不幸”の塊なのだから。
その隻影を包み込むなにかがあった。……創平だった。黒の瞳はうつろで、円に支えられながらやっとのことで立っている。『鬼火』の影響を受けているのは、武下だけではない。触媒である創平も体力を使いすぎて満身創痍なのだ。しかし、今は動揺した気配などこれっぽっちも見せず、凛とした表情を伸びる隻影に向けている。
「行きましょう、巽さん」
創平が言うと、影は僅かだが頷いて見えた。
ふらつく足取りで創平は円と共に歩き、ゆっくりと桜に近づいた。そして呆けた表情でこちらを見上げる彼女にそっと笑いかけ、膝を折った。
「おとうさん……?」
桜が呟くと、影も創平と同じように、彼女の目線に合わせてしゃがみこむ素振りを見せた。創平の炎に焼かれたせいで傷だらけになっているが、きちんと彼は己の娘の前に姿を見せている。ありのままを。
「さよならなの?」
彼女の言葉に、この男はなんと思ったろう。しばらく桜の姿を見つめたのち、納得したように頷いて見せたのだった。創平には、はっきりと視えていた。このとき、“男”――武下巽が、誰よりも優しく、いとおしむように彼女に微笑みかけていたのだ。
影がどんどん消えてゆく。足元から徐々に、縹色の炎に溶けて混ざってゆくように。桜は決して泣かなかった。じっと唇を噛みしめ、懸命に堪えている。本当は泣きたいのかもしれない。だが、彼女はそれを良しとしなかった。
そして、……彼女は大きな瞳に涙を浮かべながら、最上級の笑みを見せた。
「ばいばい」
“男”の隻影は、もう残っていなかった。ただそこにあるのは、創平が放った縹色の炎だけ。同時にがっくりと創平の身体が傾いたのを、円が必死に支える。創平は意識を失っていた。完全にオーバー・ワークである。これだけ盛大に炎を燃やせば、当然か。
ちょっとやりにくいが、と円は無理やり印を結ぶ。肝心の触媒が役に立たないのでは、主である『詞喰鬼』が強制的に喰らう以外に炎を収束させる方法がないのである。祈りの姿にも似たその体勢、突然軽くなったのは――佼輔が創平を肩代わりしたからだった。彼の口元には、自ら回収した『隻影』が咥えられている。佼輔と円の視線が交わった。
――ようやく視えたか。それでこそ、芦田の子だ。
円がニヤリと笑い、己の祝詞に願いを込めた。
再び彼らが『不幸』に取り憑かれることのないように。武下も、その子供も、相模も、……そして、創平も。
集まりだした大量の『鬼火』。円は舌先でそれをなぞり、冷たい感触の中に宿る極上の『不幸』の味を堪能した。これはきっと、今までに類を見ない素晴らしい味がするのだろう。
「背負ってやるよ、あんたらの『不幸』」
何年も見ていれば分かる。人間は救いようがないほどに弱くて脆い。そのくせして、たまに何かの拍子に不思議な熱を見せつけてくる。本当は、鬼が喰らってやらなくとも『不幸』を打ちのめすものを持っているくせに、誰も気がつかない。だから、まだ鬼が『不幸』を喰らってやる必要があるのだ。そのための『詞喰鬼』。そのための『不幸』。
「ま、別に気付かなくてもいいけどさぁ」
そうして、彼は炎を一気にかっ食らった。
†
ふ、と創平は目を覚ました。ずっと眠っていたせいで喉はカスカスで、おまけにたくさん汗をかいたらしい。ほんの少し、だるいような不思議な寒気が背筋を走っていった。ゆっくりと己の右手を額に押し当て、その冷たさに思わず目を細める。
――どこだ、ここは。
『彼岸堂』に構えた自室でもなければ、財団の寮にある自室でもない。畳に敷かれたふかふかの敷布団にその身を沈めている創平は、無意識に畳独特の爽やかな香りに反応し鼻を動かしていた。木目が整然と並ぶ天井をじっと見つめながら長いこと考えて、ようやくこの場所を特定することができた。
三代目團十郎・清和の邸宅だ。
その時、す、と襖が引かれる音がした。
「あら、創平さん。目が覚めましたか」
その穏やかな口調の女性は、清和の抱える使用人の一人である。確か、創平が養子縁組を結んだ年にやってきた人物で、年齢も使用人の中では一番創平に近い。名前は……そうだ、寛子、だ。森内寛子。
創平は挨拶のために上体を起こそうとしたが、すぐに眩暈がしてふにゃりと布団に突っ伏してしまった。それを、慌てて寛子が窘める。
「駄目ですよ、まだ寝ていなくちゃ。あなた、三日も眠っていたんですよ。動くにしても、なにか食べてからにしてください」
「ああ、おれ、三日も眠っていたのか……」
ええ、と寛子は首を動かした。創平の右側に位置する障子を大きく開け放ち、す、と息を吸い込みながら。障子の向こうには、清和が愛する日本庭園が広がっている。季節は冬なので今はどの木々にも藁が巻かれているが、もっと温かくなれば梅の花も咲くし、つつじだって咲く。義父は意外と草花が好きなのである。
「……そうだ、佼輔さんからなにか聞いていませんか。本について」
そこでようやく、彼は例の『隻影』について思い出した。彼の記憶によると、相模氏との対局ののち、己が放つ『鬼火』によって武下巽の魂を相模ごと焼いてしまったはずだ。武下が持つあまりに強い『不幸』に過剰反応し、己の炎が自らを焼いて――
体に痛いところはないので、怪我はしていないはずだ。それより、あの本はどうなったのだろう。そして、武下の娘である桜は。それが気になって仕方がなかったのである。
答えを急かす創平に、寛子は非常に困った様子で肩を竦め、
「それはご本人から直接伺ってください」
と言った。はぐらかした、の方が正しいか。『本人』の一言に少々疑問を感じた創平だったが、その答えはすぐに分かった。廊下の大分遠くの方から、二人分の足音が聞こえてくる。
「よう。お目覚めか」
ひとりは佼輔だった。彼の名を呼ぶ前に、佼輔の横から飛び出した「誰か」が創平に飛びついてくる。大きさの割に軽い身体。視界を掠めるやや長めの黒髪。間違いない、円だ。
ほっとして、創平も彼にそっと腕を回した。
「まどか」
「この馬鹿」
円の第一声は実にひどい台詞だ。「あんなに燃やすやつがあるか。あの炎は、お前の命だって言っているだろうが……寿命を削ってどうするつもりだ」
「うん。ごめん」
「絶対分かってないだろ。お前は俺と一緒にいたくないのか」
「……ごめん」
円の語尾が、僅かに震えている。それに気がついて、安心させようと創平は回した腕にぎゅっと力をこめた。
あの炎の中で円が怒鳴った言葉も、しっかりと覚えている。あのとき、本当は不安だった。今までなるべく“芦田”の名を使わないようにしていたのは、自分が過去と決別できていなかったからだと嫌でも思い知らされた。心のどこかで、『不幸』な帷子創平が変わらずに存在していた。だからあんなことになったのに。自分は馬鹿だ。創平は思う。
不安だったのは、別に自分だけではなかったのだ。どうして気がつかなかったのだろう。あのとき己を叱った円も、また不安でしょうがなかったのだ。それが分かるからこそ、創平は今抱きついたまま離れようとしない円をむやみに突っぱねようとは思わなかった。幸い、佼輔も寛子も見鬼ではない。視えなければ恥ずかしくないじゃないか。
こんな調子で一人勝手に納得した創平。ところが、不機嫌そうな表情で創平を見下ろして佼輔が、ゆっくりと創平の頭の横に座りこんだ。そして、驚いたことに円の頭をがっちりと掴んだのである。
「こら。うちの義弟にくっつくな。創平も好きにさせるんじゃない」
とのお叱り付きで。
一体なにが起こったのか訳が分からず、ぽかんとしてしまったのは創平である。何度も繰り返し言うが、佼輔は見鬼ではない。見鬼がないからこそ、今の自分が芦田の名を冠している訳で。あれ、じゃあ今の行動はなんだ?
「こ……こーすけ、さん?」
恐る恐る尋ねると、ひっぺがされて超絶不機嫌になった円がおもむろに口を開いた。乱暴に人差し指で佼輔を差し、
「こいつ、この間の創平の『鬼火』に感化されて少しだけ視えるようになったらしい。微かに、声と影を捉えるくらいのレベルだが」
そして露骨に佼輔を睨めつけた。「ああ、そこらの鬼どもよりはるかに見目麗しい俺が、その辺の雑鬼と一緒に視えるなんてな。片腹痛いわ、四代目!」
「安心しろ、鬼には視えない。俺には黒くてでっかい狗にしか……」
「誰が狗だ! アレと一緒にするな!」
また妙な争いが生まれそうだったので、慌てて創平が仲裁する。というか、一体なにしに来たんだ、この連中は。
なんとかその場を収めると、気を取り直し先程寛子に尋ねたことをそのまま佼輔に尋ねた。
渋い顔をしたのに、創平が気づかないはずがない。
「……森内さん、お仕事中申し訳ありません。彼女をここに連れてきていただけますか」
「かしこまりました、四代目」
佼輔の言葉に、寛子が一礼し、すぐに部屋を出て行ってしまった。単に人払いしたかったのか、それとも。
判断できず言葉に窮していると、佼輔はようやく口を開いた。
「結論から言う。『隻影』は、無事『彼岸堂』に戻ってきた。これといった損傷もない。窃盗を行ったのは、松本組の……相模礼一直属の幹部だそうだ。証拠も出揃っているし、本人も認めているらしい。礼一自身は教唆にあたるとして逮捕された。もちろん正犯扱いだが、おそらく罰金程度で済むんじゃないかって話だ。本当は武下巽にも罪が及ぶはずなんだが、」
その、と珍しく佼輔が言葉を濁した。「……武下の死体が、近くの山林で発見された」
「そうですか」
創平はやはり、と言わんばかりに、深い溜息をついた。やはり、相模の右肩におぶさっていたあの“男”は武下巽だったのだ。篠宮が連れてきた桜を見て、ほんの少しだけ微笑んだこと……今も、はっきりと覚えている。きゅうっと胸が締め付けられるような思いがして、創平は苦しげに眉間に皺を寄せる。
「警察では、今のところ自殺と他殺両方から捜査しているらしい。例の幹部は関与を否定しているが……うん、そのあたりはもう俺たちの管轄から外れている。あとは警察に任せるべきだ」
「なるほど。大体分かりました。……おれには、何か処罰などはありますか」
「自宅謹慎二週間、だそうだ。親父が言うことだ、素直に従っておけ。篠宮も同じだ。そもそもお前ら、好き勝手に動きすぎなんだよ。あの状況、幼女誘拐だって言われてもおかしくなかったんだぞ。篠宮をつけておけば安心かと思ったら、あいつまで常識から逸脱した行動を取りやがって。いいか、芦田財団は信用を売りにしているんだ。……軽率なことは、するんじゃない」
叱られるのは当然だ。それをきちんと理解しているからこそ、創平は口答えなどせず、素直に謝罪の言葉を述べた。謝って済むことではないと分かっている。だが、今の自分ができることはそれくらいだ。
その様子を見て、佼輔もふっと息を吐き出した。
「まぁ……親父が二週間の謹慎を言い渡したのも、おそらくお前に充分な休養を取らせたかったからだろう。存分に休んで、あとのことはそれから考えろ」
その時、ぱたぱたとスリッパの音が廊下の向こうから聞こえてきた。寛子が『誰か』を連れて戻ってきたのである。幾分ゆっくりとした歩調になっているのは、その『誰か』の歩幅に合わせているためだ。小さな体は、創平が知るものより大分しっかりとしていた。子供独特のどっしりとした立ち姿に、不思議と安心するものがある。
「桜ちゃん……?」
そう、寛子に連れられてきたのは、あの武下桜である。佼輔の口ぶりからすると、彼女はきちんと家庭調査官に預けられたはず、だが。
桜は創平が目を覚ましていることをとても嬉しく思っているようで、すぐにぱっと明るい表情に変わった。本当は今すぐにでも飛び付きたい、といった様子だが、気を遣ってかすぐに駆け寄ろうとはしなかった。円とは大違いである。
「ちょっとした報告だ。俺たちに、今度新しく妹ができるらしい」
「へえ……って、今、何と?」
「まだ正式手続きは済んでいないが、あの子はうちで引き取ることになると思う。……元々、武下の一族から無理に『隻影』を引き離したせいで武下巽があんなことになったんだろ。あの子の幸せを奪ったのは俺たち大人だ」
だからせめてもの償いに、と三代目が彼女を引き取りたいと申し出たらしい。彼女を幸せにしてやりたい、なんて言葉は結局のところ大人のエゴでしかない。それは分かっている。だが、しかし。
「同じエゴなら、あの子をひとりにするエゴじゃなく……出来合いだけど、家族を与えるエゴの方が幾分マシじゃないか。将来、恨まれることになるとは思うけれど。これは芦田が継ぐ罪だ。俺もお前も、絶対に忘れてはならない」
「佼輔さん……ちょっとだけ、反論していいですか」
おいで、と創平が呼ぶと、嬉しそうに桜は佼輔と円の間を割って入った。そして、数日前創平が彼女にしてやったように、今度は桜が創平の頬に手を当ててくる。だいじょうぶ? と可愛らしい声で尋ねてくるので、微笑ましいと思いながら創平はゆっくりと首を縦に動かした。
「多分、この子は恨んだりはしないと思う。この子は、自分の父親が見せた最期の顔を知ってる」
恨むとしたら、その対象は芦田ではないだろう。創平は続ける。「それよりも、おれは彼女がもう二度と悲しまないように、幸せでいっぱいにしてあげられたらと思うんです。甘い考えでしょうか?」
いいや、と佼輔は首を横に振る。
「……お前らしいよ、本当」
だから好きなんだ、とは言わず、彼もまた桜の頭を撫でてやったのだった。
了




