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もやもやとした気持ちを胸に抱いたまま、ようやく創平は『彼岸堂』に戻ってきた。佼輔が「送ってやる」と喰い下がってきたが、丁重にお断りしてきた。別にそう距離がある訳ではないし、何より頭の整理がつかなかった。だから、歩いて頭を冷やそうと思ったのだ。
随分ゆっくりと歩いていたので、『彼岸堂』に着いた頃にはもうすっかり外は暗くなってしまった。先程まで己の左側を照らしていた燃える西日の熱を恋しく思う。
彼の頭の中では、先程の佼輔の言葉が延々と繰り返されていた。
義兄弟じゃなければ、とは、時々思う――
そんなのごめんだ。というか、
「どうしておれの周りには趣味がずれた人が集まるんだ……」
帷子創平、二十五歳。好みのタイプは巨乳女子、を自負しているのにも関わらず、未だそういった縁はない。むしろその逆ばかり集まってくるのは何故だ。からかわれているのならそれで構わない。しかし、先程の言葉を吐いた彼の目は。
間違いなく本気だった。
初めて会った時とは大違いだ、と創平は小さくため息をつく。
――彼らが対面したのは、創平が十九歳のとき。某暴力団事務所の中という、明らかに普通でない場所での出来事だった。今だから平然と回想できるが、勿論シチュエーションもかなり普通でない。
当時帷子少年は、いつもの賭博場(無論、非公認である)で、一番得意な花札で、いつものように生活費を稼いでいただけだった。まあ多少のいかさまはしたけれど、そんなものこの世界では常識である。誰でもやっていることだ。それなのに。
この日は、相手が悪かった。
いかさまがバレて、やたら厳つい男どもに引きずられてやってきたのがこの暴力団事務所である。帷子少年、神経だけは図太いと自負していたものの、さすがに肝を冷やした。まさか拷問だろうか、と身を固めたが、実際はそれ以上に卑劣な行為が待っていた。
服を裂かれねっとりとした息を吹きかけられ。肌を撫でられる感覚は今でも忘れない。恐いと初めて思った。拷問だったならばどんなによかったか!
本格的に事に及ぶという寸前、ドアを突き破ってきたのが、後の四代目團十郎・芦田佼輔だった。
後から聞いた話だが、芦田財団は一年以上『とある事情』により借金まみれの帷子少年を監視していたらしい。当然彼が失踪した両親に代わって借金を返済すべく賭博で金を稼いでいたことは把握していた。毎回大勝利を収めている彼だから、監視側もまさかこういう状況になるとは思っていなかったようで、慌てて突入したのだと言う。
そして、この後『とある事情』を聞かされた帷子少年は、三代目團十郎・清和と養子縁組を結ぶことになる。当時の借金は三代目が全額肩代わりした。『とある事情』を果たすべく、創平を司書にしようと大学にも入れた。こういう経緯があるため、創平は芦田財団に頭が上がらない。全うな道に引き戻してくれた恩を返したい。そう考え創平は、自分で稼いだ全うな金を三代目に地道に返済し続け――現在、ようやく三分の一返済できた。
そんな訳で、佼輔はいわば創平にとっての救世主だったのである。それなのに、だ。たまに呼び出されて半端に遊ばれるとなると、その信頼すらも崩れ去るというものだ。
ただいま、と戸を開けると、玄関先に自分のものではない革靴が並んでいた。
これは、と思うと、奥からその本人が顔を覗かせる。
「あ、創平くん。おかえりなさい」
「篠宮さん」
彼――篠宮馨は、先述の通り創平の直属上司である。かつては『彼岸堂』の専属司書も担当していたのだが、円とは面白いくらいに馬が合わなかった。だからこんな場所に彼がいるはずはないのだが。そう考える創平に彼はにこりと笑いかけ、ゆっくりと手招きしてくる。
「お腹すいたでしょう? ご飯はできているよ。よければ」
その時、奥からひょこっと円が顔を覗かせた。創平を見るなり露骨に顔をしかめたと思ったら、速足で近づいてきて、そして首筋に鼻を押し付けた。まるで大きな犬だ。伊達に長生きしていないはずなのに、人間らしい行動というものをなかなか覚えてくれない。
「うわ」
「……佼輔の匂いがする。一緒だったのか?」
きらりと紅玉の瞳が光る。こういうところだけやたら鋭いのが円だ。まあ一緒だったのは事実だし、別に彼が不満に思うようなことはなにひとつやっていないつもりなので、「ああ」とやんわりと頷いておいた。
しかし、いつもならば「ああ、そう」くらいで済む反応が、今日は違った。珍しく必死に創平の顔を覗きこんで、
「何かあったろう」
としきりに尋ねてくる。――やはり変なところで鋭いのだ、この鬼は。しかし先程の一件を話そうものなら、翌日あのマンションは血濡れの大惨事になっている。それだけは勘弁してもらいたい。創平は円の肩を叩きながら、へらへらとした作り笑いを浮かべた。
「大丈夫だから。曲がりなりにも、おれの兄弟だぞ」
「だからだよ」
どきりと心臓が跳ねた。その動揺した表情を、後ろで見ていた篠宮も異変として捉えたことは事実だった。
†
篠宮が珍しく『彼岸堂』を訪れたのは、やはり佼輔直々に連絡を受けてのことだった。創平に話す前から彼の元へ依頼されていたらしく、むしろ創平の方が事後報告という扱いになっていたのは言うまでもない。
二階の奥にあるダイニングに何故か三人で座り、少し早めの夕食を摂ることとなった。出来たばかりの煮物を小皿に盛り分けながら、篠宮はにこりと微笑んだ。
「早速明日武下の部屋に行ってみようと思うんだ。詞喰鬼、そういう訳で創平君を借りていくよ。答えは聞いていないから、安心して」
「どこが安心できるんだ馬鹿」
本日も例外でなく、篠宮と円が喧嘩し始めた。創平は円をなだめつつ、わざわざ篠宮が準備してくれていた夕飯に箸をつける。半分住み込みで働いている創平は、『彼岸堂』で食事を摂ることの方が多い。だから食材も調味料も一通り揃っているが、しかし何故篠宮が料理していたのか。それだけは未だに理解できずにいた。
というのも、篠宮の料理は美味しくないのである。
味オンチの創平は美味しく頂けるが、その他の人々にはお断りされる方が多い。それを篠宮自身も理解しているのにも関わらず、だ。
少しだけ辛い煮物をつまみながら、創平はぼんやりと考える。……篠宮は、円ほどとは言わないが察しのいいところがある。もしかしたら、元気がない状態で帰ってくることを予測して準備してくれていたのかもしれない。また心配かけてしまった、と創平の気分が沈み始める。
左手首の痣がちり、と痛んだ。
「聞いてる? 創平君」
「え? ……ああ、すみません」
「しっかりしてよ。それで、創平君は四代目から聞いているのかな」
「ああ、はい」
武下巽のことですね、と頷く。「詳しいことはあまり。ただ、『隻影』が『彼岸堂』から持ち出された盗品であることは聞いています。とすると、武下が窃盗を行ったのでしょうか?」
「違うよ、彼じゃない」
さっぱりとした口調で篠宮が答えた。さすが前任者、勤務期間は短いものの『彼岸堂』に所蔵されている本の経緯は把握済み、という訳だ。
「元々『隻影』の持ち主は武下巽の御尊父にあたる、武下進のものだったんだ。それを、三代目率いる芦田財団が半ば強制的に回収してしまった。勿論理不尽な理由ではないよ。でも、当時の三代目はちょっと強引なところがあったから……ああ、強引なのは彼に始まったことじゃないか」
確かに、芦田の血筋の者は皆強引なところはあるが。その一部が自分の中にあると考えると、創平はほんの少しだけ嫌気がさした。もっと歳を重ねていったら、自分もあの三代目・四代目のようになるのだろうか。もっと穏やかに暮らしたいものだ……。
またろくでもない方向に思考が持っていかれたところで、はっとした創平は篠宮に続きを促した。
「その、理由というのは?」
その質問に、今度は円が口を開く。
「創平。呪詛って分かる?」
あまりに唐突な質問に、え、と口を開け広げた創平。しかしすぐに、彼の頭の中に内在する語彙の引き出しを開けて簡潔に答えた。
「恨みに思う相手に災いが起るよう神仏に祈願すること。広辞苑参照」
「正解。さすが俺の創平君」
いつからお前のになった、と小突くも、円は気にせずに話を続けた。
「普通は俺だって、そういう類のものを無理やり奪おうなんて思わないさ。芦田のおっさんですら嫌がっていたからな。だが、どうしても取らなければならなかった」
「……その理由が、呪詛?」
こくりと円が頷いた。
「武下の家系、かな。細かい経緯はよく分からないが、どうやらその本はかなり昔に武下の住む村にふりかかった災いを封じ込めたものらしい。武下の家系はその守人……いや、生贄か。当時はあの家に呪詛を抑える祈祷を行える者がいたんだが、武下進の二代前に潰えてしまった。六十年くらい前にでっかい戦争があったろう、その時に最後の一人が死亡したそうだ。守る術のない状態で武下の元へ置いていたら、とんでもないことが起こるかもしれない。だから戦後から、財団二代目の……えーと、泰守か。あいつが武下にずっと交渉し続けて、進のときにようやく預けてもらえることになった」
随分と長く続いてきた問題であることは理解できた。ふむふむ、と創平が頷いていると、きらりと円が鋭い視線をこちらに向けてきた。その視線にどきりとして、思わず煮物の椎茸を取り落としそうになった。
「他人事だと思いやがって。敢えて言っておく、その呪詛を抑えるのはお前の仕事だぞ」
「はい?」
そのリアクションに、ああやはり知らなかったのか、と円と篠宮はやたら長いため息をついた。知らなかったのは当事者だけ、という奇妙な構図だったようだ。ぽかーんと呆けていると、補足説明のために篠宮が口を開いた。
「創平君。君はどうして三代目のところに養子に来たの?」
「え、初代が持っていたはずの“痣”が、隔世遺伝でおれに引き継がれてしまったから……?」
分かってるじゃん、と円が口をはさんだ。
「“痣”がある、すなわち不幸に反応して言霊に火を灯すことができるのは團十郎の他に創平君だけなんですよっ! だから『隻影』をさっさと燃やしてくれれば、あとは俺が呪詛ごと喰うことができるんだ。あーもう、創平がここの司書になるっていうから、資格を取るまで四年も待っていたのにさ」
あーそうか、と創平がようやく納得して、数回頷いた。ここまで辿り着くのにものすごい時間と労力をかけてしまった。いや、初めに説明しておかない佼輔がいけないのか。円はわざとらしく息を吐き出す。
「ずっと待っていたんだぞ。團十郎以降、本家には“痣”を持った人間が誰ひとり生まれなくて。佼輔に至っては見鬼の才すらないじゃないか。まさか妾の方に“痣”が引き継がれるとは思っていなかった」
だから、と円は鋭い口調で言い放った。
「総じて一〇七年も俺を待たせた分、きっちり働いてもらうぞ。帷子創平!」




