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 ちりぃん。

 高らかに鳴り響くのは、古い木製の扉に取り付けられた真鍮の鐘だ。ゆっくりと『彼岸堂』の戸を押し開けると、玄関ホールはしんと静まり返っていた。唯一聞こえるのは、まだ頭上で反響している鐘の音だけである。

 おや、と思ったのは、芦田財団・彼岸堂図書館管理課所属の篠宮馨(しのみやかおる)である。いつもならば、この洋館の二階にある居住スペースから二人分の口喧嘩が聞こえてくるのだが。今日は本当に静かだ、静かすぎて逆に気味が悪い。

 彼は封書が詰め込まれた紙袋と、自身がいつも使っている黒い革の鞄を携えている。前者は全て、現在この私設図書館で専属司書を務めている男への手土産なのだが、その本人が一向に姿を現さないのでは意味がない。ふ、と篠宮は息をつくと、少し長い鳶色の髪を後頭部へと流す。

 そして、

「おい、詞喰鬼(しさんき)!」

 彼にしては非常に珍しい大声を上げると、数秒後、一階玄関ホールの左側・司書室からひょっこりと一人の男が顔を覗かせた。黒く肩まである長い髪を後ろで束ね、濃紺のシャツを身に纏った彼は、不機嫌そうにその独特な赤褐色の瞳を篠宮に向けた。

「大声を出さなくても充分聞こえるぞ」

 この男は、所謂美形である。こんなにしかめっ面をしていても、それが気にならないくらいに顔立ちは整っているし、正直なところ男から見ても格好いい。こんなに粗野な態度を取らなければ、きっとそれなりにもてるのだろうに、とも思う。そう、『人間』であれば。

 生憎、この美形は同じ種族ではないのだ。それを理解しているからこそ、篠宮は劣等感を感じずに済む。人外ならば、見た目が人外であっても問題ない。そういう一方的な持論が彼にはあった。

 篠宮は彼の姿を捉えると、ようやくいつもの穏やかな表情に戻った。そして、荷物を床に置きながら尋ねる。

「創平君は? 今日は出勤日のはずだけど」

「外出中だ。清和(きよかず)のところに行っている」

「三代目のところに?」

 困ったな、と篠宮は呟きつつ、手荷物の中から長方形の紙箱を取り出した。「仕事の話をしに来たんだけど。あ、これは創平君に。岩永屋の羊羹、確か好きだったと思うんだけど」

 確かに、それは創平のお気に入りの茶菓子である。その美味しさは、詞喰鬼――(まどか)も本来物理的な食事は摂らなくてもいいにも関わらず、時々食べたくなるほど。さすが老舗は違う、と口にするたびに二人して称賛する羊羹でもある。

 こういうまめまめしいところが、篠宮の良いところでもあり、同時に円を苛立たせる要因でもある。少なくとも、本来の円はもっとクールなはずだ。それなのに、創平がやってきてからはどうだろう。彼は創平に関わることとなると完全に人が変わるのである。鬼に対して人が変わる、という表現が適切かどうかは知らないけれど。

「仕事だなんて聞いてないぞ。正式な書類は届いているのか」

 羊羹に害はない、という意思表示か、それだけはしっかりと受け取りつつ、円は尋ねた。露骨に不快そうな表情を浮かべているけれど、篠宮は敢えて無視する。

「ここにある。そもそも、今回は四代目直々の依頼だ、断れるはずがないだろう。ちょっと手ごわい話だから、事前に打ち合わせしようと思ったんだけど」

 円の鋭い瞳が、篠宮の双眸を睨む。

「四代目、だと?」

 嫉妬の矛先は、どうやら自分だけではなく財団幹部にまで及ぶらしい。ここまで徹底されると、逆に尊敬してしまうほどだ。

 別にあの司書を誰も取って食ったりはしない、むしろ喰っているのは詞喰鬼ではないか。少なくとも、自分はそうしないだろうな、と篠宮は思う。確かにあの司書は変わり者で、ちょっと可愛いところがあって非常に面白いが。……今のところ、壊したい願望はない。

「創平君も大変だな……」

 それにしても、よくこの鬼を懐柔できるなあ。そういう意味で、篠宮は内心創平を称賛するのだった……。



 芦田邸の門を出たところで、彼・帷子創平(かたびらそうへい)はほっと胸をなで下ろしていた。月に一度、とある事情でこの家を訪れている創平だが、どうも落ち着かない。彼には格式が高すぎるのだ。決して育ちがいいとは言えない創平は、毎回と言っていいほど粗相がないかどうかの方に思考が持っていかれてしまい、結局気疲れして帰ってくる。この様子からすると、今回も例外ではなかったようだ。

 仕事でなければ絶対に着ないスーツのネクタイを適当に緩めながらのろのろと歩いていると、向かいからやってきた一台の乗用車が突然自分の横で停車した。

「よう。今帰りか」

 シルバーの光沢がやたら眩しいセルシオ。ちらりと横目で見やると、その運転席から身なりのいい、しかしどこかやんちゃそうな印象の男が顔を覗かせた。薄い金の短髪がやたら目立つこの男は、創平が非常によく知る人物である。

「佼輔さん」

 創平が静かに呼んだ男――四代目團十郎・芦田佼輔(あしだこうすけ)が、微笑みながらひらひらと手を振っていた。そして、「乗りなよ」と右手で合図を出す。

 恐縮しながらも創平は助手席に乗り込み、扉を閉めた。シートベルトに手を掛けながら、

「一体どうしたんです? 今日は箱根まで出張していると聞いていましたが」

 尋ねると、まいったな、と佼輔が肩を竦めた。どうやらそんなところまで聞かされているとは思っていなかったらしい。まあもっとも、それは創平自身も今日芦田邸を訪れなければ知り得ない事実ではあったが。

「箱根は行ったよ。予定が早く終わったから、さっさと帰ってきた。後ろに土産も乗ってる」

 彼が指した後部座席には、確かに乳白色の紙箱が乗っている。しかし、あれは。

「酒ですか」

 佼輔は自他共に認める大酒飲みだ。コレクションも両手で数え切れないくらいにたくさん所有しているようで、自宅にもそれ専用の棚を設けるほどだ。

 ハンドルを切りながら、「だってそれくらいしか楽しいことはないだろう」と口をとがらせる佼輔は、実年齢よりほんの少しだけ幼く見えた。実際のところは、創平よりも十は年上なのだが。

 信号が赤に変わり、停止線に合わせて車が停まる。静かなエンジン音。背中越しに伝わる振動も限りなく少ない。その静けさに創平は正直嫌気が差していた。こういうときは、多少うるさいほうがいいのに、と思う。そうすれば、多少のことは聞き流せるのに。

「親父のところか」

「ええ、まあ」

 創平もゆっくりと頷く。「ようやく三分の一、返せました」

 目の前の信号が青に変わり、再び車は走り出す。止まった景色が徐々に動き始め、加速してゆく。

「別に返さなくてもいいんだぞ。別に身内なんだし、親父はそうしたいと思ってやっただけのことだ。芦田、創平君」

「その名前で呼ばないでください」

 あまりに鋭い口調になってしまったことに、創平自身も驚いたらしい。一瞬目を瞠ったのち、すみませんとすぐに付け加えた。別に構わない、と佼輔は左手を振る。彼からしても、別に卑下する意図で言った訳ではないのだ。むしろ気に障ることを言った自分の方に非があるので、彼は一言詫びを入れたのだった。

 しかし、創平は首を横に振った。

「……まあ、戸籍上は間違いなく芦田創平ですから。その、ちょっと苦手なんです。どうもおれじゃない気がして」

 そういうもんか、と佼輔は呟いた。

 創平はちらりと佼輔の横顔を仰いだが、彼は無表情のまま坦々と運転をこなすだけだった。こういうところが、佼輔のいいところだと創平は内心思う。会話に置いて、人との距離感が分かる人はなんとなく付き合いやすい。思えば、初めて出会った時からそうだった――

 ぼんやりと回想しようとしたら、唐突に佼輔の声が耳に飛び込んできた。まるで諭すような、彼にしては珍しい口調である。

「お前はいつもながら、几帳面すぎる。芦田の血が少なからず入っているくせに、俺たちとは全然違うもんな。我が義弟(おとうと)として、将来が心配だ」

「そりゃあ、おれの大部分が全然違う遺伝子で成り立っているんだから、しょうがないでしょう」

 ところで一体何の用だ、と創平が尋ねると同時に、佼輔は軽やかにハンドルを切った。その仕草が一種の暗黙の了解のようなもので、創平はすぐに察した。

 どうせ、いつものように“暇つぶし”なのだろう。嫌われていないことだけが唯一の救いだが、本当に彼はどこまでもマイペースだ。思わずふ、と溜息をつくと、観念した創平は肩を竦める。

「分かりました、お付き合いしましょう。ところで、給料は出ますか?」

「篠宮に掛けあってやるよ。つーか、本当にお前の頭の中は金ばっかだな。可愛い顔に似合わず」

「可愛いかどうかは別として……、世の中金です。これは事実だし真理でもある。おれはそう思っています」

 そこまでさっぱりとした口調で言われてしまうと、何も言い返すことができない。俗に言うお坊ちゃんの佼輔ですら、こんなに割り切ったことは言ったことがないし、思ったこともない。ここまで人の感性をひん曲げてしまう生活環境というやつは、本当に残酷だよなあ、と佼輔はぼんやりと思った。



 創平は佼輔の自宅であるマンションの一室を訪れていた。

 芦田邸という立派な家はあるが、家主である三代目團十郎・清和と根本的な生活リズムが異なることを気にしてわざわざ別宅を購入したそうだ。引退してはいるものの、清和もまだ芦田財団を支える重要人物の一人だ。せめて夜くらいはゆっくりしてもらいたいという佼輔のささやかな気遣いである。

 とはいえ、出張がやたら多い佼輔がこの部屋に帰ってくるのは月に数回程度。ほとんど意味がないと思われるその部屋は、実は創平が時々訪れては掃除して帰っていることから成り立つようなものである。

 ところで、創平が三代目團十郎と養子縁組を結んだのがつい四年前の出来事だ。嫡男である佼輔に戸惑いや確執という感情があったかどうかと言えば、若干の疑問がある。確かに初めは互いに距離を置いていたけれど、佼輔はそういうことで神経をすり減らすよりは仲良くしておいたほうがいいだろう、と考えたようだ。おかげで創平も多少は懐いて、時々誘われては暇つぶしに付き合う程度の仲になったという訳だ。

 さすが創平、掃除が上手だねぇと嬉しそうにしている佼輔の横で、創平は途中で調達してきた食料品を冷蔵庫にしまい込んでいる。どうせこの人は放っておくと出来合いのおかずばかり食べるのだ。上に立つ人物というものは身体が資本だというのに、そのあたりは無頓着だ。

 ひとしきりしまい終えると、創平は独り暮らしにしてはでかいソファの背もたれにスーツの上着を掛けた。ネクタイを緩めつつ、小さく欠伸を噛み殺していると、

そーへー君(・・・・・)

 右耳のすぐそば、息がかかるほど近いところでゆっくりと名を呼ばれた。驚いて身を震わせると、そのままぐいと引っ張られ、次の瞬間には見上げてもいないのに天井にぶら下がる照明器具が見えていた。……押し倒されたと気付くのに、そう時間はかからない。だが、どうしたらいいかという答えが全く出てこなかった。混乱し目を剥く創平の頬に、するりと佼輔の手が伸びる。押し潰してしまわぬよう、僅かに身体を浮かせる佼輔。ぺたり、と触れる掌は、ほんの少し冷たかった。

「隙だらけはよくないよ。いつ何時襲われるかなんて誰にも分からない」

「こ、こーすけさ……」

「ね?」

 少し掠れた低音がぞくりと鼓膜を撫で上げる。黒の双眸が徐々に近づいて、ついに焦点が合わなくなった。

 こりゃあまずい。創平は咄嗟の一言をぶつけた。

「おれ、そっちの趣味はないです」

 ぴたりと、佼輔の動きが止まる。

「しかも、き、兄弟。義理だけど、兄弟ですよっ。近親相姦はよくないですよっ」

 数秒の後、ぷ、と頭上で佼輔が噴き出した。肩を震わせ、必死に笑いを堪える姿に、逆に創平が恥ずかしくなってしまった。何か間違ったことを言っただろうか、いや、確かに日常会話で出てくるような単語ではないけれど。どうしよう、と思っていると、

「やっぱりお前、面白い。からかい甲斐がある」

「か、からかっていたんですかッ……!」

 ぼっ、と顔が赤くなるのが分かる。きっと今、ものすごくおかしな表情をしているのだと思う。そう考えるとより恥ずかしくて、正直穴に入りたかった。穴がなければ自分で掘って埋まってしまいたいくらいだ。

「まあいいや。ちょっとお仕事の話をしようよ」

「その前に」

「ん?」

「どいてくれませんか」

「やだ」

 あっさり却下されてしまった。

「ちょっと怖いお仕事を頼みたいんだ。勿論サポートに篠宮の奴をつけるし、なんならあの詞喰鬼にがっつり『不幸』を喰わせてもいい。頼まれてくれないか」

「内容によりけり、です」

 創平の黒い双眸が佼輔を睨めつけた。仕事の話となると、先程までの面白い顔から一転、真剣な表情になる。怒っているのかと思う程に、その表情には凄味が増すのだ。それだけ、彼は『仕事』という責任の重さを理解している。やはり彼は几帳面だ。

「とある暴力団から、本を一冊回収してほしい」

 本、と創平が呟いたのを、佼輔は見逃さない。正直なところ、かかった、と思った。彼を動かすには、本の話をした方が早いのだ。

「本の元々の持ち主は武下巽(たけしたたつみ)。本の題は『隻影』だ。しかし、問題があって」

「……武下とか言う男が闇金の取立屋に追われていて行方不明、しかも本はバック・グラウンドにいる暴力団に質として回収されているとでも言うんじゃないでしょうね」

「その通りだ。なんだ、やはり類は友を呼ぶってやつか」

 後半の部分はさらりと聞き流して、ふむ、と創平が呟いた。

「強奪……は、できないですね。一応相手が暴力団とはいえ、正当な権利がある訳ですし。黙ってお金を払って返してもらった方が無難でしょう。ところで、なんでそんな本を欲しがるんですか」

「『隻影』は元々『彼岸堂(ウチ)』の蔵書だ。盗品なんだよ」

 それにはさすがの創平も想定外だったらしく、目をぎょっと丸くした。まさか『彼岸堂』の蔵書が外に出ることがあるなんて。あの図書館のセキュリティは、自分が知る限りそんなに軽いものじゃない。書庫に辿り着くまでに防弾扉を三枚ほど開けなくてはならないし、その鍵を持っているのも代々務める専属司書のみだ。

「篠宮から創平に引き継ぎがされる間の二年。あの時は例の詞喰鬼が一人で業務を行っていたんだが、その時にね」

 創平はようやく理解した。円一人なら、今のような徹底した管理はできないだろう。なにせ相手は詞喰鬼だ。『不幸』には恐ろしいほど執着するが、本それ自体にはあまり興味を示さないのだから。

 どうせ答えは「はい」と「イエス」と「了解」と――そう考えたところで、創平の頭の片隅に円の姿が浮かんだ。そうだ、どうも円と佼輔は根本的なところが似ているのである。佼輔が芦田家においてはかなり珍しい、詞喰鬼の姿が『見えない』身体だから、きっと佼輔は知る由もないだろうが。

 分かりました、と頷くと、佼輔はひとつだけ頷いて、おもむろに起き上がった。ようやく拘束状態から解放され、ほっと安堵したのもつかの間。

 上体を起こした創平の頭をぽんと叩く。佼輔は無表情のままだ。

「ま、義兄弟(きょうだい)じゃなければ、とは、時々思うけど」

「え?」

「さっきの、俺は結構本気だったんだけどさ」

 ぞわ、と猛烈な寒気が襲った。

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