ゆりかごの森
「惑いの森、ですか……?」
疑問を繰り返したのは最近顔を出すようになった客へのもてなしを用意していた時だ。
大きく頷く夏梅に真剣さを読み取って紅茶をカップに注ぎ、腰を落ち着けた。それは戦闘時以外では穏やかな性格を指定されている鬼灯が天然の鈍さを持った珠洲であっても同じだった。
「本当は博士も同行する予定だったんだ!でも、」
(ああ、可愛らしいです……夏梅さん。)
「置いてかれたんだ」と小さく、本当に小さく紡いだ夏梅は端の上がった猫のような大きな瞳を水分たっぷり潤ませ、俯いた。
「えっと……、ご愁傷様です?」
博士と夏梅の関係はどんなものなのか、鬼灯にはわからない。
だが、だからこそ傍からは夏梅ばかり博士に心酔しているようで、今回のように博士一人で出かけられるとなると、どういったものかと困る。
博士も傍に置いているぐらいだから夏梅を嫌っているわけではないようだが、いつも笑顔で分け隔てなくフレンドリーな交友が果たして夏梅にももたらされているかといえば鬼灯には疑問なのだ。信頼関係を築いているというより、主従のようだと考える鬼灯。夏梅もそれを自覚している。だからこそ、八つ当たりする。
「性格変わりすぎなんだよっ!お前!」
「そ、そんなこと言われても、人格が違いますし……。」
言い放ち、冷め始めた紅茶を一息で飲む夏梅。鬼灯は困った顔で、それでも加奈の性格を援護する。それは鬼灯でなく、珠洲の役割として。
「カナちゃんは凄い人なんですよっ!すっごい尊敬できるんです!」
勢い込んで話す鬼灯に先ほどまでとのギャップから一瞬怯み、それでも夏梅はこんなときだからこその強気で言い返す。
「何がどういう風に尊敬できるのかわかんないねっ!お前も要領を得ないし、ウザイ。」
「ひ……っご、ごめんなさ―――」
眼を吊り上げ怒鳴るように返した夏梅に今度は鬼灯が怯む。というより完全に怯え、涙目で謝りながら後退した。
「あーもう!だからウザイ。泣くな。」
バンッと机を叩くようにして立ち上がり、
「泣くほどかなー!意志が弱い!だったら最初から反論するなよっ!」
指差し、指摘する。か弱い感じに涙を浮べるのは他から見れば夏梅だけでなく鬼灯にも可愛いという言葉が当てはまるのだが、実際には別格として扱われている二人なのでそれを言い添えてあげる者もいない。況してや、ここには第三者がいなかった。
「いい加減、遊んでるな。行くぞ。」
資料を携え、ドアから入ってきた迎。既に準備万端という装丁だ。
それに対して鬼灯は驚くでもなく、眼鏡を外して一瞬で人格を入れ替えた。
「そんなの磁場じゃないの?」
惑いの森の原因究明なんて。と加奈の人格へと切り替わった早々に疑問を投げる。
強気に否定するのは珠洲では絶対になかっただろう。加奈だからこそ。しかし鬼灯であることに変わりはなく、どちらも同じ考え。口に出すか出さないか、その言い方・態度の違いでしかない。
鬼灯は仕事を軽んじるつもりはない。が、何を考えてそんな仕事を寄越すのか、とは思う。
前回の人探しにしても、他に適材はなかったのか。
「違うだろうな。」
憶測を口にするとは珍しい、と鬼灯は思った。
迎はいつでも断定口調。明確でなければ行動はしない。不明な事は部下を走らせ、詳細を待てばいいという考えの持ち主だ。今回はろくな調査も出来なかったのか。
「安易に出入りが出来ないそうだ。入ったら任意に出れない。方位が見えないのは確かだそうだが、磁石はそれなりの働きを見せている。」
危険度が高いせいで幾度も繰り返し人を使うには都合が悪い、ということか。
そんなことを語りながらその扉を通る。接触した部分から表面に水のような波紋が広がる。
“異界”の扉、空間を歪ませ人を惑わせ、世界と世界を繋ぐための道具。
「確かに、異界のようね。ここから亜種空間が広がってる。」
地面に付いた足。森の入り口に到着したようだった。
下調べの目的はこのように扉を繋ぐ場所の設置の役割もある。
迎は地面に転がる石を拾い、放り投げた。しかし、それは返ってくる。
「壁じゃないな、歪みか。」
放物線を描いた石の軌道は滑らかで、速さが遅くなっている。跳ね返ってきたのなら速度は上がり、その角度は斜めに跳ね上がるか下がるか、直線を描く。
惑いの森は拒んでいる。時空のループが出来上がっているようだ。
「鬼斬。」
呼び出し、顕現。
チラ、と迎を振り返る。それは何とも交差しない。迎の視線は前方の新たな異界へと向けられ、眉を寄せている。
前回の鬼斬はいつもとは違った。迎が使った、そのことに誘発された異界特性の増強。そしてあの男、ヴェルゼの存在。
思考を切るように何の変哲もない普通の剣に見える鬼斬を振るった。
見えない糸が風に吹き飛ばされ、切られる。固定された道が正しい方向へと戻るのだ。
「……行きましょう。」
迎は無言で付いてきた。
「あ―――」
少年は何かに気付いたようにして顔を上げる。
それまで摘んでいた木の実、それを入れた籠を放り出して、周囲を見渡す。そして呟いた。
「……誰か、来た。」
森の奥、呟いた声は誰に拾われることなく谺する。
「で?」
仁王立ちし、鬼灯は尋ねた。
「入れたはいいけれど、どうするのかしら。元凶の所に会いに行くのかしら。」
「……。」
迎は無言を通す。相変わらず、いや前以上に愛想がない。
会話をする気がない様子に、答えを諦める。
「そうしろってことね。」
結論付けた。
「―――迎くん、あなたが先導した方がいいわ。」
暫くして、鬼灯は言った。
それには苦しみが混じっている。脂汗までが浮び、足下も不確かだ。
ぐらぐらと揺れる視界。けれどそれは精神上の問題だけだ。実際には何も起こっていないのだから。しかし、だからこそ鬼灯には的確な精神攻撃だった。
「何……?」
実害のない迎が問いかけ振り返る。いつの間にか二人の立ち位置は逆に、迎が先行するようになっていた。
「この概念、異界にも聞くみたいね。さっきから人格を揺さ振られている。」
簡潔に状況を説明し、頭に手をやって中を整理しようとする。
「少なくとも、断ち切る概念の鬼斬には作用しないわ。この概念自体を切ることはできないけれど、持っていれば方向を示してくれるはずよ。」
ノイズが思考に走る。けれど、状況を整理するだけしておかなければ、今の鬼灯がいなくなるなら、きちんと引き継いでおかなければならない。
戦闘的性格である加奈は異界の力を行使することに躊躇いを憶えない。異界を受け入れているからこそ、余計に影響を受けやすい。
「方向はこのまま北、森の中心よ。」
強く感じる異界の気配に、顔をしかめ、腕を下ろした。
「……っぁ、迎さん―――。」
(入れ替わったか。)
迎は鬼灯の豹変に加奈から珠洲へと人格が移ったことを知る。
鬼灯の、珠洲へと変わった鬼灯の瞳が向けられ、それが不安に揺れ動き、水分気を含むのを見てしまって、右往左往する彼女に背を向けた。迎は急激に疲労を感じ、今まで以上に相手をするのが面倒になり、無視して加奈の人格が示した方向へ進む。
「行くぞ。」
「……はい!」
迎の冷たい態度はしかし、珠洲には逆に心強く感じて、にっこり笑って応える。
不安なのは珠洲の人格が司る基本的な感情だ。偽造の、鬼灯が持たない感情を作り出すための、吸収された魂の役割。
だからこそ、いきなりこんな任務時に説明もなく入れ替わられればそれが表面化し、浮き出る。迎の冷たい、けれど引っ張るような断言は珠洲にとっては相性が良い。
最も、迎は珠洲の性格をうっとうしいと思い、どちらかと言えば加奈の性格の方が楽だと感じていたのだが。もう少し静かな性格であればより良いのに、と両方に対して思う迎だった。
「待て。何か、いる。」
道なき道を進み、次の藪を抜けるかという時。
(……子供?)
前方、緑の障害を除いたその向こうに広がるのは広場だ。森の中の、光の当たり、集まる場所。開けた部分。
その中央に子どもが木株に腰掛け、待っていた。
何かが来ることを待ち望むように、遠い昔から予言していたように、子どもの無邪気さで、その少年はいた。こちらからは斜め後ろ向きだ。
「……迎さん、あの子。あの子から歪みを感じます。」
横にしゃがんでいた鬼灯が真剣な目つきでそちらを睨む。通常人には見えない何かを見極めている。見えないのに確かにある、というのは異界全てに共通することだ。
「元凶、だろうな。こんな所にいるんだ、当然だ。」
判断は一瞬。子ども、というところに躊躇いは生まれたが、相手は異界。
出来れば生け捕り。そうでなくても、怪我は必須だろう。
異界の行使は見えない、ただの意思によるものであり、前動作もなく、遮ることも外部からは出来ない。だから、気を失うまで。戦意を喪失するまで。ボロボロになるまで。
戦う。あの幼い子どもと。
武器に手をかけ、踏み切る。
「ねぇ。出て来なよ、そこにいるのは分かってるんだよ。」
こちらを見もせず当て、
「えっ……!?」
指で示されれば鬼灯の体が躍り出る。引き寄せられたように感じた。
その身体を掴んで押さえることは出来たはずだ。しかし迎はしない。
能力も分からない相手にわざわざ姿を晒し、情報を与えるべきではない。対抗策を練られる可能性がある。
「こんにちは、お姉さん。」
にっこりと微笑むのに鬼灯は、いや珠洲は恐怖しか覚えない。
裏がある、とか無邪気だ、とかそんなことを考えてるわけじゃない。ただ、この状況で笑えていることに恐怖する。
敵の前に引きずり出された一人の少女としての感想。
「……っき、みはその力を受け入れてるの?」
子どもに、問いかける。
それは彼女にとっては勇気を振り絞っての行動だ。迎は姿を隠したままで、今何か出来るのは己のみだ。言葉は防衛であり、攻撃でもある。鬼斬を手放し、何も持たない彼女の唯一つの武器。
「……。仕方ないよ、気に入られちゃったんだもん。この子は僕の一部。」
言葉に、一度何かを言いかけ、でも言葉は出ずに閉ざされた。
そして再び口を開いた時には諦めの、それでも授与への肯定を示した。
「人と関わるのが恐い?」
「っ!恐くないよ。」
反射的に子どもは返す。感情に揺さぶられ、瞳に涙が溜まっていた。
それに呼応するようにして周囲の木々がざわめき、体を揺らしている。
「恐くないけど、あっちが拒絶した!僕を捨てたんだっ!」
何があったのか、それは知らない。けれど想像するに難くない。
一人、この森に住む少年。年の割に細く白い、折れそうな肢体。
長い前髪に隠された、色違いの瞳。
迫害?親から捨てられた?人々に拒絶された?
彼女には分からない。それでも、言う。
「もう一度、人を得ようとは考えなかったの……?」
かぶりを振る幼子。
(迷い子になってしまったのね……。)
どうすればいいかわからなくなった。そして、この森で異界となった。
それが現実で、結末だ。私たちが来ることで幼子の過去は終わる。
今から、新しいものが、変化が訪れる。
「ねぇ、私たちと一緒に来てほしいな。」
両手を広げる。もう、幼子の意思どおりに引き寄せられたりするようなことはない。
彼女は受け入れる態勢を取った。さあ、飛び込んでおいで、と態度で示す。
「確かに君は普通じゃない。けど、だからこそ私たちは会えた。私たちは歓迎するよ?」
笑顔で促す。幼子が望んで、けれど手に入れることが出来ずに成長するしかなかった温もり。それは拒めない優しさだった。
「……うん、この子の仲間の気配、感じるよ。お兄さんは、僕に近い。」
おなかに手をあて、同調する。
それは異界の気配を感じたのだろう。異界を行使する者、異界と同一化している者の気配。
少年は類似したものを迎に感じる。
「僕は、行っていいの?そこに僕の居場所はある?」
彼女に確認する。ずべてを預けていいのか、不安でいっぱいの問いかけ。
最初で最後の問い。それだけがすべてだった。
「あるよ!」
幼子は飛び込む。その温もりへ。
久しく感じることのなかった、他人の温もり。
母の愛情だった。




