『愛は支配の為の麻薬だ』と笑い私を捨てた公爵様。今更「戻れ」と泣きつかれても、その麻薬(あい)はもう、とっくに切らしてしまいましたわ。
第一章:砂糖菓子のような檻
私が彼――ヴィンセント公爵に嫁いだのは、今から三年前のことだった。
「エルゼ。君は世界で一番美しい。私の命に代えても、君を守り抜くと誓おう」
結婚式の日、ステンドグラスから差し込む光の中で彼はそう言った。その瞳は、まるで宝石のように輝いて私だけを映していた。
ヴィンセントは完璧な夫だった。
私のささいな表情の変化に気づいては「顔色が悪いね」と優しく抱き寄せ、冷える夜には私の手をその温かな手で包み込み、甘い愛の言葉を囁いてくれる。
社交界でも彼は「愛妻家」として有名で、私は誰もが羨む幸せな公爵夫人だった。
ある日のことだ。私は彼が私のために特注してくれたという、金の装飾が施された美しい首飾りを鏡の前で眺めていた。
「似合うよ、エルゼ。その首飾りは、君が私の所有物であることを世界に示す証だ」
背後から抱きしめられ、耳元で囁かれたその言葉。
当時の私は、「所有物」という言葉にさえ、激しい愛の証を感じて頬を赤らめていた。愚かだった。彼が私を「人間」としてではなく、「家畜」あるいは「美しい剥製」として愛していたことに、どうして気づけなかったのだろう。
歯車が狂い始めたのは、結婚三年目の記念日を目前に控えた夜だった。
彼が珍しく書斎に鍵をかけ忘れ、急な来客の対応で席を外したとき。私は、彼に内緒で「結婚三年目の贈り物」として用意した手編みの手袋を、彼の机に置いておこうと考えた。
主人のいない書斎に忍び込み、机に手袋を置こうとしたその時。ふと見れば、一番下の引き出しが数センチほど、閉まりきらずに開いたままになっていた。
「あら、珍しい……。几帳面な彼が、閉め忘れるなんて」
きっと、急ぎの来客で慌てていたのだろう。
そう思って、はみ出した書類を整えて閉めてあげようとした私の目に、引き出しの奥へ無理やり押し込まれたような羊皮紙の端が映ったのだ。
大切な書類が折れてはいけない。そう思って、そっと引き出した一通の古い羊皮紙。
そこで私は、見てしまったのだ。
そこには、私の実家であるエインズワース子爵家を「合法的に取り潰すための計画書」が、見慣れた彼の手書きで、冷徹なまでに克明に記されていた。
「……嘘、でしょう……?」
視界がぐにゃりと歪み、膝の力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。
震える指が、羊皮紙の端をくしゃりと握りしめる。
これは、きっと悪い夢だ。そうでなければ、誰かの悪質な悪戯に違いない。
だって、彼は昨夜も私を抱き寄せ、「君は私の宝物だ」と慈しむように髪を撫でてくれたばかりなのだから。
必死に否定しようとするのに、頭の隅で、パズルのピースが残酷な音を立てて嵌まっていく。
父が投資に失敗した日。親族が次々と離れていった日。独りぼっちになった私を、彼が優しく救い出してくれたあの日……。
そのすべてが、彼が私を手に入れるための「仕掛け」だった。
「……あ、あぁ……っ」
嗚咽が漏れた。
悲しい。悔しい。それ以上に、恐ろしい。
私が今まで幸せだと感じていた三年間は、一体何だったのか。
彼がくれたあの優しい微笑みも、私を気遣う甘い言葉も、すべては私という獲物を逃がさないための餌に過ぎなかったというのか。
何より耐えがたいのは、そんな彼の仮面に気づかず、今この瞬間でさえ、彼に抱きしめられた時の温もりを思い出して、縋りたくなってしまう自分自身だ。
彼は私を愛して結婚したのではない。
私の家が代々守ってきた『聖域の管理権』を、自分の檻に閉じ込めて独占したかっただけなのだ。
私は、彼の机にそっと置こうとしていた手袋を、震える手で強く抱きしめた。
あんなに一編みずつ愛を込めて編んだはずのそれが、今はもう、ただの冷たい糸の塊にしか見えなかった。
「エルゼ。そこは、君が入っていい場所ではないと言ったはずだが」
凍りつくような声が背後から響いた。
振り返ると、そこにはいつもの優しい微笑みを消し去った、能面のような無機質な顔のヴィンセントが立っていた。その瞳には、今まで私に向けていた慈しみなど欠片もなく、ただ冷徹な光だけが宿っている。
「ヴィンセント、これは……何? お父様が横領で捕まったのも、お兄様が騎士団を追放されたのも、全部……あなたが?」
問いかける私の声は、自分でも驚くほど震えていた。
彼は何も答えず、ゆっくりと、獲物を追い詰めるような足取りで歩み寄ってくる。その威圧感に、私は一歩も動くことができない。
彼は私の手から、こびりついて離れない汚れを剥がすように羊皮紙を奪い取った。
そして、私の目の前でそれを暖炉の火に投げ入れる。赤い炎が、私の家族の人生を狂わせた証拠を無慈悲に飲み込んでいく。
「……君は、何も知らなくてよかったんだ」
立ち上る火影が、彼の顔を不気味にゆがませる。
彼は細く長い指で私の頬をそっとなぞった。かつてはあんなに愛おしかったその指先が、今は首筋を這う蛇のように冷たく、恐ろしい。
「大人しく、可愛い人形のままでいれば。……私は最後まで、君に『完璧な夫』を見せてあげられたというのに」
そう囁く彼の声に、もはや熱は微塵もなかった。
「エルゼ。愛なんてものはね、相手を支配するための最も安上がりで、最も効果的な麻薬なんだよ。君は期待通り、その安っぽい夢に酔いしれて私にすべてを捧げてくれた。……本当に、御しやすい女だ」
……麻薬?
あんなに優しく、あんなに温かかった彼との日々は、すべて私を狂わせるための毒だったというの?
私が何を言っても「可愛いね」と笑ってくれたあの顔も、疲れて眠る私の頭を優しく撫でてくれたあの手のひらも。
嘘だったと言ってほしい。
お願いだから、今すぐ「冗談だよ」と笑って、いつものように私を抱きしめてほしい。
そんな惨めな願いさえ捨てきれない自分が、たまらなく悲しくて、涙が止まらなかった。
「……っ、ヴィンセント、嘘でしょう……? 私は、……私はあんなに、幸せだったのに……っ」
震える声で絞り出した訴えも、彼はゴミを見るような瞳で一蹴した。
そこに、私が心から愛し、人生のすべてを捧げようと誓った夫の姿は、もうどこにもいない。
「真実を知った人形なんて、可愛くもなんともない。……ちょうど『聖域』の譲渡手続きも終わったところだ。君の役割は、もう終わりだよ」
私の絶望をあざ笑うかのように、彼は事務的な手つきで、私の腕を振り払った。
あんなに愛おしかった彼の手は、今はもう、氷のように冷たかった。
その夜、私は身に覚えのない反逆罪の共犯という汚名を着せられた。
持っていた宝石も、美しいドレスも、三年間編み続けた彼への愛も、すべてを奪われて。
「お前のような薄汚れた罪人に、この家の敷居を跨ぐ資格はない。……消えろ」
冷たい雨が打ちつける中、私はボロ布のような格好で、公爵家の門から泥溜まりへと放り出された。
背後で重く閉ざされた門の音を聞きながら、私はただ、暗闇の中で震えていた。
第二章:氷の城、熱を帯びる琥珀
雨はいつしか雪に変わっていた。
薄い部屋着のまま放り出された私の足は、すでに感覚を失っている。
かつてヴィンセントが「美しい」と愛でた私の金髪は、泥と雪にまみれ、見る影もない。
「……寒い。お父様、お兄様……」
家族も、財産も、名誉も。そして何より、人を信じる心さえも毟り取られた。
ヴィンセントの言葉が呪いのように頭の中で繰り返される。
『愛は、支配するための麻薬』
それなら、私はもう二度と愛なんていらない。誰にも心を開かない。そう決めて、私は意識を失うように雪の上へ倒れ込んだ。
死を覚悟した私の視界に、最後に映ったのは、漆黒の毛皮を纏った大きな影だった。
◇◇◇
目が覚めたとき、最初に感じたのは、暴力的なまでの「熱」だった。
暖炉の中で爆ぜる薪の音。肌を包むのは、公爵邸で使っていた最高級のシルクよりもずっと厚手で、たくましい獣の匂いがするウールの毛布。
「……目が覚めたか」
低い、地鳴りのような声。
跳ね起きようとしたけれど、体に力が入らない。視線を巡らせると、部屋の隅、影の中にその男は座っていた。
カシアン・ヴォルフラム辺境伯。
社交界では『人食い狼』『血も涙もない氷の化身』と恐れられ、王都から遠く離れた極北の地を守る男。その顔には、かつての戦いで負ったという鋭い傷跡が刻まれている。
「ここは……」
「俺の城だ。行き倒れの女を放っておけば、明日の朝には魔物の餌にしかならんからな」
彼は立ち上がり、私に一杯のスープを差し出した。
ヴィンセントなら、銀の匙で私の口元まで運んだだろう。けれどカシアンは、無骨な手で器を差し出すだけ。その距離感に、私は逆に安堵した。
「ヴィンセント公爵夫人がなぜ、こんな北の果てで野垂れ死にそうになっていたのか。事情を聞かせろとは言わん。だが……」
カシアンが私の瞳をじっと見据えた。その瞳は、ヴィンセントのような計算高い輝きではなく、厳冬の夜空のように澄み切っていた。
「その傷だらけの手で、まだ何かを掴もうとする気があるのなら、ここにいろ。俺には、お前のような『一度すべてを失った者』の目が必要だ」
「……私には、もう何もありませんわ。辺境伯様。利用価値など、何一つ」
自嘲気味に笑う私に、彼は鼻で笑ってこう言った。
「価値とは他人が決めるものではない。自分が、明日も生きていたいと願う。ただその一点にある」
その言葉は、深く傷ついた私の心に、ゆっくりと、けれど確実に染み込んでいった。
ヴィンセントの言葉は、私から思考を奪い、依存させるための「甘い罠」だった。
けれど、カシアンの言葉は違う。
支配のための言葉ではなく、ただ、私が私として生きることを肯定するための、厳しくも温かな光。
「……明日も、生きていたい……?」
掠れた声で繰り返すと、視界が急に滲んだ。
すべてを奪われ、ゴミのように捨てられた私に、彼は「生きていい」と言ったのだ。
私の家が持つ『聖域』の魔力でも、完璧な妻としての振る舞いでもない。
ただ、この体で息をしているというだけの事実に、彼は価値を認めてくれた。
「……わかりましたわ。辺境伯様。……私がまだ、一人の人間として立っていられるのなら。ここを、私の最後の居場所にさせてください」
頬を伝う涙は、北国の冷たい風に打たれてすぐに冷えた。
けれど、カシアンが差し出した無骨な手の温もりだけは、いつまでも消えずに残っていた。
それから数ヶ月。私はヴォルフラム城で、一人の「人間」として働き始めた。
王都の温室で育てられた公爵夫人ではなく、厳しい冬を生き抜く辺境の人々と共に。
カシアンは無口で不愛想だったけれど、私が凍えた指で凍った井戸の水を汲もうとすれば、翌朝には魔導具で温められた水が出るように手配してくれる。
私が実家で学んでいた「薬草の知識」を使って領民を助ければ、彼は「よくやった」と、ただ一度だけ、私の頭を大きな手で乱暴に撫でた。
(……なんて、温かいんだろう)
** 肌を刺す北風の中にいるはずなのに、胸の奥だけは、いつまでも春のように熱を帯びている。**
ヴィンセントに捧げた、あの偽りの三年間。
暖かな公爵邸で、最高級のドレスに身を包み、常に完璧な温度に保たれた部屋で過ごしていた日々。けれど、今の私にはわかる。あの時の私は、温かな繭の中に閉じ込められ、ただじっと死を待つだけの「飾り物」に過ぎなかったのだと。
この極寒の地での数ヶ月の方が、不思議なほど、私の肌を、心を、温かく満たしていく。
頬を打つ風は刃のように鋭く、夜は氷が弾けるような音が響く過酷な世界。
けれど、カシアン様が不器用な手つきで差し出してくれる温かいスープの湯気や、彼が私の働きを認めて「よくやった」と短く告げるその声が、私の魂を芯から震わせる。
(……ああ。私は今、自分の力で息をしている)
誰かに与えられた「麻薬」で夢を見ているのではない。
冷たい雪を掻き、硬いパンを噛み締め、自分の意志で明日を掴み取ろうとしている。
ヴィンセントに「所有物」と呼ばれていた頃よりも、傷だらけで泥に汚れた今の方が、私はずっと「私」として生きている実感を抱けていた。
彼の差し出した無骨な手の温もりが、私の内側にあった凍土を、ゆっくりと、けれど確かに溶かしていく。
だが、運命は私を放っておいてはくれなかった。
王都から届いた一通の知らせ。それは、ヴィンセントが『聖域の魔力』を私利私欲のために無理に引き出そうとして暴走させ、王都全体が未曾有の危機に陥っているという凶報だった。
かつて彼が、私の家族を破滅させてまで欲した巨大な力。
それを制御しきれず、彼は今、自らの首を絞めているのだ。
そして、ヴィンセントが厚顔無恥にも国中に発表した布告には、目を疑うような言葉が並んでいた。
『聖域を鎮めることができるのは、エインズワースの血を引くエルゼのみ。……彼女は夫である私を裏切り、重要書類を盗んで城から逃亡した。彼女を見つけた者には莫大な懸賞金を出す。ただし、必ず生け捕りにせよ』
「……っ、どこまで、私を道具扱いすれば気が済むの……?」
震える手で布告を握りつぶした。
指先がガタガタと震え、せっかくカシアン様が温めてくれたはずの体が、一瞬で氷のように冷えていく。
彼は、自分がしでかした失態を私のせいにするだけでなく、私を「逃亡犯」に仕立て上げることで、再びその檻に閉じ込めようとしているのだ。
愛という名の麻薬が効かないと分かれば、今度は「指名手配」という名の鎖で私を縛り、力ずくで引きずり戻すつもりなのだろう。
……怖い。
ようやく、泥水を啜るような絶望から這い出したのに。
この数ヶ月、カシアン様や領民の人たちに囲まれて、初めて自分の足で立って笑えるようになったのに。
「嫌よ……帰りたくない。あんな冷たい檻の中には、もう……」
窓の外を見れば、ヴォルフラムの厳しい、けれど美しい雪景色が広がっている。
明日もまた薬草を煎じて、カシアン様と一緒に温かい食事を囲む。そんなささやかな、けれど私にとっては宝物のような幸せが、音を立てて崩れていく予感に胸が締め付けられた。
私がここにいれば、この地の人々を巻き込んでしまうかもしれない。
私のせいで、カシアン様の平穏まで壊してしまったら——。
逃げ出したくても、私は「指名手配犯」。もはやこの国のどこにも、私の逃げ場など残されていないのではないかという恐怖が、冷たい泥のように足元から這い上がってきた。
「エルゼ。お前はどうしたい」
低く、落ち着いた声に弾かれたように顔を上げると、そこにはいつものようにカシアン様が立っていた。
私は震える指先を隠すように、胸の前でぎゅっと手を組んだ。
「私は……、私は、怖いです。またあの冷たい場所へ連れ戻されるのかと思うと、足がすくんで……。でも、逃げてばかりはいられない」
脳裏に浮かぶのは、故郷の優しい風景と、それを台無しにしているヴィンセントの顔。
彼から逃げ切ることだけを考えていたけれど、私が向き合わなければ、きっと彼はこれからも誰かを傷つけ、私の家族が愛した土地を汚し続ける。
「私はもう、彼の檻には戻りません。……利用されるだけの人生は、あの日、あの雨の夜に捨ててきましたから」
言い切った私の瞳を、カシアン様がじっと見据えた。氷の瞳の奥に、焚き火のような穏やかで確かな熱が宿っているのが見えた。
彼は大きな手を私の肩に置くと、重みを伝えるように静かに頷いた。
「……なら、行こう。お前を『所有物』だと言ったあいつに、お前がもう誰の指図も受けない、自由な一人の人間であることを教えに」
カシアン様の温もりが、肩から全身へ広がっていく。
一人じゃない。そう思えるだけで、凍りついていた心に力が戻ってくるのが分かった。
私はもう、ただ震えて待つだけの「剥製」ではないのだ。
第三章:断罪の円舞曲
かつての我が家、エインズワーズ子爵家の庭園は、いまや見る影もなかった。
美しい薔薇が咲き誇っていた場所には、内臓をかき乱すような、どす黒い魔力の霧が渦巻いている。大気はひび割れたガラスのように軋み、一歩踏み込むだけで肌を焼くような鋭い痛みが走った。
私がカシアン様と共に王都へ辿り着いたとき、街は逃げ惑う人々の悲鳴と、死の気配に包まれていた。
「……遅い! 遅すぎるぞ、エルゼ! どこに隠れていた!」
屋敷のバルコニーに、かつての夫――ヴィンセントが立っていた。
完璧だった銀髪は無様に乱れ、血走った瞳には、焦燥を隠しきれない狂気が宿っている。
彼は私の実家から奪った『聖域の鍵』を制御できず、暴走する漆黒のエネルギーに飲み込まれかけていた。それなのに、私を見つけた彼の口元には、吐き気のするような安堵の笑みが浮かぶ。
「何をしている、早く来い! 早く、この魔力を抑えろ! お前は私の所有物だろう? 私のためにその命を捧げ、この力を鎮めるのが、たっぷり愛してやったお前の役割だ!」
彼は、自分がしでかした破滅的な失態にすら、まだ気づいていない。
私が現れさえすれば、すべてが自分の思い通りに修復されると、露ほども疑っていないのだ。
「いいか、私の慈悲にも限度がある。今すぐここへ来て、私を助けるなら……追放の件は、なかったことにしてやってもいい。さあ、来い! 来るんだ、エルゼ!!」
彼が放つ身勝手な怒号が、ひび割れた空に虚しく響く。
隣に立つカシアン様の指が、鞘にかけられた剣に置かれた。静かな、けれど圧倒的な殺気が立ち上り、彼が私を庇うように一歩前へ出ようとする。
私はその逞しい腕にそっと手を添え、首を横に振った。
「……辺境伯様、ありがとうございます。でも、これは私の問題ですわ。私自身で、終わらせなければならないことなのです」
カシアン様は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに「……わかった」と短く応じ、私を信じて一歩下がってくれた。
「貴様ら、そこで何をコソコソと! エルゼ、早くこっちへ来い! 命令だ! 」
ヴィンセントの醜い叫びを聞きながら、私は一歩、また一歩と、彼に向かって歩き出した。
足元では暴走した魔力が私の肌を刺す。かつての私なら、その痛みに怯えて泣いていただろう。けれど、今の私にはカシアン様が教えてくれた「自分を信じる力」という、何よりも強い盾があった。
「ヴィンセント。あなたは、私がいないと何もできない人だったのですね」
私の静かな、憐れみを含んだ声に、ヴィンセントの顔が屈辱で激しく歪む。
「何を……。私は公爵だ! 全てを支配する選ばれた人間だ!」
「いいえ。あなたは私の家を奪い、私を道具として扱ったけれど、その道具の使い道さえ理解していなかった。……私があなたを愛していたのは、あなたの完璧さゆえではありません。私という一人の『人間』が、あなたを選んでいたからです」
私は彼を、もはや憎しみさえなく、ただ悲しいものを見る目で見つめた。
「あなたは自らの手で、この世で唯一、自分を無条件に救ってくれたはずの『心』を殺したのよ。……愛という麻薬で私を酔わせ、支配したつもりだったのでしょうけれど。……その毒が切れた今、私にあなたを救う理由は、もう、微塵も残っていません」
私の言葉が、目に見えない刃となってヴィンセントを貫く。
彼が「安上がりな麻薬」と馬鹿にしていた私の愛こそが、実はこの暴走を鎮め、彼を王座へ導く唯一の「鍵」だった。
失ったものの大きさに気づき、ヴィンセントの顔からみるみる血の気が失せ、彼は愕然として膝をついた。
「あ、ああ……待て、エルゼ! 行かないでくれ! 悪かった、私が、私が間違っていたんだ……! 戻ってきてくれ!!」
すがりつくような叫び。かつての私なら、その言葉に騙されて泣いて喜んだだろう。
けれど今の私には、それが「自分を助けてくれ」というだけの、愛のかけらも微塵もない醜い悲鳴にしか聞こえなかった。
私は彼の手元で狂暴に渦巻く、暴走の根源――父の形見である「聖域の鍵」へと手を伸ばした。
私の指先が宝石に触れた瞬間、猛り狂っていた霧が、嘘のように澄んだ光へと変わっていく。エインズワースの血筋にのみ許された、慈しみの魔力が、彼の汚れた野心を洗い流すかのように広がった。
「ああ、これだ……! 聖域が鎮まる、私の力が戻ってくる……! さあエルゼ、早くその力を私に渡せ! それがあれば、私は世界を支配できるんだ!」
……信じられない。
死の淵で謝罪の言葉を口にした直後だというのに、危機が去ったと思えば、彼はもう次の野望を口にしている。この男には、やはり最初から「心」など届いていなかったのだ。
狂喜して汚れた手を伸ばしてくる彼を、私は冷ややかに突き放した。
最期に贈るのは、剣ではなく、言葉。
あの日、彼が私を地獄へ突き落とした、あの言葉の仕返しのために。
「ヴィンセント。愛が『支配するための麻薬』だと言うのなら、あなたは今、その麻薬の過剰摂取で滅びるのよ。……お望み通り、あなたは一人、誰の手も届かない『完璧な檻』の中で、永遠に自分だけを愛していなさい」
私が宝石を強く握りしめると、そこから放たれた清浄な光が、ヴィンセントの淀んだ魔力を根こそぎ浄化した。彼が力ずくで奪い、弄んできた聖域の力が、あるべき大地へと還っていく。
「嫌だ……、待て! 私を見捨てるな、エルゼ! 愛している! 今度こそ本当だ、愛しているんだ!!」
轟音と共に、支えを失ったバルコニーが崩れ落ちていく。
彼は最後まで、縋りつくように私の名を叫び、虚空に手を伸ばしていた。
けれど、土煙の向こうに消えていくその惨めな姿を瞳に映しながら、私の心はもう、一ミリも揺れなかった。
「……さようなら。私の愛していた人。そして、私の絶望」
頬を伝う涙は、もう悲しみの色をしていない。
私は一度も振り返ることなく、静かに、そして確かな足取りでカシアン様の待つ場所へと歩みを進めた。
カシアン様は、土煙の中から戻ってきた私を、何も言わずに温かな胸へと抱き寄せてくれた。
ヴィンセントが与えた「麻薬」のような熱ではなく、凍えた指先に血が通うような、本物の体温。
「終わったのか」
「ええ。……すべて、終わりましたわ」
見上げた北の空には、夜明けの光が差し始めていた。
私はもう、誰かの所有物ではない。
カシアン様の腕の中から伝わる、この嘘のない確かな温もりと共に、私は私の人生を、新しく始めていくのだ。
「カシアン様。私はもう、守られるだけの小鳥ではありません。……あなたと共に、厳しい冬を越えていく強さが欲しいのです」
私の言葉に、カシアン様は一瞬だけ意外そうに目を見開き、それから今日一番の、柔らかな笑みを浮かべた。
「……ああ、知っている。だが、お前はもう、俺が手を引かずとも前を向いているな」
カシアン様は、私の泥に汚れた手をとり、その指先に静かに誓いのキスを落とした。それは支配の印ではなく、対等な人間としての敬意がこもった温度だった。
「エルゼ、俺はヴィンセントのように甘い言葉は言えない。だが、お前が明日も笑いたいと願うなら、そのための場所を俺が守り抜こう。……これからも、俺の隣にいてくれるか」
ヴィンセントの言葉が、私を縛るための「支配」なら、カシアン様のこの言葉は、共に歩むための「契約」であり、静かな「覚悟」だった。
「はい。……喜んで、カシアン様」
王都に夜明けの光が差し込む。
捨てられた公爵夫人は死に、今ここに、自分の足で歩み始めた一人の女性が生まれたのだ。
◇◇◇
王都の混乱が収まり始めた頃、子爵邸の廃墟の片隅で、ヴィンセントは泥にまみれて這いつくばっていた。
魔力資源を失い、家臣たちにも見放された彼に残されたのは、荒れ果てた屋敷と、静寂だけだ。
「……喉が、渇いたな。エルゼ、紅茶を……」
無意識に口をついた言葉に、答える者は誰もいない。
かつてなら、彼がそう呟く前にエルゼが最適な温度の紅茶を運んできていた。彼が公務で疲れを見せれば、彼女はその柔らかな魔力で彼の心身を癒やしていた。
彼は気づいていなかった。
自分が「支配していた」と思っていたのは、実はエルゼが彼に与えていた「献身的な愛」という名の奇跡に、一方的に寄りかかっていただけだったのだということに。
彼は震える手で、エルゼが淹れてくれていた茶葉の缶を開けた。
だが、自分で淹れた茶は驚くほど苦く、濁っていた。
「違う……こんなものではない。あいつが淹れたのは、もっと、心が震えるほど……」
その時、彼はエルゼが去り際に放った言葉を思い出す。
『愛が麻薬だと言うのなら、あなたは今、その麻薬の過剰摂取で死ぬのよ』
そうだ。彼女という至高の安らぎに浸かりきっていた彼は、彼女を失った今、もはや一分一秒の孤独にも耐えられない体になっていた。
金も、権力も、魔力も。そんなものは、彼女が隣で笑っていなければ、ただの冷たい石ころと同じだった。
「エルゼ……エルゼ……! 戻ってきてくれ! 命令だ、愛しているんだ!」
主を失った空っぽの屋敷に、男の惨めな叫びだけが虚しく響き渡る。
彼はこれから、死ぬまで続く「孤独」という名の檻の中で、自分が捨てたものの大きさに、毎日、一秒ごとに、後悔という牙で心を刻まれ続けるのだ。
エピローグ:氷の地で咲く薔薇
それから数年。
極北のヴォルフラム領には、かつての私が愛でた温室の薔薇よりも、ずっと力強く、凛とした白銀の薔薇が咲き乱れている。
王都で没落した公爵家の行く末を噂し、私を呼び戻そうと必死な人々からの手紙は、すべて開封されることなく暖炉の火に投げ込まれた。過去の亡霊が、この地に届くことは二度とない。
私は今、窓の外に広がる領民たちの穏やかな笑い声を聞きながら、カシアン様と並んでお茶を飲んでいる。
「エルゼ。あまり無理をするな。お前の代わりは、この世にどこにもいないのだから」
不器用な主人の、けれど心の底から私を慈しんでくれる言葉。
私はその大きな手に自分の手を重ね、最高の笑顔で答える。
「ええ、わかっていますわ。……私はもう、誰かに愛でられるだけの『剥製』ではありませんもの。あなたの隣で、共にこの地を愛する一人の女性です」
愛とは、思考を奪う「支配」でも、心を酔わせる「麻薬」でもない。
ただ、隣にいる人の幸せを自分のことのように願い、凍えた指先を温め合う、ささやかで、けれど何よりも強い「光」なのだ。
雪解けの季節、窓から差し込む陽光が私たちのテーブルを照らし出す。
私はゆっくりと目を閉じ、この嘘のない確かな温もりを、その胸に深く刻み込んだ。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
「愛という名の支配」に囚われていたエルゼが、北の地の厳しい寒さと、そこに宿る本物の温もりに触れて自分を取り戻していく物語。いかがでしたでしょうか。
もし「面白かった!」「エルゼが幸せになれてよかった!」「ヴィンセントのざまぁが最高だった!」と思っていただけましたら、ぜひ下の方にある【☆☆☆☆☆】からポイント評価や、ブックマークをいただけますと、執筆の大きな励みになります!
また次回の作品でお会いしましょう!




