第2章 何でも屋は夜が遅くて朝が早い【4】
じわじわと何か温かいものが流れ込む感覚で目を覚ます。すでに日暮れが終わろうとしており、ほんの僅かな陽を背にした人影がシリルを覗き込む。シリルの覚醒に気付くと、人影はシリルの胸元に当てていた手を離す。
「よく寝ていたな」
聞き慣れた声が言う。シリルはぼんやりと人影に視線を向けた。それが誰であるかはすぐにわかった。どうしてかはわからないが、その優しい声は昔からシリルのそばにいる。だから、すぐにわかった。
「……ねえ、シドニー」
「ん?」
「……僕は、どうすればいいのかな」
口が勝手に動くように、そんな言葉が漏れた。その問いがどんな意味を持つか、そんなことはわからないのに。そう問わなければならない気がした。
「どうもしなくていい。僕に任せていればそれでいい」
「…………」
ぼんやりとするシリルの髪を梳きながら、シドニーは小さく笑う。
「そろそろ起きたほうがいい。彼らが待っているんじゃないか」
「……彼らって、誰……?」
「お前がわからないなら僕もわからないよ」
とんとんとん、と静かなノックが聞こえる。シドニーは立ち上がり、シリルの頬を指で撫でた。その優しい手付きが、シリルの疑問を晴らすような感覚がする。
「お前は何も考えなくていい。僕に任せていればそれでいい」
「……うん、大丈夫」
ゆっくりと窓が閉じる。確かに、もうそろそろ起きなければならない。いつまでも待たせるわけにはいかないだろう。
……――
「ああ、憎たらしい。これじゃ届かないじゃないか!」
蹴飛ばした赤色のスツールが、窓を突き破って奈落に落ちていく。あれはもう用無しだ。わざわざ取りに行く必要はない。
「どうか落ち着いてくださいませ」
赤の執事が呆れて溜め息を落とす。ひとつ舌を打ち、どかっとソファに腰を下ろした。どうにも苛立ちが抑えられない。
「物に当たったところで、何も解決にはなりません」
「ああ、落ち着いてなんていられないよ。どうしてこうも邪魔が入るんだ」
物事が上手く運ばないだけで癇癪を起こすなんて、まるで子どもだ。あまりに邪魔が入るものだから致し方ない。すべて消し炭にしてしまえば話が早かったものを。
「落ち着いてくださいませ。時間だけはたっぷりあるのですから」
「そうとは限らない」
冷徹な騎士がにやりと笑った。こんなときによくもそんなふうに微笑めたものだ。
「時間はあるかもしれませんが、時間はないのかもしれません」
「焦っても仕方がありませんわ」
赤いドレスの侍女が頬に手を当てて愛らしく言う。実に憎たらしい表情だ。
「どうせ何もできやしませんわ」
「ああ……僕はただそばにいたいだけなのに。この手の内に収めたいだけなのに」
「まだ焦る必要はありませんわ。もう運命は決められているのですもの」
「ああ、そうだね。僕らの運命は決まっているんだ」
だと言うのに、まだこんなに遠い。手の届くうちにこの手の内に収めなければ。降り積もる灰色に冒される前に。その涙を掬えるうちに。この手が届くうちに。
――……
深いようで浅い眠りから覚め、ぼんやりしたままダイニングに向かう。ニコルが消えてどれくらい経っただろう。あまり待たせていないといいのだが。
シリルがダイニングのドアを開くと、最後の灰色のかけらが散るところだった。あまり待たせずに済んだようだ。
「すみません、居眠りが長すぎたみたいですね」
「おはよう」と、メリフ。「ここまでの話は聞いてた?」
「どうかな……よく聞こえなかった気がする」
「依頼人がそれじゃ困るわ。ニコルという手段があるからまだいいけど」
メリフは呆れたように息をつく。また謝りながら、シリルも席に着いた。すぐにアイレーがワゴンを押し食事を運んで来る。シリルは自分のせいで夕食が遅くなったことでまた申し訳なく思った。
「僕にはよくわからないんだ。僕が力になれることはないかな……」
「まあいいわ。いちから調査するって約束だし」
「うん……」
シリルのぼやけた頭より、きっとロスとメリフの調査結果のほうが当てになる。シリルがすでに知っている情報でも、ふたりが調達して来たほうが手っ取り早いだろう。シリルにはどの情報が何を意味するのか、よくわからないのだから。
「……ねえ、シリル」メリフが言う。「たまに違うところに視線が向いているけど、何を見ているの?」
メリフが自分の肩の辺りを指差した。ちょうどシリルの視線が向いたところだ。
「何も。視線が泳ぐのは癖なんだ」
シリルは誤魔化すように笑う。ふうん、と呟いたメリフはそれ以上に追及することはないようだ。
食事はシリルが拍子抜けするほど穏やかに進む。メリフが朗らかに他国の話をしてくれるからだ。シリルの知らないことばかりで、その体験ができることが少しだけ羨ましく思える。それでも、シリルがグラスを倒してメリフが呆れるのは、朝食の席の再上演のようだった。
* * *
「じゃあ、行って来るね!」
廊下のバルコニーから外に向かうメリフを見送ると、シリルは湯浴みの支度ができるまで私室で過ごすことにした。ロスはまだ情報調達へ行かないようだ。
「何でも屋は夜が遅くて朝が早いというのは本当ですか?」
朝のことを思い出して問いかけたシリルに、ロスは幾分か柔らかい雰囲気になって頷いた。
「そうだな。情報源となる可能性のある人間が動いているあいだは活動する」
「じゃあ、僕がふたりの寝ているところを見る機会はなさそうですね」
「そうだろうな。お前は物音にも気付かないようだしな」
「物音ですか?」
「昨夜、メリフがスツールを蹴っ飛ばして大騒ぎしたんだがな」
「物音どころじゃなかった……」
シリルは寝付きがいいし、眠りも深い。外部からの刺激では簡単には起きないのだ。しかし、大騒ぎでも目覚めないとは自分でも思っていなかった。
「ホーキンズ家のパーティの招待状が届いたそうだな」
「はい」
「いつだ?」
「えっと、来週です。もしかして、ついて来るんですか?」
「ああ。何か情報が得られるかもしれない。お前の社交界での立ち位置もわかるだろ」
パーティには様々な参加者がいる。ほとんどが貴族であるため、メリフの言っていた噂好きの貴族を見つけることができれば情報を得られるだろう。使用人だとしてもお喋りの者がいるはずだ。そう考えると、情報の宝庫のようにも思えた。
「ホーキンズ家とはどういう関係だ」
「僕の叔父が婿入りして、現当主を務めています。奥様が宮廷女官で、ホーキンズ家も宮廷に関わる仕事に携わっています」
「なるほどな。わざわざ誕生日というだけでパーティを開くなんてめでたいことだな」
「えっと……それは口実のようなものです」
ロスが訝しげな様子でシリルを見遣るので、えっと、とまた言葉を選ぶ。
「ホーキンズ家は長年、宮廷に関わる仕事に携わっています。顔が広く、様々な貴族を呼べます。なので……他の貴族の、コネクションの場を提供しているんです」
「自家のコネクションが広くなければできないことだな。それだけ大きな家ということか」
「はい。僕のように、爵位を持っていたり、親族だったりすれば招待状が届きます。そうでなくても、身分が証明できれば、基本的に自由参加です。みんな、大量の名刺を用意して来るそうですよ」
ホーキンズ家とのコネクションも強固なものだ。ホーキンズ家とのコネクションを作れたなら、それだけでも充分な成果と言える。そのため、ホーキンズ家のパーティはいつも多くの貴族でごった返しているのだ。
「なるほどな。そうやって貴族同士のコネクションを作り事業を発展させることで、この国の豊かさの支柱の一端になるということか」
「はい。科学の進歩により魔法が衰退しつつあるので、貴族の制度自体が揺らぎつつあるそうですが、貴族がこの国の豊かさを支えていることに変わりはありません。ただ……血筋にこだわらない家が増えて来たのも確かです」
これは父の受け売りだ。父は科学の発展をあまりよく思っていなかった。科学は、魔法を使える貴族にとっては恩恵の少ないものだが、魔法を使えない平民にとっては暮らしを便利にする手助けになるもののようだ。
「どういうことだ。貴族と魔法の何が関係ある」
「えっと……貴族は元々、魔法使いの血筋です。優れた魔法使いの血筋を守るために、貴族制度が成立しました。より濃く血筋を継ぐため、です」
「なるほどな。この国は昔から魔法大国だったからな。そういった独自の制度によって成り立って来たというわけか」
「はい。でも……魔法は結局のところ、物理的な武器には敵わない、とされています」
この話を聞いたとき、間抜けな話だ、と父は笑っていた。武器を手にする前に魔法を放てばいいだけのこと。ラト家にはそれが可能である、と父は誇らしげだった。実際、そういった場面にシリルが遭遇したことはない。本当に可能かどうかは、シリルには知る由もなかった。
「元も子もない話だな。魔法は衰退の運命にあるということか」
「魔法が衰退して、貴族制度がなくなれば、楽なものですね」
「お前が生きているうちはそうならないだろ。そんな簡単な仕組みじゃない」
「そうですね」
「シリル様」
アイレーが呼ぶ。話しながらのんびり歩いていたため、ふたりがシリルの寝室に辿り着く前に追いついたようだ。
「湯浴みの支度ができました。どうぞ」
「わかった」
「俺は適当に過ごす」
「はい。ロスは情報調達に行かないのですか?」
「お前が寝室に戻って、廊下の騎士とバルコニーの魔法使いが定位置に着いたら行く」
「……ルビーのことに気付いていたんですね」
「気付かないわけがないだろ。何を警戒しているのかは知らんがな」
肩をすくめてロスは廊下の奥へ向かう。ロスとメリフにはそれぞれ客室を用意しているため、シリルが寝室に戻るまで部屋で過ごすのだろう。
「今日はハーブ湯にしてみました」
楽しげにアイレーが言うので、へえ、とシリルは感心して答えた。
「ハーブ水に浸かるみたいな感じなのかな」
「ふふ、どうでしょう。良い香りに仕上がってますよ」
「そっか。それは楽しみだな」
アイレーもトラインも、シリルが心安く暮らせるよう日々、工夫を凝らしている。外出できないシリルが仕事による精神的疲労を溜めないようにしてくれているのだ。シリルもその気遣いに気付かないほど鈍感ではない。父亡き後、シリルがこうして不自由なく暮らせているのは、使用人たちの努力の賜物だった。




