第1章 代理と何でも屋【3】
秘め事のような話し声にゆっくりと目を開くと、視界にふたりの人影があった。よく杖から頬が落ちなかったものだと感心しながら顔を上げる。窓の外はすっかり夕暮れだ。シリルの覚醒に気付いて話すのをやめたふたりが、軽く姿勢を正すのがわかった。
「おはよう。随分とよく寝ていたわね」
その張りのある可愛らしい声には聞き覚えがある。ニコルと話していた少女の声だ。
「あたしたちが誰だかわかる?」
「……何でも屋のロスとメリフ……」
見上げるほどに長身のロスと、ポニーテールの少女メリフ。何でも屋兄妹だ。ニコルの情報が正しいか確かめるために目を擦るシリルに、へえ、とメリフが感心したように言った。
「本当に感覚を共有しているのね。じゃあ、あたしたちがなんの依頼を受けたかわかる?」
「……わからない……」
ぼんやりとした頭は上手く回らず、シリルは自信を失くして俯く。呆れられるのではないかと構えたが、ふうん、と呟くメリフは平然としていた。
「肝心なところが聞き取れなかったのね。いいわ。改めて確認しておきましょ。依頼主はあなたなんだし」
メリフは、感覚共有の曖昧さを知っているのかもしれない。そう考えつつ、シリルは申し訳なさとともに小さく頷く。
「ニコルから聞いた依頼は、グレンジャー男爵とシドニー・グレンジャーの調査よ。ニコルの口振りから、グレンジャー男爵があなたのお父様の死に関係している可能性があるわ」
「そう……」
「あなたはどう考えてるの?」
「……わからない……」
寝起きの頭はいつも回転が鈍い。ニコルがシリルの頭の中をそのまま話せたらよかったのだが、そもそもこの頭に考える力など期待できない。ニコルがそう問われていたとしても、おそらく答えることはできなかっただろう。
「では、シドニー・グレンジャーはどんな人間だ」
低音の落ち着いた声が言う。少々厳しさを感じさせられるロスの気配に、シリルはきつく手を結んだ。まともに答えることができたなら、この緊張も必要なかっただろう。だが、そんなことは考えたところで意味がない。
「わかりません……。起きると必ず居る、ということくらいしか……」
「必ず居る?」と、メリフ。「どこに?」
「えっと……寝室……」
「いつも居るのにどんな人かわからないの?」
「うーん……どうかな……」
今朝は何を話しただろうか。そもそも、あの人影は本当にシドニー・グレンジャーだったのだろうか。顔がよく見えないのに、どうやって判断したのだろう。考えれば考えるほど、シリルにはよくわからなくなっていく。
「シドニーは、子どもの頃からそばにいる……それくらいしかわからない……」
依頼主なのに不甲斐ない。そう思ってみたところで、シリルにはこれ以上はどうすることもできない。自分が役立たずであることはとうに承知している。だから、俯くことしかできない。
「まあいいわ。それはあたしたちがこれから調査するから」
「うん……ごめんなさい」
「いいのよ。ゼロから調査を始めるのは慣れてるわ」
メリフとロスから感じられるのは、確かな自信だ。頭のぼんやりしたシリルから聞き出した曖昧な言葉より、自分たちで集めて来た情報のほうが格段に当てになるだろう。彼らはそうやって生きて来たのだ。シリルには、暖炉の利いた部屋で昼過ぎから夕暮れまで居眠りをする自分とは別格に感じられた。ぼやけた頭で導き出した答えの中で、それはおそらく最も正しいのだろう。
……――
ああ、何も見えない。あの美しい光景が、何もかも。
『その目はもう不要だな』
圧倒的で暴力的な正義を前に、為す術もなく蹂躙される。拒絶はすでに意味を成さない。
『どうせ役立たずだったわ』
――どうして……僕は、ただ……。
喉の奥に張り付いた言葉は、降り注ぐ赤に掻き消されて。塗り潰された鼓動は、張り裂けんばかりに叫び続けた。
『ああ、汚らしい。本当に鬱陶しいわ』
――どうせなら、もう、いっそのこと……。
諦めにも似た怨嗟の果てに、踊り狂う笑い声が木霊する。
もう何にも届かない。この願いは、叶うことも、消えることも許されない。
許される必要はない。
もう何もかも、必要なくなってしまったのだ。
……――
ようやく呼吸を取り戻すように目を覚ますと、ひたいを汗が伝うのがわかった。全身が汗だくで、服は冷たく湿っていた。部屋の中は暗く、すでに日が暮れていることがよくわかる。
起き上がったシリルに気付いて、そばにいた影が身動ぎする。
「気分はどうだ?」
聞き慣れた声が問う。ランプの仄かな明かりに照らされた顔は、半分しか見ることができない。何度か瞬きをしても、その輪郭はぼやけたままだった。
「……誰……?」
「僕だ」
寝覚めの視界では、その顔をはっきりと捉えることができない。それでも、その優しい声はいつも通りに聞こえる。その声が浅い呼吸を落ち着けるようだった。
「どうしてそんなに泣いているんだ?」
顔を優しくハンカチで拭われて、頬を伝うのが汗ばかりではないことを自覚する。慰めるように目元をなぞられても、視界が鮮明になることはない。
「どんな夢を見た?」
「……わからない……」
寝起きの体は重い。いつも以上に回らない頭では、その問いに答えることはできない。答えようと努めるだけ無駄なのだろう。
静かなノックが聞こえる。誰かがシリルを起こしに来たようだ。
「じゃ。よく休めよ」
バルコニーから出て行くのを見送ると、失礼します、と静かな声とともにアイレーが部屋に入って来た。その明るい笑みを見た途端、胸中に広がるのは安堵だった。
「シリル様、お目覚めでしたか」
「うん……」
「湯浴みの支度ができていますよ」
アイレーに促され、シリルはベッドから立ち上がる。体はやはり重かった。
* * *
湯浴みを済ませ、寝室のひとり掛けソファに腰を下ろすと、シリルは深く息をついた。アイレーが差し出したグラスの水をゆっくりと飲み干し、またひとつ息をつく。それを待っていたトラインが案ずるように言った。
「あのおふたりをどう思われますか?」
トラインの言葉に、あの兄妹を頭の中に思い浮かべる。取っ付きにくさを感じさせる空気を纏うロス。対照的に親しみやすい雰囲気の快活なメリフ。一時間ほど顔を合わせただけで、まだふたりの為人を掴むことはできない。そもそも、シリルにとってそれは難しい作業である。
「わからない……。トラインが信用できないと判断したら追い出しましょう」
シリルがそう言って微笑むと、トラインは重々しく頷いた。トラインは若くも人を見る目がある。トラインに任せておけばシリルは安心できる。自分の当てにならない目より、確かな目を頼ったほうがいいだろう。
「ですが、もし寝込みを襲われでもしたら……」
アイレーがシリルの髪をブラシで梳きながら心配そうに言う。まだあのふたりを信用することができず、シリルを狙う刺客のように思っているような口振りだった。
「デュランの警護を掻い潜られたら諦めよう」
寝室のドアの外には、騎士のデュランがいる。夜から朝にかけて警護するシリルの護衛だ。年齢はシリルとそう変わらないが、宮廷騎士を目指していたこともあり実力は確かである。
「そうですね」トラインが頷く。「彼らが情報通りの実力を持っているとしたら、きっとこの屋敷は壊滅します。信用に値するかどうかは、これからの言動を見て判断するしかありませんね」
アイレーは不満げな様子だ。それでシリルの首と体が離れれば元も子もない、という話である。だが、あの執務室にはトラインがいたとは言え、噂になるほどの実力があるとすればシリルの息の根を止めることは容易だっただろう。わざわざ油断させて寝込みを襲う必要はない。それはおそらく、トラインもアイレーもわかっているはずだ。
「シリル様は優しすぎます」
アイレーはシリルの髪に丁寧にオイルを塗り込みながら言う。シリルは答えに困って曖昧に笑った。
「僕には、よくわからないから……」
シリルにはそう言うことしかできない。頭の中は空っぽで、物を考える仕組みすらなくなってしまったように感じられる。それはトラインもアイレーも承知しているだろう。
「シリル様、どうぞ」
アイレーがトレーをテーブルに置く。シリルはゆっくり水を飲み干すと、一日の締め括りの一本に火をつけた。窓の外に向けて吐いた煙は、風にさらわれて宵闇に呑まれていく。今夜は風向きがちょうどよく、煙が部屋の中に入ってくることはなかった。
吸い殻を灰皿に押し付け立ち上がる。何時になったのかはよくわからないが、もう寝る時間のようだ。
ベッドに潜り込む。適当にかけた布団を、アイレーがシリルの肩まで引き上げた。それからいつも通り、シリルの胸元をぽんぽんと優しく叩く。
「おやすみなさいませ。良い夢を」
「うん、おやすみ」
シリルは寝付きが良い。アイレーが寝室を出てドアの音を最後に、あっという間に夢の世界へと引き込まれる。夜の静かな空気も好きなのだが、睡魔がそれを許してくれないようだ。
柔らかいベッドに体を沈め、波打ち際で砂浜に埋もれるような、そんな感覚に身を委ね、目を閉じる。現実の一日は終わり、夢の一日が始まる。
夢は綺麗事の空間。世界中から掻き集めた輝きが、失望されまいと瞬いて、抗いきれずに消えてゆく。そんな夜も、嫌いではない。
所在なく立ち竦むと、宵のカーテンの向こう側で星空が煌めいている。ぽたぽたと落ちた黒い雫が肩に纏わり付く。それは重く、とても重く、体の自由を奪って嘲笑った。
星屑が堕ちる。三日月がクッキーのように崩れ、雨となって降り注ぎ、眼下の暗い水溜まりで弾けた。
なんて美しい光景だろう。この世界で生きることができたなら、それ以上に良いことなんてない。
叶うはずのない切望が、足元を掬った。
「……そうだね」
誰にでもなく呟く。それは風に掻き消され、きっとどの耳にも届くことはないだろう。
「きっと、きみが正しい」
――……
――ああ、また遠退いた。これで何度目だ。
憎悪に埋もれた愉悦が、贅沢な願望を懐いて枯渇する。
こびり付いた硝煙と、見え隠れする焦燥が、屑に躓いて跪く。
深淵の縁で嘲う警告音が、まるで張り裂けんばかりに泣いている。
不快な雑音に眉をひそめ、苛立ちとともに水面を蹴ると、忌々しく赤い雫が飛び跳ねた。
このままでは息が止まってしまう。いまはまだ、その時ではない。
一度限りの過ちが、二度目の隠れた燈に、五度の頷きをもたらした。
嗚咽は醜く朗らかに、伸ばした手を落とされて堕落する。
――ああ、そうさ。いつだってきみが正しい。




