第1章 代理と何でも屋【2】
微笑んだまま口を開かないニコルに、ロスが痺れを切らせたように溜め息を落とす。それから、毅然とした態度でニコルを見据えた。
「シリル・ラトの情報を」
「はい」
返答は届いていないが、ここはニコルの言葉で答えるしかないようだ。ここでふたりの不信を買うわけにはいかない。メリフの言う通り、こういった依頼には信頼関係が必要になることもあるのだ。
「半年前、急逝した父に替わって伯爵位を継ぎました。ご覧の通り、シリルは意識が混濁するときがあり、伯爵家の事業も領地経営もまともにこなせていません」
「あなたはできないの?」と、メリフ。「そのほうが早そうだけど」
「僕はペンを持てません。それに、シリルが起きているあいだ、僕は出られません」
「なるほどね」
シリルが起きているあいだに顕現できたとしても、ニコルの脳内はシリルとほとんど変わらないと言える。シリルにできないことをニコルができるかと言えば、少々疑問の残ることである。
「こちらの調べでは」ロスが言う。「シリルは次男だそうだが」
「はい。現在、伯爵家の事業が非常に混乱しています。兄がそちらに掛かりきりになっているため、代わりにシリルが伯爵位を継ぎました」
そうでなければあの机の上の書類はもっと早く片付いていただろう、というのはニコルの個人的な考えである。いまはただ日々、山が増えていく一方だ。
「爵位ってそんなに大事なの?」
「爵位自体はそれほど重要ではありません。ラト家の正当な当主と、領地の経営者が必要なだけです」
爵位を巡っては、ラト家一族のあいだで揉め事に発展しそうになった。親族の中には、爵位を重要視する者もいるのだ。だが渦中のシリルはああいった状態で、兄がまとめ上げて現在の形に落ち着いた。納得していない親族も残っているが、いまはこれで仕方がないと兄が決定を下したのだ。
「ですが、爵位は一時的に預かっているだけで、事業が落ち着けば兄に返すことになります」
「でも、シリルは仕事ができないんでしょ?」
「はい。シリルの代わりにほとんどの仕事を担っているのがシドニー・グレンジャーです」
あくまで穏やかに微笑んで言うニコルに、メリフはまた呆れを湛えた溜め息を落とす。
「それなのに調査が必要なの?」
「はい」
調査に次ぐ調査。たとえ膨大な時間がかかったとしても、ふたりにはそれを完遂してもらわなければならない。そのために信用を勝ち取らなければならないならそれはニコルの役割だが、ふたりはいまだに不審な様子だ。
「前伯爵はなぜ急死した」
「最終的に事故死ということになりました」
「最終的に?」
より一層に怪訝な様子でメリフが首を傾げる。ニコルは、不愛想なロスと対照的にメリフは感情表現が豊かなように思えた。その分、一度でも不信を買えば取り戻すのは難しいことになるかもしれない。ニコルは慎重になる必要があった。
「前伯爵の乗っていた馬車が崖から転落しました。御者の体には銃創があり、弾薬が検出されました」
ロスのメリフの空気が張り詰める。ただの転落事故であったなら、話はもっと単純だっただろう。ただ、それではふたりを招き入れる必要はない。
「同乗していた執事の体からは毒の成分が検出されました。前伯爵だけは異常がありませんでした。だから事故死です」
「ふうん……。何が原因で転落事故を起こしたか、ということね」
「はい」
この街の警察は優秀だ。難解な事件を解決したことは数えきれないほどある。しかし、ラト前伯爵の転落事故についての捜査は遅々として進まない。シリルがああいった状態であることは、馴染みのある警察官なら把握している。つまり、捜査に関する証言はすべて使用人のものであるということだ。それでも、捜査が難航しているのは紛れもない事実だ。
「標的との関係は」
「グレンジャー男爵は前伯爵の事業の部下で、重責ある地位に就いています。前伯爵とは折り合いが悪かったようです。前伯爵を引き摺り下ろすことを考えているようだ、と話す関係者もいました」
ロスとメリフの雰囲気がより険しくなる。鋭い気配を持つふたりだ。ニコルの言わんとすることはとっくに察知しているだろう。
「グレンジャー男爵は激情型で、何をしでかすかわからない、と言う関係者もいます」
「そういう容疑者ってことね」と、メリフ。「シドニー・グレンジャーはどうなの?」
「それも調査してください。実際、グレンジャー男爵は前伯爵の跡を継ぎました。ラト家とグレンジャー家は昔から馴染みがあります」
ニコルの曖昧な情報に、メリフの怪訝の色はさらに深まる。ニコルには確かなことは言えない。そのためにふたりを招き入れたのだ。確かな情報があるなら、調査依頼など不要なのだ。
「……その情報だけでは、任務遂行に値するかどうか判断ができない」
ロスが静かに言う。ニコルとしても、現段階では断られてもおかしくないと思っていた。この様子では、いまはそのつもりはないのだろう。
「依頼があればなんでも遂行するというものではない。しばらくお前たちと行動をともにさせてもらう」
「承知しました。ですが、どうやって……」
「使用人に紛れ込んだり、親戚になったり、手段はいろいろあるわ」と、メリフ。「こう見えても社交界は長いの。任せておいて」
「わかりました」
どうやら頼もしいようだ、とニコルは心の中で独り言つ。メリフは実際に社交界で生きて来たはずのシリルより若いように見えるが、経験値の差が大きいと思わせるには充分の自信を湛えた表情だった。
「オーランド家の夜会はいつだ」
「十三日後、二十日です。甥御の社交界デビューだそうです」
「わかった。それまでに情報を集める」
「シリルとの信頼関係も築かないとね!」
可愛らしく右目を瞬かせるメリフに、ニコルはまた微笑んで見せた。
「はい、よろしく」
「あなたの笑った顔ってなんだか胡散臭いわね」
「それほどでも」
「褒めてないのよねえ」
胡散臭かろうがなんだろうが、ニコルは微笑まなければならない。それがシリル・ラト代理であるニコルの役目だ。しかし、ただ微笑んでいればいいというわけではない。ニコルには、決して漏らさず伝えなければならないことがあった。
「ひとつだけ、約束していただきたいことがあります」
静かに言うニコルに、メリフが首を傾げて先を促した。
「この先、もし男爵家の者に何か尋ねられたら、ホーキンズ氏の指示で来た、と答えてください。ホーキンズ氏はシリルの叔父で後見人です」
これは必ず守ってもらわなければならない。ふたりが何者か悟られる前に、詮索されることを防がなければならないのだ。
「シリルのことを決めるのはホーキンズ氏です。ホーキンズ氏の指示と言えば反論できる者はいません」
「わかったわ」
例えグレンジャー男爵でも、シリルに関することでホーキンズ氏の指示に背くことはできない。ホーキンズ氏はそれだけ大きな決定権を持っているのだ。
「……こちらもひとつだけ訊いてもいい?」
「なんでしょう」
「シリルは補聴器を着けているように見えたけど、聴力が弱いの?」
よく見ている、とニコルは心の中で感心する。ロスとメリフがシリルと会ったのは、ほんの数秒のことであった。そのあいだに目敏くシリルを観察していたのだ。
「補助的な物です。多少、聴力に問題があります。ですが、普通に会話する分には特に支障はありません」
「ふうん」
メリフはニコルの答えに納得したようで、さて、と声色を明るくして立ち上がった。
「さっそく行こうか、お兄ちゃん!」
「ああ」
やれやれ、といった様子でロスも腰を上げる。
「おふたりは兄妹なんですね」
ニコルが感心して言うと、うふ、とメリフが意味深に笑った。ロスに視線を遣ると、うんざりした様子で溜め息を落とす。ニコルにはよくわからないが、一筋縄ではいかないふたりのようだ。
……――
ふと見上げた空を、曖昧な流星が真っ赤な炎を纏って滑り堕ちていく。その軌跡に塵が舞い、灰色の雫となって降り注ぐ。
――ああ、なんて綺麗な世界なんだろう。
鮮明な色彩が繊細に織り成しぼやけて烟る光景が、同じ処へ逝きたいと訴えている。
許されない願いが渇望となって散っていく。
パッと弾けた花弁が、地で砕けて真紅の水溜まりを作る夢。
揺り椅子に身を委ね、風と遊ぶ嘲笑を子守唄に目を閉じる。
撃ち落された鳥の羽が、二度と目覚めぬようにと祈っている。




