第4章 別れを告げる【8】
「レスター、そっちの状況はどうだ」
階下から呼び掛ける声に、書類に落としていた視線を下に向ける。グレンジャー男爵がレスターを見上げていた。レスターは書類を机に戻しつつ、軽く肩をすくめる。
「どうにも。書き換えてもひと晩で戻ってしまうんですよ」
グレンジャー男爵は、ふむ、と顎髭を撫でた。
「何か妙なものが働きかけているようだな」
「ええ。厄介なものです」
父の死後、レスターは伯爵家の事業にかかりきりになっている。昼夜問わず働いているが、状況は一向に好転しない。それどころか、悪くなってすらいるのかもしれない。
グレンジャー男爵は溜め息を落としつつ階段を上がって来る。グレンジャー男爵は事業で重役に就き、亡き伯爵の代わりを真摯に務めてくれていた。
「シリルの様子はどうですか? 任せきりにしてしまい申し訳ないのですが……」
「特に変わったことはない。有能な補佐たちはよく働いてくれているようだ」
「そうですか」
事業で昼も夜も時間を奪われているため、なかなかシリルに会いに行くことができない。それでも、厳選した使用人たちがシリルのために働いてくれているはず。いまはそれを信頼するしかなかった。
「だが、シリルは何かを知りたがっている。何を知りたがっているのか自分でもわかっていない可能性があるが」
「そうですか……。男爵はこれだけラト家に尽力してくださっているのに、事業での評価が変わらないのは口惜しいですね」
グレンジャー男爵は、ラト家のため――シリルのために労力をかけている。それが事業の評価に繋がらないのは、シリルが事業に一切、関わっていないためだ。
「人間は表面しか見えない生き物だ。自分が信じたものだけを信じる。私は気にしていない。シリルの安全が確保できればそれでいい。それがラトとの約束だからな」
胸を張るグレンジャー男爵に、レスターは深く頭を下げる。
「ありがとうございます。私も早くシリルのもとに帰れるといいのですが……」
「まあとにかく、できるだけのことをしよう」
「はい」
レスターはこの事業を立て直さなければシリルのもとへは帰れない。シリルは不安がっていることだろう。一刻も早く、この難解な仕事を終わらせなければならなかった。
……――
早く帰って来て。私はいつまでも待っているの。
この声が届けばどれだけいいことか。本当にもどかしいわ。
あなたは私だけのもの。私はあなただけのもの。
それは決まっているのに、どうしてこんなに遠いの?
ああ、本当に邪魔だわ。早くどこかへ消えてちょうだい。
あと少しなの。あと少しでこの手が届くわ。
だから、待っていて。私はいつまでも待っているわ。
……――
重苦しく足を引っ張るものから逃げるように目を覚ますと、カーテンの向こうはまだ陽の姿はない。荒く呼吸を繰り返す。耳の中がうるさい。手で塞いでも意味はないのだ。
「ルビー……」
その呼び掛けに応えるように、温かな手がシリルの頭を撫でた。
「ここにいるよ」
「耳が痛い……」
「可哀想に」
温かい手が耳元に触れる。ただそれだけで、少し痛みが軽減するようだった。
「ルビー……母様はどこ……?」
「どこかな。ボクにも見えないんだ」
「……母様に会いたい……」
「いまは難しいかもしれないね」
温かい手は、慰めるようにシリルの頬を撫でる。その手の温もりが心地良く、このまま、また眠りに就いてしまえそうだ。
「ねえ、シリル。もうあんなやつらに頼らなくていい」
その声は朗々と歌うようで、うるさい耳の中で優しく響く。
「ボクだけを信じていて。誰も信じなくていい」
「……わからない……何もわからないよ……」
「何もわからなくていい。ゆっくり眠ろう」
丸い指がするりと目元を撫でる。まるで眠りの世界に誘うように。
「目を閉じて。そうしていれば、いつか朝が来る。大丈夫。ボクがここにいるよ」
ただそれだけのことで、胸中に安堵が広がる。この手に導かれれば大丈夫。そんな根拠のない安心感が、シリルには必要なもので、欠けてはならないものだった。
……――
眩いほどの赤い夕焼け。青白く輝く半月。
月が満ちる頃には、見えないものへの扉が開く。誰かがそんなことを言っていた。
ここではないどこかへ行けるなら、きっとそれは、とても良いことだろう。
悪いことなどひとつもない。ただ、聞こえないだけ。目が開かないだけ。
すべては終わる。月が陰る頃には、何もかも消える。
泡が弾けて散るように。風がすべてを浚うように。
それでいい。もう何もかも、意味がないのだから。
これで、すべてがさようなら。




