第4章 別れを告げる【6】
「誰も別館の様子を見に行かないけど、大丈夫なのかしら」
廊下で箒掛けをしていた侍女が言った。近くにいた別の侍女が振り向く。
「でも、別館には近付かないようにって言われてるし……」
「シリル様は、少しは良くなったのかしら。あんな状態で領地経営なんて……」
その声には案ずる色が湛えられている。グレンジャー男爵家本館に居る者たちのほとんどがシリルを気に掛けているようだった。
「男爵領が旦那様に返還されるのは、もう手続きをするだけなのよね。そうすれば、伯爵領の統治は男爵家が預かれるわ」
「シリル様がご自分でやると仰ったんでしょ? ほとんどシドニー様がやってらっしゃるみたいだけれど」
使用人というものは、すべからく噂好きだ。こうして手だけを動かしていれば仕事が進むあいだ、それと同時に口が動く。
「焦ってらっしゃるんじゃない? 取り残されないように、って必死なんじゃないかしら」
「そうね……」
こうして無駄口を叩いていれば、いずれ誰かに見咎められる。それでも、彼女たちは頭が退屈しているのだ。
「それにしても、どうして旦那様はあんなに悪評が流れているのかしら」
「いままでの言動が悪かった、としか言いようがないわね。ラト伯爵のおかげで人が変わられたようになったけれど」
「いまは心を入れ替えて真面目におやりになっているのに、評価はなかなか変わらないものなのね」
こういった立ち話は、周囲に誰もいないときに行われる。誰もいないと思われるときだ。
「でも、伯爵家の事業はどうしてあんなに混乱しているのかしら」
「あれほど混乱していなければ、レスター様が問題なく伯爵位を継げたのにねえ」
「あなたたち、無駄口を叩くのはそれくらいにしなさい」
厳しい声が聞こえ、侍女たちは肩を震わせる。黒縁の眼鏡の執事が、冷ややかな視線を侍女たちに投げていた。
「ジェスターさん……!」
「伯爵家について憶測するのはやめなさい。あなたたちの気にすることではありません」
「は、はい……!」
「掃除に戻ります……!」
侍女たちはぱたぱたと足音を立てて去って行く。この廊下は、すでに掃除する場所がなくなったことだろう。
不意に、鋭い視線がこちらに投げかけられた。
「そこにいるのは誰です」
執事が足を踏み出すより一瞬だけ早く、ロスはバルコニーから身を乗り出す。裏庭に誰の姿もないことは確認済みだ。そのままバルコニーの真下に入り、執事の視線を切る。執事は少し辺りを見回したあと、窓を閉じた。
慎重に様子を確認してから、ロスはグレンジャー男爵家本館の裏庭を脱した。庭師の気配を感じる裏庭を抜け、人気のない別館の庭からバルコニーに上がる。
(これが本館に近付ける限界か……。たまたま口の軽い使用人がいて助かった)
グレンジャー男爵家本館の守りは硬い。シリルを保護しているため、硬くせざるを得ないのだ。たまたま裏庭から庭師が離れていたのは僥倖だった。
バルコニーからサロンに入る。そろそろ日が沈もうとしている。庭師たちは今日の仕事を終える頃だったのかもしれない。
シリルはラト伯爵の方針によって事業を立て直していると言い、ニコルは事業が混乱していると言っていた。先ほどの侍女たちの噂話を聞く限り、事業が落ち着きを取り戻すまでまだ時間がかかるようだ。シリルのことが秘匿されている以上、伯爵家も男爵家も、慎重にならざるを得ない。
サロンのドアが開くので、ロスは考えるのをやめる。顔を出したのはトラインだった。窓の開閉音を聞いて様子を見に来たようだ。
「ロス様。おかえりなさいませ」
「ああ。シリルはどうしている」
「いまはメリフ様とご一緒にダイニングにいらっしゃいます。ロス様もどうぞ。夕食のご用意ができております」
「ああ」
シリルは今日の仕事をすでに終えているらしい。終えている、と言うと怪しいところだが。
ダイニングでは、シリルとメリフが朗らかに歓談に興じている。仕事から離れていれば、シリルも穏やかに過ごせるのだ。
先にロスに気付いたのはメリフだった。
「おかえり。遅かったわね」
その声でシリルもロスを振り向く。補聴器を着けていても、ロスの足音は聞こえていなかったようだ。
「おかえりなさい。何か新しい情報はありましたか?」
「特に報告できることはない」
短く答え、ロスはいつもの席に腰を下ろす。間もなく夕食が運び込まれて来た。
シリルの周囲には、彼を取り巻く奇妙な気配がある。シリル自身にも、隠されていることは山ほどある。今回の依頼は、一筋縄ではいかないようだった。




