第4章 別れを告げる【5】
贅を求めていたわけではなかった。
ただ、ただ、当然のものを手にしたかった。
それが許されざることであるなら、この生に意味はあったのだろうか。
虹色に輝く蝶の鱗粉が鼻腔を突き刺し、月は雨の向こうに消えようとしている。
このぼやけた景色の中、静かに眠れるのだとしたら、それが唯一で最後の希望なのだろう。
伸ばした手は霞を掴み、均衡が崩れた世界では、足を掬われ、記憶を食べ、ただ贖罪の日を待っている。
ただ、そこに在りたい。
それは必ず悲しみを生む。
遠く在りし日を嘲笑う。
ただ、それだけのこと。
人の目に触れぬよう、人の耳に入らぬよう、ただ息を殺していた。
……――
ふと目を開くと、不気味な左目が覗き込んでいた。
「ねえ、息をしているのは辛くはない?」
子どもの声が謡うように言う。その左目は楽しげに細められた。
「こんな星屑のような世界で」
ぼんやりとした頭で考えても、これがなんなのかはよくわからない。
「きみは誰?」
そう問いかけると、左目はまた楽しそうな色を湛えた。
「さあ。きみが知る必要はないのかもしれない」
ぼやけた視界の中に浮かぶ左目は、不思議と恐怖は感じられない。むしろ、どこか懐かしいような、安堵を与えるような、そんな感覚になった。
「ボクはきみの息の根を止める。もう一度だって耐えられやしない」
その声に身を委ねたとき、どうなるのだろう。何もかも見えないいまより、何もかも良いのかもしれない。
「それしかない。そうすることでしか生きていけない」
きっと、その通りなのだろう。この瞳にすべてが映ったとき、何もかも終わるのだとしたら、それはきっと、悪いことではないのかもしれない。
「ボクにはきみの苦しみがわかる。わかってあげられる。あいつらなんかより」
このまま目を閉じていよう。そうすれば、最期が訪れる。それはきっと、この生命の息吹。そして世界が終わって――
「いてっ」
ひたいを弾かれる衝撃に目を覚ます。垂れていた首を持ち上げると、メリフが呆れた様子でシリルを見ていた。
「少し目を離すとこうなんだから」
どうやら、左手にペンを握ったまま居眠りしていたらしい。何時になったのかはわからないが、メリフが席を外していたということは、そう長い時間ではなかっただろう。
「ニコルが出て来なかっただけよかったってことかしらね」
「ニコルが仕事をできれば話が早かったのにね……」
シリルは腕を前に突き出して伸びをする。机に積まれた書類は少しも減っていないように見える。実際、減っていないのだ。シリルは気を取り直し、目の前の書類にまた目を落とした。
「お兄さんが爵位を継いだあと、シリルはどうするの?」
「どうするかな……兄の判断によるかな」
この書類がすべて片付いたあと――そんなときが来るかは判然としないが――シリルがどうなるか、兄からはまだ聞いていない。きっと何もやることがなくなり、父が亡くなったばかりの頃のように、ぼうっとして過ごすことになるのだろう。
「ゆっくりできるといいのだけれど。いまの生活は、シリルにとって負荷が大きいわ」
「でも、僕もラト家の人間として役に立たないと……」
焦燥にも似たこの感覚は、シリルの頭を必死に動かす。例えメリフの言うように負荷が大きかったとしても、シリルもラト家の人間なのだ。
「そんなことを考える必要はないわ。家のために、なんてくだらない」
最後の言葉には、何か強い感情が込められていた。シリルが首を傾げると、メリフはひとつ短く息をつく。
「なんでもないわ。家のためと思うのはわかるけど、無理をする必要はないわ。シドニー・グレンジャーだって、嫡男のくせに家督を次男に譲ろうとしてるんだから」
「うーん……それはたぶん、僕のせいだから……」
自信を失って呟くシリルに、メリフは何も言わずに首を傾げる。
「僕がこんなだから、放っておけないんだと思う」
「あたしたちができる限りの手伝いをするわ。できないことは頼るようにしてちょうだい」
「うん……」
それから、書類整理の作業に戻る。書類は相変わらずシリルには難解で、一枚を片付けるのに予想よりも大幅に時間がかかる。この書類が領地経営の何に使われるのかはわからないが、兄に言われたとおりの処理をする。ただそれしかできないのだ。
「ちょっと待って。ここのところ」メリフが書類を指差す。「欄が間違えているわ」
「うーん……?」
シリルは書類を持ち上げ、顔に近付ける。字が小さくてよく見えないが、確かに間違えているようだった。
「よく見えないっていつも言ってるけど、視力も弱いんじゃない?」
シリルは聴力を補助するための補聴器を耳に着用している。それでもよく聞こえないときがあるが、着けていないときより数倍はマシだ。
「目も一応、補助する物を着けてるんだけど……」
「それでも見えづらいのね。足をぶつけたりグラスを倒したりするのは、よく見えていないってことなのね」
「それもあるけど……」
シリルのそそっかしさは、目がよく見えていないばかりではない。目が見えていたとしても足をぶつける。シリルにはそんな情けない自信があった。
「眼鏡を作ってみたら?」
「一度、作ったことがある。でも、僕にとって危険な物だったみたい」
「眼鏡が危険って、どういうこと?」
「よくわからないけど……」
「ふうん? まあいいわ。よく見えないなら言ってちょうだい」
「うん……」
それから、メリフの目を頼りつつ書類整理を続ける。兄であれば、一日もあればこの書類の山を片付けることができるのだろう。だが、いま兄は事業で手一杯だ。シリルがこの書類たちを担うしかない。いまはそれでしょうがないのだ。




