第3章 自我【6】
ダイニングでは、メリフがテーブルに何枚かのメモを広げていた。ふたりに気が付くと、パッと明るい笑みを浮かべる。
「お疲れ様!」
「メリフもお疲れ様。何か新しい情報はあった?」
シリルとロスもテーブルに着き、メリフはメモの片付けを始めながら言う。
「シドニー・グレンジャーについて探ってみたけど、特に目新しい情報はないわね」
「そう……」
ふたりは責めないでいてくれるが、本来なら、シリルが証言すれば話が早いはずだ。言葉を失い力になることのできない状況に、シリルも歯痒さのようなものを感じる。その感覚を懐いても仕方のないことなのだが。
「信じられないくらい裏のない人ね。真っ当すぎて気持ち悪いくらい」
「…………」
それをシリルが知っているはずであることは、ふたりにもわかっているだろう。シリルを問い質せば話は早い。それでもそれをしないのは、ふたりの優しさのように感じられた。
アイレーとトラインが食事をテーブルに並べているあいだ、メリフがまた口を開く。
「シドニーはグレンジャー男爵家の本館にいるんでしょ?」
「そうだと思う」
「こんなに近くにいるのに、シドニー・グレンジャーの情報がほとんど掴めないなんてね」
メリフは肩をすくめる。このふたりが情報を掴めないのなら、その秘匿は随分と厚いものであるのだろう。
「シリルの仕事はどうなの。少しは進んでいるの?」
「うーん……どうかな。いつか終わると信じたいけど……」
「先が長そうね。まあ、焦る必要はないわ。できることをやっていればいいのよ」
メリフは優しく微笑む。その表情に、シリルはまた言いようのない気持ちになっていた。
(みんな、親切だ。どうして、こんな……なんの価値もない僕に……)
――そうだ。お前にはなんの価値もない。
――なんの価値もないお前が、なんのために生きている。
不意に低い声のようなものが頭の中に響く。それは耳の奥を震わせ、不快な何かが心をざわつかせる。背筋が寒くなるような感覚に、シリルは首をすくめた。
「シリル?」
メリフの声にハッと意識を現在に戻す。食事の支度はすでに済んでいた。
「どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
「疲れているなら正直にそう言うのよ」
「うん……ありがとう」
なんの価値もなくただ無為に息を吸っているだけの自分。そんな不気味なものが頭の中を駆け巡る。ただここに居るだけの存在。それが許されることなのか。いまはまだわからなかった。
* * *
湯浴みが済むと、ようやく一日が終わることを実感する。アイレーはいつも通りシリルの髪に丁寧にブラシを通し、トラインはレモン水を用意していた。
「あのふたりはどうですか?」
シリルの問いに、そうですね、とトラインは穏やかな雰囲気で顔を上げる。
「まだなんとも。シリル様の敵となることはないのではないかと思いますが」
「アイレーはどう?」
「依頼は忠実にこなしていらっしゃるようです。ニコルが何も言わないなら、特に問題ないということかもしれません」
「うん……」
シリルは曖昧に頷く。トラインとアイレーがそう言うのなら間違ってはいないだろう。だが、何かが心のどこかで引っ掛かっているような気がする。
「何か気になられることがおありですか?」
トラインが優しくシリルの顔を覗き込む。シリルは俯いて首を横に振った。心のどこかで湧いている何かを説明する言葉は持ち合わせていなかった。
「……なんでもありません」
「何か気に掛かることがおありなら、なんでも仰ってください」
「わかりました」
トラインが下がって行くと、アイレーがトレーをシリルの前に置く。シリルは水をゆっくりと飲み下し、ひとつ息をついた。スリッパを脱いでベッドに潜り、適当に布団を被る。アイレーがそれを丁寧に直し、ぽんぽん、と優しく胸元を叩く。
「ゆっくりお休みになってください」
「うん、おやすみ」
アイレーが離れて行くのと同時に、眠気が瞼を重くする。ゆったりとした微睡の中、あの頭の中に響いた声のようなものが思い出された。
聞いたことがあるような気がする。そんなことはないはずなのに。
眠ってしまおう。アイレーがドアを閉じれば、いずれ夜は終わりを向ける。
――僕には何もわからない。
――どうせ、僕には……。




