第3章 自我【5】
アイレーにグラスを返すと、シリルは書類整理に取り掛かった。今日はもう応対の件はないはずで、相変わらず机の上に散らかった書類を片付けなければならない。
ロスに見張られながら一枚を「確認済み」に送り込む。確認した書類はトラインが所定の処理をするはずだ。
二枚目に取り掛かる。先ほどの書類より字が小さく、目を凝らして必要な情報を書き込んだあと、判子を持つシリルの手をロスが止めた。
「待て。それはまだ保留のはずだ」
「え……」
「この書類のここだ。こちらの書類上では確定しているが、それをこちらで確定させるためには向こうの確認を待つ必要がある」
「ああ……そうでした。また初めから書き直すところでした」
「しっかり確認しろ」
「うーん……字が見えづらいんです」
それから、ロスの監視が厳しくなった。書類の内容に目を凝らすシリルの横で、シリルが見逃しそうになった箇所を指摘する。ラト伯爵領のことはシリルのほうが詳しいはずなのに、ロスは初めて見た書類でもその内容を素早く分析して把握するようだ。
書類を何枚か確認済みに送ったあと、アイレーがレモネードを持って来る。シリルは子どもの頃からアイレーの作るレモネードが好きだった。それをアイレーに言った記憶はないが、いまでもこうして作ってくれるということは、子どもの頃に伝えたことがあるのかもしれない。
「……、……?」
ふと、シリルはロスを見上げた。その視線に気付いたロスは、怪訝な様子でシリルを見遣る。
「なんだ」
「いま何か言いませんでしたか?」
「何も。グラスに口をつけているのを見ただろ」
「そうですか……。何か物音と聞き間違えたみたいです」
「俺には何も聞こえなかった。耳が良いんだか悪いんだかよくわからないやつだな」
「あは……そうですね」
耳鳴りを人の声を聞き間違えることはないだろう。聞き間違えたということは、何かしらの物音がしたというのは確かだ。シリルは自分よりロスのほうが耳が良いはずだと思ったが、おそらく何かの音がしたのだろう。そうでなければ、聞き間違えることはないはずだ。
――……
目玉に杭が打ち込まれた。痛みはない。まったく痛くない。ちっとも痛くない。血とも涙ともわからぬ澱んだ黒い液体が、だらだらとだらしなく垂れているだけだ。
――ああ、これはもう使い物にならないなあ。
もう何も見えない。何も映らない。この目玉の向こう側は、どうなってしまったのだろう。
――まあいいや。替えはいくらでもあるし。
すぐに取り替えなくては。監視を逃れる前に、さっさと新しい目を持って来なければ。焦燥感に駆られて手が滑ってしまいそうだ。
しかし、勿体無い。替わりはいくらでもあるが、この調子ではすぐに尽きてしまう。人はこういうのを、無駄な経費、と言うのだろう。
憂鬱な溜め息は星屑とともに足元に堕ち、眩い赤色に染まる空は堕落する。
もう少し。あと少し。
喉から手が生えるほど待ち望んだ結末を、いまかいまかと待っている。
――……
ひたいをこつんと小突かれるので、シリルは目を覚ます。顔を上げると、ロスが呆れた様子で見下ろしていた。
「夕食だ」
「ああ……はい」
慌てて左手の万年筆にキャップを嵌めようとして、寝起きの目が霞んで手こずってしまう。ロスが小さく息をつき、代わりに万年筆を片付けた。
「居眠りとは感心しないな」
「僕の居眠りは諦めてください」
「そのほうがよさそうだな」
ひとつ伸びをして立ち上がったシリルは、ロスのもとへ行こうとして机に足をぶつけた。いてて、と顔をしかめるシリルに、ロスはまた呆れたように溜め息を落とす。
「そそっかしいやつだ。猫背で歩くからぶつかる。背筋を伸ばせ」
「叔父にもよく言われます。父にもよく背中を叩かれていました」
「俺が叩いたら背骨が折れそうだな」
「こ、怖い……」
きっとその通りなのだろうと思うと、歩く凶器という気がしてまた背筋がゾッとする。敵対していたらと考えて、依頼する側でよかったのかもしれない、とそんなことを心の中で呟いた。




