第3章 自我【3】
ああ、相変わらず馬鹿な子だわ。剥ぎ取られた希望を取り返そうともせず、ただ言いなりになっているだけ。ああ、なんて可哀想な子なのかしら。
この腐り切った残像の世界で、あの子の存在だけが確かだと言うのに。
塗り潰されて、押し殺されて、暗いくらい何もない。ただ歪曲した真実があるだけ。
ああ、早く抱き締めてあげなくちゃ。あの子は、泣いているのかもしれないわ。
この私がすべて。この私だけがすべて。
* * *
「じゃ、また夜にね!」
明るく笑って、メリフは廊下のバルコニーから外へ飛び出して行く。それを見送ったシリルは、ロスを振り向いて問いかけた。
「なぜ二階のバルコニーから出て行くのですか?」
「この屋敷に出入りしていることを勘付かれにくくするためだな。万がいち勘付かれて探られても困る」
「なるほど……。でも、昨夜も調査に行ったのに、体力が無尽蔵なんですね」
「何でも屋は体力勝負だからな。俺よりあいつのほうが聞き込み調査に向いているし、俺より体力もあるだろうな」
「なぜですか?」
「聞き込み調査をするなら女のほうが都合がいい。男も女も警戒心が薄く済む」
「ふむ……確かに、ロスが情報を求めて来たら、ちょっと警戒してしまうかもしれませんね」
小さく笑うシリルに、ロスは肩をすくめて見せる。
「変身の魔法は使わないんですか?」
「積極的に使っているが、外見を女に変えても中身まで変わるわけではないだろ」
「ああ、なるほど……、……――」
不意に、シリルは目が回るように視界が揺れ、頭がぐらついた。トラインが支えるように肩に手を添える。膝に手をついて平衡感覚を取り戻そうとしていると、ロスが背に庇うようにして辺りを見回した。何か攻撃を受けていると思っているようだ。
「シリル様、大丈夫ですか?」
「……はい……、……大丈夫です」
ようやく落ち着きを取り戻し、シリルは顔を上げる。案ずるように覗き込むトラインに、薄く微笑んで見せた。
「少し立ちくらみしてしまいました」
「リビングで少し休憩なさいますか?」
「大丈夫です。もう応対が来ていますよね」
「はい。執務室でお待ちです」
「じゃあ行きましょう。もう大丈夫です」
「かしこまりました」
これ以上に待たせるのは悪い、とシリルは自然と早歩きになっていた。それでもトラインとロスが普通に歩いているように感じるので、身体能力の差を見せつけられているようだった。
「シリル」
廊下の向こうからかけられた声に、ロスがサッと角に身を潜める。歩み寄って来るのはグレンジャー男爵だった。朗らかな笑みで、シリルの肩をぽんと叩く。
「たまには顔を見ておかないとな。元気にしているか?」
「はい、なんとか……」
「そうか。今日は応対の予定があるらしいな。ひとりで平気か? ルーカスをつけるか?」
「いえ、大丈夫です。トラインもいますし……」
頭の働きの鈍いシリルでも、ロスの存在は隠さなければならないような気がした。シリルが何でも屋を雇ったとなれば訝しむ。その存在を認識しているかどうかは判然としないが、いまはまだ黙っていたほうがいいとシリルは考えていた。
「そうか。たまには夕食にでも本館に来い。マギーも心配しているぞ」
「はい。そのうち……」
「ああ。不便なことがあればなんでも言うんだぞ」
「ありがとうございます」
グレンジャー男爵はもう一度ぽんと肩を叩き、明るく笑って去って行く。ロスには気付かなかったようだ。
「グレンジャー家の人間はあまりこちらには来ないようだな」
男爵の後ろ姿を見送り、ロスが静かな声で言う。
「そうですね……。居候の身として厚かましいですが、好きなようにさせてもらっています」
グレンジャー男爵が厳しい規則を設けるような人であれば、シリルは息苦しい思いをしたかもしれない。グレンジャー男爵はそれをよくわかっている。シリルを縛ることなく、シリルの思うように暮らせるよう配慮してくれているのだ。
「あまり本館には行きたくありません。僕が本館に顔を出すと迷惑をかけるから……」
「お前はそそっかしいからな。廊下に何も置いていないのはそのためなんだろう?」
「はい。置くだけ無駄ということもありますが……」
「誰も招かないのであればそうかもしれないな」
シリルは曖昧に頷く。いまのシリルには招くべき客はいない。いたとしても、本館はグレンジャー男爵家の邸宅だ。その別館に勝手に客を招くわけにはいかない。そう認識しているのに何も言わずに何でも屋を雇い入れたことに、多少なりとも矛盾を感じた。それも、シリルには正しいのかどうかはわからないのだが。




