第3章 自我【2】
星屑が天井で回っている。一緒になって目も回りそうな光景に目が眩んで、頭がぐらぐらと軋む。三半規管が狂いそうな感覚に、胃の中が空でよかった、とそんなことを思った。
これが満点の星空であったなら、きっと、虹がかかって、雨が降って、キラキラと輝いていたのだろう。雲に包まれて眠れたら、灰色と赤い色の支配下に置かれることもなかっただろう。
灰色の花嫁衣装に不躾な赤い色が飛び散って、紙のように千切れて塵になって、風に乗って……――
「シリル。そろそろ起きなさい」
優しい声に瞼を持ち上げると、勢いよくカーテンが開かれた。突然に白んだ視界にまた目を細める。そうして起き上がるのを拒むシリルの目の前に、呆れた様子のメリフが飛び込んで来た。
「もう八時よ。領地の代表者がこちらに向かっているはずだわ」
「え、本当……?」
「ええ。早く朝ご飯を食べましょ」
「うん、わかった……」
シリルがもたもたしているうちにアイレーがメリフを追い出し、素早くシャツとジャケットを持って来る。シリルがぼんやりしているあいだに手早く身支度を整えた。そうして寝室を出る頃には、シリルもようやく起きていた。
「おはようございます」
ダイニングに到着したシリルの声に、すでに着席していたロスが、ああ、と短く答え、メリフは頬杖をついて愛らしく、おはよう、と微笑んだ。
「何か新しい情報はありましたか?」
「シドニー・グレンジャーを軽く探ってみた」ロスが話し始める。「ウォード薬学研究所の研究員。年齢は二十六歳。爵位を継ぐ予定はないため、王立魔導学院を卒業後、ウォード薬学研究所に入所」
「周囲の評判は非常に良し」と、メリフ。「胡散臭いくらいよ」
「いずれ父親と同じく伯爵家の事業に就くため、紡績に関する研究をしているようだ。長くは在籍しないようだな」
ロスとメリフが窺うようにシリルを見遣る。シリルは小さく頷いた。
「そうですか。優秀な研究員なんでしょうね」
「そうね」メリフが頷く。「シリルには悪いけど、普通なら調査をしようと思う隙もないほど善人よ」
「……そうでしょうね。彼は良い人です。探っているなんて……夢にも思わないでしょう」
手元に視線を落としたまま言うシリルに、ロスとメリフは不審とも言える様子だった。調査の依頼を出したのはシリルで、そのシリルが標的であるシドニー・グレンジャーを「善人」と認めるのだ。その矛盾にもシリルが平然としているため、怪訝に思っているのだろう。
「でも」と、メリフ。「シリルは何か疑っているのよね」
「うん……そう、だね……」
シリルは曖昧に頷く。いまはまだ、自分の考えを表す言葉を知らない。少なくとも、いまの頭の中にはない。
「……ねえ」メリフが重々しく口を開く。「あたしの個人的な考えを言ってもいい?」
「ん。うん、どうぞ」
「グレンジャー男爵がラト家の事業に温情で雇われたとき、シドニー・グレンジャーはまだ学生だった。そうよね?」
「うん、そうだったと思う」
「その時点で、シドニー・グレンジャーが学院を卒業するまで、まだ二年くらいあったわ。どういう経緯かによるけど、ラト家の事業で父親と同じ仕事をしようと決めるには早すぎると思うの。グレンジャー男爵は能力を買われて初めからある程度の地位を与えられていたようだけど、グレンジャー男爵が事業に多くの貢献をしたのはシドニー・グレンジャーの卒業後。シドニー・グレンジャーは元々、ラト家の事業に携わる予定だったの?」
「えっと……父からそういった話を聞いたことはない、かな……」
メリフの説明をすべて理解するのは難しいが、シリルはそれより、ひとつだけ引っかかっていることがあった。
「…………」
「どうしたの?」
黙り込んだシリルに、メリフが不思議そうに問いかける。シリルは、自分の考えを表す言葉を慎重に選びながら言った。
「えっと……シドニーが爵位を継がないことは、知らなかった……」
徐々に自信を失くして声を窄めながら言うシリルに、ロスとメリフは顔を見合わせている。まさかとも思っていなかったであろうことはシリルにもわかっていた。
「シドニーは起きると必ず寝室にいるのよね? 話をすることはないの?」
「うーん……どうかな……」
「学生の頃は? そんなに話をしなかったの?」
「ううん。僕も王立魔導学院に一緒に通っていたし、毎日のように顔を合わせていたよ」
そのときの記憶は曖昧だが、それでも毎日のように会っていたことは覚えているほどにはシドニーと行動をともにしていた。どんな会話をしたかはほとんど覚えていないが、爵位を弟に譲るという話を聞いていれば、それくらいならこの空っぽの頭でも記憶しているはずだ。忘れたのだとしたらだらしない頭である。
「えっと……爵位を継ぐと嘘を言われたわけではないけど……ラト家の事業に携わると考えていたのは、知らなかった」
「では」と、ロス。「前伯爵もそのつもりはなかった可能性があるのか?」
「それはわかりません……。でも、ふたりの調査で、初めて知りました」
ロスとメリフの纏う空気が変わったことは、相変わらず視線を落としているシリルにもよくわかる。シリルを責めるものではないが、叱られた子どものような居辛さを感じた。
「シドニーは、シリルにとってどんな存在なの?」
「…………」
シリルはまた答えに詰まる。自分の言語化能力では頭の中を説明しきれないとわかっているため、慎重に言葉を選んでいると何も言えなくなる。このあいだに質問を重ねられると、責められているような感覚になる。ロスとメリフはそれをわかっているのか、シリルの言葉を待っているようだ。何をどう話せばいいかわからなくなるため、必要な情報を質問してくれたほうが助かる場合もある、と思うのはシリルの我儘である。
「お食事のご用意ができました」
アイレーがワゴンを押して来る。お話はそれまでに、という合図のようにシリルには感じられた。ロスとメリフもそれに気付いているのか、それ以上に依頼の話をすることはなかった。メリフはシリルの緊張を感じ取っている様子で、依頼とは関係のない世間話をする。そうして、食事は和やかに進んだ。




