第3章 自我【3】
ダイニングでは、メリフがテーブルに何枚かのメモを広げていた。ふたりに気が付くと、パッと明るい笑みを浮かべる。
「お疲れ様!」
「メリフもお疲れ様。何か新しい情報はあった?」
シリルとロスもテーブルに着き、メリフはメモの片付けを始めながら言う。
「シドニー・グレンジャーについて探ってみたけど、特に目新しい情報はないわね」
「そう……」
ふたりは責めないでいてくれるが、本来なら、シリルが証言すれば話が早いはずだ。言葉を失い力になることのできない状況に、シリルも歯痒さのようなものを感じる。その感覚を懐いても仕方のないことなのだが。
「信じられないくらい裏のない人ね。真っ当すぎて気持ち悪いくらい」
「…………」
それをシリルが知っているはずであることは、ふたりにもわかっているだろう。シリルを問い質せば話は早い。それでもそれをしないのは、ふたりの優しさのように感じられた。
アイレーとトラインが食事をテーブルに並べているあいだ、メリフがまた口を開く。
「シドニーはグレンジャー男爵家の本館にいるんでしょ?」
「そうだと思う」
「こんなに近くにいるのに、シドニー・グレンジャーの情報がほとんど掴めないなんてね」
メリフは肩をすくめる。このふたりが情報を掴めないのなら、その秘匿は随分と厚いものであるのだろう。
「シリルの仕事はどうなの。少しは進んでいるの?」
「うーん……どうかな。いつか終わると信じたいけど……」
「先が長そうね。まあ、焦る必要はないわ。できることをやっていればいいのよ」
メリフは優しく微笑む。その表情に、シリルはまた言いようのない気持ちになっていた。
(みんな、親切だ。どうして、こんな……なんの価値もない僕に……)
――そうだ。お前にはなんの価値もない。
――なんの価値もないお前が、なんのために生きている。
不意に低い声のようなものが頭の中に響く。それは耳の奥を震わせ、不快な何かが心をざわつかせる。背筋が寒くなるような感覚に、シリルは首をすくめた。
「シリル?」
メリフの声にハッと意識を現在に戻す。食事の支度はすでに済んでいた。
「どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
「疲れているなら正直にそう言うのよ」
「うん……ありがとう」
なんの価値もなくただ無為に息を吸っているだけの自分。そんな不気味なものが頭の中を駆け巡る。ただここに居るだけの存在。それが許されることなのか。いまはまだわからなかった。
* * *
湯浴みが済むと、ようやく一日が終わることを実感する。アイレーはいつも通りシリルの髪に丁寧にブラシを通し、トラインはレモン水を用意していた。
「あのふたりはどうですか?」
シリルの問いに、そうですね、とトラインは穏やかな雰囲気で顔を上げる。
「まだなんとも。シリル様の敵となることはないのではないかと思いますが」
「アイレーはどう?」
「依頼は忠実にこなしていらっしゃるようです。ニコルが何も言わないなら、特に問題ないということかもしれません」
「うん……」
シリルは曖昧に頷く。トラインとアイレーがそう言うのなら間違ってはいないだろう。だが、何かが心のどこかで引っ掛かっているような気がする。
「何か気になられることがおありですか?」
トラインが優しくシリルの顔を覗き込む。シリルは俯いて首を横に振った。心のどこかで湧いている何かを説明する言葉は持ち合わせていなかった。
「……なんでもありません」
「何か気に掛かることがおありなら、なんでも仰ってください」
「わかりました」
トラインが下がって行くと、アイレーがトレーをシリルの前に置く。シリルは水をゆっくりと飲み下し、ひとつ息をついた。スリッパを脱いでベッドに潜り、適当に布団を被る。アイレーがそれを丁寧に直し、ぽんぽん、と優しく胸元を叩く。
「ゆっくりお休みになってください」
「うん、おやすみ」
アイレーが離れて行くのと同時に、眠気が瞼を重くする。ゆったりとした微睡の中、あの頭の中に響いた声のようなものが思い出された。
聞いたことがあるような気がする。そんなことはないはずなのに。
眠ってしまおう。アイレーがドアを閉じれば、いずれ夜は終わりを向ける。
――僕には何もわからない。
――どうせ、僕には……。
……――
『この者の罪は許されざるものである』
――違う、僕じゃない。
『命を以って償ってもらう』
――違う、僕じゃないんだ。
『斬首に処する』
冷たい声と、木槌の音が、不吉に響き渡る。
――ああ、そうか。
――もう真実か真実でないかは、関係ないんだ。
急き立てる嘲笑に、意識は攫われていく。
――これで九十九回目だ。
――次の僕は、百人目の僕。
もう、どうでもいい。
――誰も僕を愛さない。
魔法はなんの奇跡も産みはしない。
祈りはすでに、意味を為さない。
ただ、この魂が尽きる日を、待っていることしかできない。
すべてを忘れよう。憶えておく必要はない。
おやすみ、九十九人目の僕。
……――
ふと、目が覚めた。部屋の中はまだ真っ暗で、朝が遠いことがよくわかる。視線を巡らせると、ベッドの上で影がもぞもぞと動いている。
「……ルビー……」
弱々しく呼ぶ声に、影が振り向く。大きな瞳がシリルを捉えた。
「どんな夢を見たの?」
「……わからない」
自分の声があまりに力なく、まだ頭の半分が夢に取り残されている。影は優しい手付きでシリルの髪を撫で、穏やかな鼻歌がゆったりとした微睡を誘う。
「……ねえ、ルビー……」
「ん?」
「……僕は、生きていけるかな……」
あの声がいまも耳の奥に残っている。それが心の隅に疑問を生じさせ、その疑問が存在を揺るがせるようだった。
「……きっと、生きていけない。生きてはいけないんだ……僕には、その価値がない……」
「僕はそう思わない。シリルがいなければ僕はここにいない」
影が優しく頭を撫でると、暗い泉から掬われるような穏やかさが広がる。ただそれだけで充分のように感じられた。
「けれど、シリルが望むなら、僕はすべてを終わらせられる」
大きな瞳がシリルを覗き込む。
「何もかも、なかったことにできる。だから、僕には何も隠さないで」
「……うん……」
「僕が、僕だけがすべてを終わらせられる。僕は、シリルのためだけの存在なんだから」
ゆっくりと目を閉じる。そうしていれば、いつか朝が来る。いずれ夜は明ける。ただそれを待っているだけでいい。
「……母様に会いたい……」
無意識に漏れた呟きに、影は大きな目を細めて微笑む。
「おやすみ、シリル。良い夢を」
いまはただ、祈り続けるほかに方法はなかった。
* * *
「どう思う?」
書類から顔を上げて問いかける。そうね、と同僚が口を開いた。
「なんとも言えないわね。原因を特定しないことにはどうにも」
「原因を特定すると言っても」と、別の同僚。「どこもかしこも反応なし。進展もなし」
「まだ結果を求める段階じゃない。少しずつでも近付いていればそれでいい」
結果に満足できていないのは全員、同じこと。それでも、彼らには他の手段がない。遅々として進展しない書類は、放ってしまいたくなるほど虚しい。
「そうは言っても」同僚が言う。「これほどまでに反応がないと、疑いたくもなるわ」
「必ずあるはずなんだ。どこかに、何かしらの形で」
「別に諦めているわけではないのよ。あたしの探求心は留まるところを知らないわ」
きっとこの同僚たちがいなければ、この書類の一枚も生まれることはなかっただろう。諦めざるを得なかったかもしれない。そう考えると、ほんの少しは進展しているのかもしれない。
「もっと別の方法を考えたほうがいいのかもしれないよ」
「別の方法って?」
「すぐ思い付かないから悩んでいるんじゃないか」
同僚たちももどかしい思いをしている。これほど尽力しているというのに、何ひとつとして結果が出ていない。成果ゼロのままでは、いずれ取り上げられてしまう。
「とにかく、可能性をひとつずつ潰していこう。そうすれば、必ず見えて来るはずだ」
「気の遠くなる話ね」同僚は肩をすくめる。「ま、それを追究するのが研究者ってものだわ」
「これ以上」と、別の同僚。「あの人の逆鱗に触れないといいんだけど」
「そのときは別の研究で黙らせればいいのよ。いちいち細かくてうんざりするわ」
「きみが気にしなさすぎるんだ」
溜め息を落とす別の同僚が、気を取り直した様子で振り向く。
「彼のほうは任せても大丈夫?」
「問題ない。覚悟はすでに決まっているよ」
「お互い潰れないようにやっていきましょ」
あとどれくらいの時間が残されているかわからない。きっとそう多くはないだろう。間に合うかわからない。だが、間に合わせなければならない。すべてを終わらせなければならない。何もかも手遅れになる前に。




