第3章 自我【2】
ああ、相変わらず馬鹿な子だわ。剥ぎ取られた希望を取り返そうともせず、ただ言いなりになっているだけ。ああ、なんて可哀想な子なのかしら。
この腐り切った残像の世界で、あの子の存在だけが確かだと言うのに。
塗り潰されて、押し殺されて、暗いくらい何もない。ただ歪曲した真実があるだけ。
ああ、早く抱き締めてあげなくちゃ。あの子は、泣いているのかもしれないわ。
この私がすべて。この私だけがすべて。
* * *
「じゃ、また夜にね!」
明るく笑って、メリフは廊下のバルコニーから外へ飛び出して行く。それを見送ったシリルは、ロスを振り向いて問いかけた。
「なぜ二階のバルコニーから出て行くのですか?」
「この屋敷に出入りしていることを勘付かれにくくするためだな。万がいち勘付かれて探られても困る」
「なるほど……。でも、昨夜も調査に行ったのに、体力が無尽蔵なんですね」
「何でも屋は体力勝負だからな。俺よりあいつのほうが聞き込み調査に向いているし、俺より体力もあるだろうな」
「なぜですか?」
「聞き込み調査をするなら女のほうが都合がいい。男も女も警戒心が薄く済む」
「ふむ……確かに、ロスが情報を求めて来たら、ちょっと警戒してしまうかもしれませんね」
小さく笑うシリルに、ロスは肩をすくめて見せる。
「変身の魔法は使わないんですか?」
「積極的に使っているが、外見を女に変えても中身まで変わるわけではないだろ」
「ああ、なるほど……、……――」
不意に、シリルは目が回るように視界が揺れ頭がぐらついた。トラインが支えるように肩に手を添える。膝に手をついて平衡感覚を取り戻そうとしていると、ロスが背に庇うようにして辺りを見回した。何か攻撃を受けていると思っているようだ。
「シリル様、大丈夫ですか?」
「……はい……、……大丈夫です」
ようやく落ち着きを取り戻し、シリルは顔を上げる。案ずるように覗き込むトラインに、薄く微笑んで見せた。
「少し立ちくらみしてしまいました」
「リビングで少し休憩なさいますか?」
「大丈夫です。もう応対が来ていますよね」
「はい。執務室でお待ちです」
「じゃあ行きましょう。もう大丈夫です」
「かしこまりました」
これ以上に待たせるのは悪い、とシリルは自然と早歩きになっていた。それでもトラインとロスが普通に歩いているように感じるので、身体能力の差を見せつけられているようだった。
「シリル」
廊下の向こうからかけられた声に、ロスがサッと角に身を潜める。歩み寄って来るのはグレンジャー男爵だった。朗らかな笑みで、シリルの肩をぽんと叩く。
「たまには顔を見ておかないとな。元気にしているか?」
「はい、なんとか……」
「そうか。今日は応対の予定があるらしいな。ひとりで平気か? ルーカスをつけるか?」
「いえ、大丈夫です。トラインもいますし……」
頭の働きの鈍いシリルでも、ロスの存在は隠さなければならないような気がした。シリルが何でも屋を雇ったとなれば訝しむ。その存在を認識しているかどうかは判然としないが、いまはまだ黙っていたほうがいいとシリルは考えていた。
「そうか。たまには夕食にでも本館に来い。マギーも心配しているぞ」
「はい。そのうち……」
「ああ。不便なことがあればなんでも言うんだぞ」
「ありがとうございます」
グレンジャー男爵はもう一度ぽんと肩を叩き、明るく笑って去って行く。ロスには気付かなかったようだ。
「グレンジャー家の人間はあまりこちらには来ないようだな」
男爵の後ろ姿を見送り、ロスが静かな声で言う。
「そうですね……。居候の身として厚かましいですが、好きなようにさせてもらっています」
グレンジャー男爵が厳しい規則を設けるような人であれば、シリルは息苦しい思いをしたかもしれない。グレンジャー男爵はそれをよくわかっている。シリルを縛ることなく、シリルの思うように暮らせるよう配慮してくれているのだ。
「あまり本館には行きたくありません。僕が本館に顔を出すと迷惑をかけるから……」
「お前はそそっかしいからな。廊下に何も置いていないのはそのためなんだろう?」
「はい。置くだけ無駄ということもありますが……」
「誰も招かないのであればそうかもしれないな」
シリルは曖昧に頷く。いまのシリルには招くべき客はいない。いたとしても、本館はグレンジャー男爵家の邸宅だ。その別館に勝手に客を招くわけにはいかない。そう認識しているのに何も言わずに何でも屋を雇い入れたことに、多少なりとも矛盾を感じた。それも、シリルには正しいのかどうかはわからないのだが。
シリルが執務室に入って行くと、町の代表者である中年男性が立ち上がる。その手には何枚もの書類があり、話し合うことが多いようだ、とシリルは考えた。
「お待たせしました」
「どうも。お忙しいところを」
シリルが男の向かいに腰を下ろすと、ロスとトラインはその後ろに控えた。先ほどトラインから教えられた情報によると、南端の町サーティスの代表者のようだ。
シリルが思っていた通り、男は引き継ぎに関していくつか報告と要望を持ち出した。シリルが半年前に爵位を継いだばかりであることを考慮したようで、話し合いには充分な時間をかける。そうして男が持っていた書類の粗方が片付くと、男が思い出したように言った。
「護衛官の欠員が深刻でしてな」
「護衛官……」
書類に目を凝らすシリルがなかなか項目を見つけられずにいると、後ろから書類を覗き込んだロスがその箇所を指差す。数字をつくづくと見たあと、シリルは顔を上げた。
「以前の報告では充分だったようですが……」
「ええ……。昨年の疫病で亡くなった者や、後遺症で引退せざるを得なかった者が予想以上に多かったのです」
昨年、領地の南側で疫病が民を苦しめた。そのときは前伯爵がその手腕を発揮し、ウォード薬学研究所との連携でどうにか収めることができた。そのときにはそんな報告はなかったはずだ。
「なぜもっと早く申告しなかった」
厳しい口調でロスが言う。男は驚いた様子でロスを見遣るが、シリルは貴族として唯一できる微笑みを浮かべて見せた。
「彼は私の補佐です」
「あ、ああ、そうですか。昨年は疫病の対策で伯爵家の支援を賜り、そうしているうちに前伯爵の事故……。その後の処理と引き継ぎのため忙しくしており、申告するのが遅れてしまいました」
自分の処理能力の低さを痛感させられるような問題だ、とシリルは考える。父や兄であったなら、もっと早く解決できたことだろう。
「自警団を組織するための人員の確保は厳しいか?」
ロスが再び問いかけるのでシリルは顔を上げた。男は少し気圧されながらも口を開く。
「一度だけ募集をかけてみましたが、サーティスはそもそも農村。腕に自信のある者はほとんどおりません」
「では、外部から人員を募る必要がありますね……」
「ちょうどいいじゃねえか。ホーキンズ家を頼ればいいだろ」
意外とも思えるロスの言葉に、シリルは思わずきょとんと彼を見上げた。ロスは呆れた様子で続ける。
「コネクションを作る場を提供できるなら、自警団を組織するためのコネクションくらい自家で作れるだろ。伯爵家でそれをできるなら話が早いがな」
「なるほど……。そうですね。検討してみましょう。詳細が決まり次第、報せを出します」
「ええ、よろしくお願いします」
残りの細々とした報告のあと、サーティスの代表者は去って行った。シリルはソファにもたれて深く息をつく。話し合いは書類のように時間をかけられるものではなく、返答の速度を求められる。それがシリルにとっては疲労感の溜まる要素だった。
アイレーがハーブ水を持って来て、小休憩の時間を取る。応対のときはいつも肩に力が入ってしまい、それに合わせて首も凝ってしまう。体力の消耗が激しい仕事だ。
「ロスは機転が利きますね」シリルは言った。「ホーキンズ家のことは少し話しただけなのに」
「お前が利かなすぎるだけだ。ホーキンズ家とは親戚なんだろ」
「領地経営のことで頼るのは、考えていませんでした」
「叔父とは関わりが薄いのか?」
「様子を見に来てくれることは度々あります。僕がこんなふうだから、心配のようです」
「お前のことだから『心配いりません』とか言うんじゃないか?」
「そう言わざるを得ないですよ。叔父は心配性ですから」
困って言うシリルに、ロスは多少なりとも呆れたようだ。
「兄はどうした。ラト家の事業で手一杯か?」
「そちらも、父の急死による混乱がひと段落したばかりのようです」
「ひとりの急死で半年もかかるのか」
「えっと……父は魔法主義でした。科学を取り組む発想がなかったようです」
「なるほどな。魔法により構成された仕組みを解析するところからってことか」
「兄は、旧態依然とした仕組みを変えようとしていたようですが、父は頑固な人でしたから」
「では領地経営の引き継ぎに時間がかかっているのは、お前の力不足ということか」
「それは否めません。ロスとメリフの仕事の早さが羨ましいです」
自分がその域に達することは、おそらく一生をかけてもないだろう、とシリルは思う。経験値の差が大きいこともあるだろうが、ロスとメリフはそうでなくとも能力の高い人間だろう。自分より能力の低い者はいないようにシリルは思うが。
アイレーにグラスを返すと、シリルは書類整理に取り掛かった。今日はもう応対の件はないはずで、相変わらず机の上に散らかった書類を片付けなければならない。
ロスに見張られながら一枚を「確認済み」に送り込む。確認した書類はトラインが所定の処理をするはずだ。
二枚目に取り掛かる。先ほどの書類より字が小さく、目を凝らして必要な情報を書き込んだあと、判子を持つシリルの手をロスが止めた。
「待て。それはまだ保留のはずだ」
「え……」
「この書類のここだ。こちらの書類上では確定しているが、それをこちらで確定させるためには向こうの確認を待つ必要がある」
「ああ……そうでした。また初めから書き直すところでした」
「しっかり確認しろ」
「うーん……字が見えづらいんです」
それから、ロスの監視が厳しくなった。書類の内容に目を凝らすシリルの横で、シリルが見逃しそうになった箇所を指摘する。ラト伯爵領のことはシリルのほうが詳しいはずなのに、ロスは初めて見た書類でもその内容を素早く分析して把握するようだ。
書類を何枚か確認済みに送ったあと、アイレーがレモネードを持って来る。シリルは子どもの頃からアイレーの作るレモネードが好きだった。それをアイレーに言った記憶はないが、いまでもこうして作ってくれるということは、子どもの頃に伝えたことがあるのかもしれない。
「……、……?」
ふと、シリルはロスを見上げた。その視線に気付いたロスは、怪訝な様子でシリルを見遣る。
「なんだ」
「いま何か言いませんでしたか?」
「何も。グラスに口をつけているのを見ただろ」
「そうですか……。何か物音と聞き間違えたみたいです」
「俺には何も聞こえなかった。耳が良いんだか悪いんだかよくわからないやつだな」
「あは……そうですね」
耳鳴りを人の声を聞き間違えることはないだろう。聞き間違えたということは、何かしらの物音がしたというのは確かだ。シリルは自分よりロスのほうが耳が良いはずだと思ったが、おそらく何かの音がしたのだろう。そうでなければ、聞き間違えることはないはずだ。
――……
目玉に杭が打ち込まれた。痛みはない。まったく痛くない。ちっとも痛くない。血とも涙ともわからぬ澱んだ黒い液体が、だらだらとだらしなく垂れているだけだ。
――ああ、これはもう使い物にならないなあ。
もう何も見えない。何も映らない。この目玉の向こう側は、どうなってしまったのだろう。
――まあいいや。替えはいくらでもあるし。
すぐに取り替えなくては。監視を逃れる前に、さっさと新しい目を持って来なければ。焦燥感に駆られて手が滑ってしまいそうだ。
しかし、勿体無い。替わりはいくらでもあるが、この調子ではすぐに尽きてしまう。人はこういうのを、無駄な経費、と言うのだろう。
憂鬱な溜め息は星屑とともに足元に堕ち、眩い赤色に染まる空は堕落する。
もう少し。あと少し。
喉から手が生えるほど待ち望んだ結末を、いまかいまかと待っている。
――……
ひたいをこつんと小突かれるので、シリルは目を覚ます。顔を上げると、ロスが呆れた様子で見下ろしていた。
「夕食だ」
「ああ……はい」
慌てて左手の万年筆にキャップを嵌めようとして、寝起きの目が霞んで手こずってしまう。ロスが小さく息をつき、代わりに万年筆を片付けた。
「居眠りとは感心しないな」
「僕の居眠りは諦めてください」
「そのほうがよさそうだな」
ひとつ伸びをして立ち上がったシリルは、ロスのもとへ行こうとして机に足をぶつけた。いてて、と顔をしかめるシリルに、ロスはまた呆れたように溜め息を落とす。
「そそっかしいやつだ。猫背で歩くからぶつかる。背筋を伸ばせ」
「叔父にもよく言われます。父にもよく背中を叩かれていました」
「俺が叩いたら背骨が折れそうだな」
「こ、怖い……」
きっとその通りなのだろうと思うと、歩く凶器という気がしてまた背筋がゾッとする。敵対していたらと考えて、依頼する側でよかったのかもしれない、とそんなことを心の中で呟いた。




