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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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6/28

少年 来店時刻:14時

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、控えめに、ちりんと鳴りました。


「こんにちは……」


 小さな声とともに現れたのは、ランドセルを背負った少年でした。


 背丈はカウンターの高さに届くか届かないかというところで、入り口に立ったまま、きょろきょろと店内を見回しています。


「いらっしゃいませ。おひとりですか?」


「……うん」


「お好きな席へ。どの席も、空いておりますよ」


「うん……」


 少年はおそるおそるカウンター席によじのぼり、ちょこんと腰を下ろしました。


 ランドセルをおろして、両手を膝の上に乗せたまま、じっと前を見つめています。


「何になさいますか?」


「……オレンジジュース、ください」


「かしこまりました」


 マスターが冷蔵庫からジュースを取り出し、グラスに注ぎながら、ちらりと少年の様子をうかがいます。


 その目には、不安のような、さみしさのような、でも言葉にできない何かが宿っているように感じられました。


「学校の帰りですか?」


「……うん。でも今日は、ちょっと寄り道」


「そうなのですね。オレンジジュース、お待たせいたしました」


「ありがとう……」


 少年はグラスを両手で包むように持ち、ひとくちだけ口に含みました。


「……おいしい」


「それはよかったです」


 しばらく沈黙が続いたのち、少年はぽつりと口を開きました。


「お父さんとお母さんが、最近よくケンカするんだ。僕がいるときも、関係なく大声で」


 マスターは驚いたようすも見せず、ただ静かにうなずきながら耳を傾けます。


「どっちも『自分は悪くない』って言って、相手のせいにするんだ。僕、どっちの味方もしたいんだけど、今はお父さんとお母さん、どっちの味方もしたくないんだ……」


「そうですか。それは、苦しいですね」


「家にいると息が詰まりそうになる。だから、少しだけ外にいたくて」


 マスターはそっと、グラスの水滴を拭いながら言葉を添えます。


「誰かの争いに挟まれてしまうのは、とてもつらいことです。けれど、あなたが悪いわけではないのですよ」


 少年は黙ってうなずき、もう一口ジュースを飲みました。


「……マスターは、ケンカしたことある?」


「ええ。ありますよ。大人になっても、うまくいかないことはございます」


「ふーん……大人って、難しいね」


「はい。でも、難しいからこそ、わかりあえたときの喜びも大きいのです」


 少年は空になったグラスを見つめ、しばらく考えているようでした。


「僕も……ちゃんと話してみようかな。お父さんとお母さんに」


「それは素晴らしいことです。きっと、あなたの言葉は届きますよ」


 少年はにこりともせず、それでもどこか、決意のような光を目に宿して席を立ちました。


「ありがとう。……また来てもいい?」


「もちろんでございます。いつでも、お待ちしております」


 少年はランドセルを背負い、店をあとにします。木製のドアが静かに閉まったあと、マスターはその余韻に包まれたまま、空のグラスをそっと手に取りました。


「小さな声でも、真っ直ぐな言葉には、大きな力が宿るものです」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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