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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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女性書店員 来店時刻:16時

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、ちりん、とかすかに鳴りました。


「こんばんは……」


 そっと店内を覗くようにして入ってきたのは、眼鏡をかけた女性でした。


 肩にかかった髪は少し癖があり、手には分厚い文庫本が一冊抱えられております。


「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」


「ありがとうございます。……カウンター、いいですか?」


「はい、もちろんでございます」


 彼女は遠慮がちにカウンターへ腰掛け、そっと本を開きました。


「アイスコーヒーを、お願いします」


「かしこまりました」


 マスターが豆を挽く間、ページをめくる音だけが、静かに店内に響きます。


「……素敵なお店ですね。静かで」


「ありがとうございます。お仕事帰りでいらっしゃいますか?」


「はい。書店で働いているんです。閉店作業が終わって、ちょっとだけ息抜きに」


 ほどなくして、アイスコーヒーがカウンターに置かれました。彼女は丁寧にストローを差し、ひとくち飲んでから、ふっと目を細めます。


「……おいしい。苦みがちゃんとあるのに、嫌じゃない」


「それは何よりです」


 しばらくの沈黙の後、彼女はふと思い出したように、本を閉じて口を開きました。


「さっき、お店でちょっと不思議なことがあって」


「不思議なこと……と、申しますと?」


「レジのところに、本が一冊置かれていたんです。誰のものかわからなくて。でも……」


 彼女は鞄から、その文庫本を取り出してテーブルに置きました。少し古びた表紙には、見覚えのないタイトルが記されています。


「ぱらぱらとめくっていたら、最後のページに書き込みがあって」


 マスターは少し身を乗り出し、そのページをそっと覗きこみます。そこには、手書きの文字がひとことだけ記されていました。


『この本を拾った方へ。大切な人に渡してください』


「まるで手紙みたいでしょう。内容的には、家族に宛てたような……でも、署名もなくて」


「お店の誰かが置いていった可能性は?」


「それが、お客様の忘れ物にも、仕入れにも該当しなくて。誰もこの本を見たことがないって言うんです」


 アイスコーヒーの氷が、かすかに店に響きます。


「まるで、誰かの記憶だけが本になったような……そんな気がして」


 マスターはしばらく考え込み、それからゆっくりと言葉を紡ぎました。


「あるいは、その本が“誰かの記憶に残ること”を願って、そこに現れたのかもしれませんね」


「記憶に……残るために?」


「ええ。読まれることを望む本は、誰かの心にそっと寄り添いたいのかもしれません」


 彼女は再び本を開き、今度は真剣なまなざしでその文字を追い始めました。


「……なんだか、ちゃんと読んでみたくなりました。この本」


「そう思われたのでしたら、きっとその本も喜んでいると思いますよ」


 彼女はアイスコーヒーを飲み干し、文庫本を胸元に抱えて立ち上がりました。


「今日は、ありがとうございました。来てよかったです」


「こちらこそ、素敵なお話をありがとうございました」


 店を出る彼女の背中に、どこか迷いが晴れたような軽さがありました。


 マスターは残されたグラスを手に取り、氷が溶ける音を聞きながら、静かに呟きます。


「記憶に残る出会いは、きっと偶然ではなく……物語そのものなのかもしれません」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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