老紳士 来店時刻:15時50分
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、ゆっくりと控えめに鳴りました。
「こんばんは」
落ち着いた低い声と共に、ドアの向こうから一人の老紳士が姿を現しました。上品な仕立てのコートに身を包み、手には年代物のステッキを携えています。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席へ」
「では……いつもの席を、お願いできますか」
「はい、もちろんでございます」
老紳士は、店の奥……窓際の席にゆっくりと腰掛けました。まるで長年の習慣のように、ステッキを足元に置き、両手を膝に重ねます。
「ダージリンを、ポットでお願いします」
「かしこまりました」
マスターは静かに湯を沸かし、丁寧に紅茶を淹れていきます。店内にほんのりと上品な香りが広がっていきました。
「……ふむ。やはりよい香りですな」
「気に入っていただけて、光栄です」
ポットからカップに注がれた紅茶を、老紳士はゆっくりと口に運びました。そして、ひとつ息をついて、ぽつりと呟きます。
「妻と、よく来ていたのですよ。ここの紅茶が好きでね……」
マスターは少し悲し気な笑顔をして、うなづきました。
「この椅子も、この窓の景色も……彼女が生きていた頃と、なにひとつ変わっていない」
「それは……変えたくなかった、ということでしょうか」
「ええ。変わることが怖くてね。私ひとりでは、世界が少しずつ歪んでいくような気がする」
マスターは、ティーポットの位置を少しだけ老紳士の手元に寄せながら、そっと言葉を添えます。
「けれど、覚えておいでなのですね。すべてを、こうして丁寧に」
老紳士は目を閉じ、しばらくの間、静かにカップを見つめておりました。
「……四十九日が過ぎたあたりからでしょうか。日常が戻ってくるのが、こんなにも寂しいものだとは」
「それでも、お越しくださっている。きっと奥様も、お喜びになっておられます」
「そうであれば……そうであれば、いいのですがね」
老紳士はそっと目尻を指で拭い、二口、三口と紅茶を飲み進めました。
「彼女のいないこの椅子も、今では少しずつ、馴染んできた気がします」
「それは……その場に、新たな思い出が重ねられたからかもしれませんね」
「思い出……ふむ。なるほど。確かに、その通りかもしれません」
老紳士は最後の一口を飲み干し、カップを静かにソーサーへ戻しました。
「今日も、ありがとう。変わらぬ紅茶と、静かな時間を」
「こちらこそ、ありがとうございます。またいつでもお越しくださいませ」
老紳士は帽子を軽く掲げて立ち上がり、ステッキの音をコツリ、コツリと鳴らしながらドアの方へと向かいます。
ドアが開き、閉まるその間、店内に流れ込んだ外気は、どこか冬の終わりを感じさせるものでした。
マスターはポットを手に取り、まだ温かい余熱を感じながら、小さく微笑みました。
「きっと、あの椅子は、今日も奥様とご一緒だったのだと思います」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




