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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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3/28

老紳士 来店時刻:15時50分

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、ゆっくりと控えめに鳴りました。


「こんばんは」


 落ち着いた低い声と共に、ドアの向こうから一人の老紳士が姿を現しました。上品な仕立てのコートに身を包み、手には年代物のステッキを携えています。


「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席へ」


「では……いつもの席を、お願いできますか」


「はい、もちろんでございます」


 老紳士は、店の奥……窓際の席にゆっくりと腰掛けました。まるで長年の習慣のように、ステッキを足元に置き、両手を膝に重ねます。


「ダージリンを、ポットでお願いします」


「かしこまりました」


 マスターは静かに湯を沸かし、丁寧に紅茶を淹れていきます。店内にほんのりと上品な香りが広がっていきました。


「……ふむ。やはりよい香りですな」


「気に入っていただけて、光栄です」


 ポットからカップに注がれた紅茶を、老紳士はゆっくりと口に運びました。そして、ひとつ息をついて、ぽつりと呟きます。


「妻と、よく来ていたのですよ。ここの紅茶が好きでね……」


 マスターは少し悲し気な笑顔をして、うなづきました。


「この椅子も、この窓の景色も……彼女が生きていた頃と、なにひとつ変わっていない」


「それは……変えたくなかった、ということでしょうか」


「ええ。変わることが怖くてね。私ひとりでは、世界が少しずつ歪んでいくような気がする」


 マスターは、ティーポットの位置を少しだけ老紳士の手元に寄せながら、そっと言葉を添えます。


「けれど、覚えておいでなのですね。すべてを、こうして丁寧に」


 老紳士は目を閉じ、しばらくの間、静かにカップを見つめておりました。


「……四十九日が過ぎたあたりからでしょうか。日常が戻ってくるのが、こんなにも寂しいものだとは」


「それでも、お越しくださっている。きっと奥様も、お喜びになっておられます」


「そうであれば……そうであれば、いいのですがね」


 老紳士はそっと目尻を指で拭い、二口、三口と紅茶を飲み進めました。


「彼女のいないこの椅子も、今では少しずつ、馴染んできた気がします」


「それは……その場に、新たな思い出が重ねられたからかもしれませんね」


「思い出……ふむ。なるほど。確かに、その通りかもしれません」


 老紳士は最後の一口を飲み干し、カップを静かにソーサーへ戻しました。


「今日も、ありがとう。変わらぬ紅茶と、静かな時間を」


「こちらこそ、ありがとうございます。またいつでもお越しくださいませ」


 老紳士は帽子を軽く掲げて立ち上がり、ステッキの音をコツリ、コツリと鳴らしながらドアの方へと向かいます。


 ドアが開き、閉まるその間、店内に流れ込んだ外気は、どこか冬の終わりを感じさせるものでした。


 マスターはポットを手に取り、まだ温かい余熱を感じながら、小さく微笑みました。


「きっと、あの椅子は、今日も奥様とご一緒だったのだと思います」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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