名もなき新客 来店時刻:23時30分
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、ためらいがちな音を立てました。
「すみません、ひとりです」
入ってきたのは、二十代半ばほどの青年でした。
ジャケットの袖口が少し擦れており、手には古びた文庫本を持っています。
視線は落ち着きなく、どこか所在なげな雰囲気を漂わせていました。
「いらっしゃいませ。カウンターでよろしいですか?」
「はい……じゃあ、ブレンドコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
青年はカウンター席に腰を下ろすと、手に持っていた本をそっと開きました。
中は書き込みや折り目が多く、読み込まれていることが伝わってきます。
「その本、お好きなんですね」
「……ええ。図書館でたまたま手に取ったんですけど、なんだか惹かれて。内容はちょっと難しいんですけど、読むたびに何かが胸に残るんです」
マスターは微笑みながら、コーヒーの香りを漂わせる準備を続けました。
「出会うべきときに、出会う本というものがございます」
「……そうかもしれません。正直、最近は何をしてもぱっとしなくて。仕事もそこそこ、趣味も続かなくて。でも、この本だけはなぜか手放せないんです」
やがて運ばれてきたブレンドコーヒーの湯気が、彼の頬をほんの少しだけ和らげました。
「ありがとうございます」
「どうぞ、ごゆっくり」
一口飲んだ青年は、ほっと息をつきました。
「……ああ、美味しいです。味って、気持ちを落ち着かせるんですね」
「はい。言葉にならないものを、味が伝えてくれることもございます」
青年は本を閉じて、少し考えるように視線を落としました。
「この本の中に、「歩き続けることが目的になる日もある」って言葉があって……なんだか救われました。今の自分に、必要な言葉だった気がします」
「本も飲み物も、出会いです。そして、今のご自身が必要としていたものが、きっとそこにあったのだと思います」
「……そうか。なんだか、明日はもう少しだけ、歩いてみようって気がしてきました」
「それは素晴らしいことです。ほんの少しの変化が、やがて大きな道しるべになることもございます」
青年は静かに席を立ち、深く一礼をしました。
「また来てもいいですか?」
「もちろんでございます。いつでも、お待ちしております」
店を出た青年の背中には、ほんの少しですが、迷いの霧が晴れたような軽さがありました。
マスターは湯気の立つカップを見つめながら、そっと呟きました。
「人生に迷う時間こそ、自分と出会い直す大切なときなのです」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
そして明日もきっと、この店には新しい誰かが、一杯のきっかけを求めて訪れるのでしょう。




