老紳士 来店時刻:19時
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、静かに鳴りました。
「こんばんは」
入ってきたのは、白髪に丁寧な身なりの老紳士でした。
手には小さな花束が握られ、姿勢はまっすぐで、どこか気品を感じさせる立ち姿。
以前このお店に来ていた、あの老紳士でした。
「いらっしゃいませ。この時間に来られるのは珍しいですね」
「ええ、今日は……妻の命日でしてね。花を選んでいたら迷ってしまって」
「そうでしたか。では、奥のお席をお使いくださいませ」
「いつもありがとう。……彼女も、ここが好きでした」
老紳士はゆっくりと席に着き、そっと花束をテーブルに置きました。
「ウイスキー、ロックでいただけますか」
「かしこまりました」
マスターがウイスキーをグラスに注ぎ、カランと氷が鳴る音が静かに響きます。
老紳士はそれを受け取り、一口、ゆっくりと味わいました。
「……変わらぬ味ですな。妻は、こうして私が静かに飲んでいるのを見るのが、好きだったのですよ」
「そうでしたか」
「若い頃はね、私の飲み方が“渋い”などと言って、くすくす笑っていたものです」
老紳士はふっと目を細め、過去を懐かしむようにグラスを見つめました。
「最後にここに来たのは、あの人がまだ元気だった頃で……ええ、たしか、カモミールティーを頼んでいた。あの人はいつも、香りのする飲み物を好んでいました」
マスターは穏やかにうなずきながら、そっともう一つのカップをテーブルに置きました。
「もしよろしければ、奥様に。カモミールティーでございます」
老紳士は驚いたように目を見開き、やがてゆっくりと微笑みました。
「……ありがたい。ここに連れてきて、よかったです」
老紳士はしばし無言のまま、ふたつのカップを交互に見つめていました。そしてぽつりと、呟くように言いました。
「会えなくても、思い出がある。……それだけで、今夜は充分ですな」
「思い出というのは、時が経つほど、静かに深まるものです」
老紳士はゆっくりと席を立ち、花束を抱えてマスターに深く頭を下げました。
「今夜は、いい夜になりました。ありがとう、マスター」
「また、いつでもお待ちしております」
ドアが閉まるまで、老紳士の背筋は少しもしおれることなく、まっすぐでした。
マスターはふたつ並んだカップをそっと見やりながら、静かに呟きました。
「語られる記憶の中にこそ、変わらぬ愛が宿るのです」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




