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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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25/28

老紳士 来店時刻:19時

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、静かに鳴りました。


「こんばんは」


 入ってきたのは、白髪に丁寧な身なりの老紳士でした。


 手には小さな花束が握られ、姿勢はまっすぐで、どこか気品を感じさせる立ち姿。


 以前このお店に来ていた、あの老紳士でした。


「いらっしゃいませ。この時間に来られるのは珍しいですね」


「ええ、今日は……妻の命日でしてね。花を選んでいたら迷ってしまって」


「そうでしたか。では、奥のお席をお使いくださいませ」


「いつもありがとう。……彼女も、ここが好きでした」


 老紳士はゆっくりと席に着き、そっと花束をテーブルに置きました。


「ウイスキー、ロックでいただけますか」


「かしこまりました」


 マスターがウイスキーをグラスに注ぎ、カランと氷が鳴る音が静かに響きます。


 老紳士はそれを受け取り、一口、ゆっくりと味わいました。


「……変わらぬ味ですな。妻は、こうして私が静かに飲んでいるのを見るのが、好きだったのですよ」


「そうでしたか」


「若い頃はね、私の飲み方が“渋い”などと言って、くすくす笑っていたものです」


 老紳士はふっと目を細め、過去を懐かしむようにグラスを見つめました。


「最後にここに来たのは、あの人がまだ元気だった頃で……ええ、たしか、カモミールティーを頼んでいた。あの人はいつも、香りのする飲み物を好んでいました」


 マスターは穏やかにうなずきながら、そっともう一つのカップをテーブルに置きました。


「もしよろしければ、奥様に。カモミールティーでございます」


 老紳士は驚いたように目を見開き、やがてゆっくりと微笑みました。


「……ありがたい。ここに連れてきて、よかったです」


 老紳士はしばし無言のまま、ふたつのカップを交互に見つめていました。そしてぽつりと、呟くように言いました。


「会えなくても、思い出がある。……それだけで、今夜は充分ですな」


「思い出というのは、時が経つほど、静かに深まるものです」


 老紳士はゆっくりと席を立ち、花束を抱えてマスターに深く頭を下げました。


「今夜は、いい夜になりました。ありがとう、マスター」


「また、いつでもお待ちしております」


 ドアが閉まるまで、老紳士の背筋は少しもしおれることなく、まっすぐでした。


 マスターはふたつ並んだカップをそっと見やりながら、静かに呟きました。


「語られる記憶の中にこそ、変わらぬ愛が宿るのです」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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