画家 来店時刻:22時30分
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、やわらかく鳴りました。
本日は珍しくお客様が多い日のようです。
「こんばんは……ここ、空いてますか?」
入ってきたのは、ベレー帽をかぶった四十代ほどの男性でした。
肩から画材のようなケースを提げており、眼差しにはどこか疲れと迷いが混ざって見えました。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席へ」
「ありがとうございます。……ウォッカを、ストレートで」
「かしこまりました」
彼はカウンター席に腰を下ろし、画材ケースをそっと足元に置きました。
マスターがグラスに透明な液体を注ぐ間、彼はしばらく黙って天井を見上げていました。
「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」
「ええ……まあ。正確には、描けなかった帰り、ですね」
「描けなかった……ですか」
「ずっと描いてきたんです。二十年以上。でも、最近は筆が進まない。頭の中にはあるんですけど、手が動かない。線が、色が、嘘みたいに見える」
ウォッカを一口飲んだ彼は、苦笑を浮かべました。
「こんなこと、誰にも言えなくて。……画家なのに、描けないなんて」
マスターは静かにうなずきながら言葉を紡ぎます。
「描けない時間も、きっと創作の一部なのかもしれません」
「それが「必要な時間」だって思えたら、どんなに楽でしょうね」
「絵を描くというのは、ご自身の中にある“何か”と向き合う行為なのだと思います。だからこそ、苦しいときもあるのでしょう」
彼はしばらくグラスを見つめてから、ポケットから小さなスケッチブックを取り出しました。
「この店、前にも一度だけ来たことがあるんです。そのとき、描いたラフスケッチ……ずっと開けずにいたけど、ちょっとだけ見てみようかな」
ページをめくると、そこには柔らかい光の中で描かれた店内の風景がありました。カウンターとマスター、そして湯気の立つカップ。
「……意外と、悪くないですね」
「その絵は、今のご自身に語りかけているのかもしれません」
彼はふっと息を吐いて笑いました。
「描けないことを、誰かに話せただけで、少し楽になった気がします。マスター、ありがとう」
「どうぞ、また描きたくなったときは、いつでも」
「ええ、きっとまた来ます」
立ち上がった彼の背中には、ほんのわずかですが力が戻っているように見えました。
マスターは空になったグラスを手に取り、やさしく呟きました。
「表現の手が止まっても、心の中では、きっと描き続けているのです」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




