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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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23/28

画家 来店時刻:22時30分

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、やわらかく鳴りました。


 本日は珍しくお客様が多い日のようです。


「こんばんは……ここ、空いてますか?」


 入ってきたのは、ベレー帽をかぶった四十代ほどの男性でした。


 肩から画材のようなケースを提げており、眼差しにはどこか疲れと迷いが混ざって見えました。


「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席へ」


「ありがとうございます。……ウォッカを、ストレートで」


「かしこまりました」


 彼はカウンター席に腰を下ろし、画材ケースをそっと足元に置きました。


 マスターがグラスに透明な液体を注ぐ間、彼はしばらく黙って天井を見上げていました。


「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」


「ええ……まあ。正確には、描けなかった帰り、ですね」


「描けなかった……ですか」


「ずっと描いてきたんです。二十年以上。でも、最近は筆が進まない。頭の中にはあるんですけど、手が動かない。線が、色が、嘘みたいに見える」


 ウォッカを一口飲んだ彼は、苦笑を浮かべました。


「こんなこと、誰にも言えなくて。……画家なのに、描けないなんて」


 マスターは静かにうなずきながら言葉を紡ぎます。


「描けない時間も、きっと創作の一部なのかもしれません」


「それが「必要な時間」だって思えたら、どんなに楽でしょうね」


「絵を描くというのは、ご自身の中にある“何か”と向き合う行為なのだと思います。だからこそ、苦しいときもあるのでしょう」


 彼はしばらくグラスを見つめてから、ポケットから小さなスケッチブックを取り出しました。


「この店、前にも一度だけ来たことがあるんです。そのとき、描いたラフスケッチ……ずっと開けずにいたけど、ちょっとだけ見てみようかな」


 ページをめくると、そこには柔らかい光の中で描かれた店内の風景がありました。カウンターとマスター、そして湯気の立つカップ。


「……意外と、悪くないですね」


「その絵は、今のご自身に語りかけているのかもしれません」


 彼はふっと息を吐いて笑いました。


「描けないことを、誰かに話せただけで、少し楽になった気がします。マスター、ありがとう」


「どうぞ、また描きたくなったときは、いつでも」


「ええ、きっとまた来ます」


 立ち上がった彼の背中には、ほんのわずかですが力が戻っているように見えました。


 マスターは空になったグラスを手に取り、やさしく呟きました。


「表現の手が止まっても、心の中では、きっと描き続けているのです」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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