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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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22/28

失業中の男性 来店時刻:21時

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、そっと控えめに鳴りました。


「……こんばんは」


 入ってきたのは、スーツ姿のままネクタイを外した三十代の男性でした。


 手ぶらで、やや猫背気味。足取りは重く、目元には疲労の色が浮かんでいます。


「いらっしゃいませ。お席、どうぞ」


「……日本酒、冷でください」


「かしこまりました」


 彼はカウンター席に腰を下ろし、深いため息をつきました。


 マスターがグラスを準備する間、彼はぼんやりとカウンターの木目を眺めています。


「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」


「……いえ。もう、仕事してないんです」


「そうでしたか……」


「失業、ってやつです。ちょっと前に会社が急に潰れて、いまだに次が決まらないままです」


 グラスに注がれた冷酒が差し出されると、彼は軽く会釈してから一口、ゆっくりと飲みました。


「……うまい。沁みますね」


「それは何よりです」


「なんか最近、「自分って何者なんだろう」って思うことが多くて。働いてないと、社会から外れてるような感覚になるんです」


 マスターは静かにうなずきながら言葉を添えます。


「“何者か”でなくても、そこに在るだけで意味のある存在だと、私は思います」


「……優しいですね。けど、そんなふうに思えるようになったの、いつからですか?」


「そうですね……この店を始めてからでしょうか。さまざまな人と出会う中で、言葉以上の価値を感じるようになりました」


 彼は少しだけ口元をゆるめ、グラスを見つめながらぽつりと呟きました。


「今の自分には、なにも胸を張れるものがない気がして。でも……こうして誰かと静かに話せるだけで、少し楽になります」


「それだけで十分だと思います。焦らず、ゆっくりと」


 彼は最後の一口を飲み干し、深く息を吐きました。


「マスター、ありがとう。また来ていいですか?」


「もちろんでございます。いつでも、お待ちしております」


 立ち上がった彼の背中は、入店時よりわずかに伸びて見えました。


 ドアが閉まったあと、マスターはグラスを片手にそっと呟きます。


「立ち止まる時間は、次に進むために必要な“余白”なのかもしれません」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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