失業中の男性 来店時刻:21時
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、そっと控えめに鳴りました。
「……こんばんは」
入ってきたのは、スーツ姿のままネクタイを外した三十代の男性でした。
手ぶらで、やや猫背気味。足取りは重く、目元には疲労の色が浮かんでいます。
「いらっしゃいませ。お席、どうぞ」
「……日本酒、冷でください」
「かしこまりました」
彼はカウンター席に腰を下ろし、深いため息をつきました。
マスターがグラスを準備する間、彼はぼんやりとカウンターの木目を眺めています。
「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」
「……いえ。もう、仕事してないんです」
「そうでしたか……」
「失業、ってやつです。ちょっと前に会社が急に潰れて、いまだに次が決まらないままです」
グラスに注がれた冷酒が差し出されると、彼は軽く会釈してから一口、ゆっくりと飲みました。
「……うまい。沁みますね」
「それは何よりです」
「なんか最近、「自分って何者なんだろう」って思うことが多くて。働いてないと、社会から外れてるような感覚になるんです」
マスターは静かにうなずきながら言葉を添えます。
「“何者か”でなくても、そこに在るだけで意味のある存在だと、私は思います」
「……優しいですね。けど、そんなふうに思えるようになったの、いつからですか?」
「そうですね……この店を始めてからでしょうか。さまざまな人と出会う中で、言葉以上の価値を感じるようになりました」
彼は少しだけ口元をゆるめ、グラスを見つめながらぽつりと呟きました。
「今の自分には、なにも胸を張れるものがない気がして。でも……こうして誰かと静かに話せるだけで、少し楽になります」
「それだけで十分だと思います。焦らず、ゆっくりと」
彼は最後の一口を飲み干し、深く息を吐きました。
「マスター、ありがとう。また来ていいですか?」
「もちろんでございます。いつでも、お待ちしております」
立ち上がった彼の背中は、入店時よりわずかに伸びて見えました。
ドアが閉まったあと、マスターはグラスを片手にそっと呟きます。
「立ち止まる時間は、次に進むために必要な“余白”なのかもしれません」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




