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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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19/28

保育士 来店時刻:17時30分

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、かすかに鳴りました。


「こんばんは……あ、空いてますね」


 入ってきたのは、落ち着いた服装の若い女性でした。髪は軽くまとめられ、制服の上からカーディガンを羽織っています。肩には少し疲れの色がにじんでいました。


「いらっしゃいませ。おひとりですか?」


「はい。アールグレイをお願いします」


「かしこまりました」


 彼女はカウンターに腰を下ろし、深く息をつきました。マスターが茶葉を準備している間、彼女は手帳を取り出し、今日のページをぼんやりと見つめています。


「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」


「ええ、はい……保育士をしていて」


「それは、大切なお仕事ですね」


「そう言ってもらえると、少し報われる気がします」


 アールグレイの香りが立ちのぼるなか、マスターはカップをそっと差し出しました。


「どうぞ。あたたかいうちに」


「ありがとうございます……」


 彼女は両手でカップを包み、一口飲んでから、ようやく表情を緩めました。


「今日、ある子どもに“先生なんか大嫌い”って言われてしまって……理由もわからなくて。いつもは仲良くしてくれる子なんですけど」


 マスターは静かにうなずき、そっと問いかけます。


「そのお子さま、いつもと違う様子でしたか?」


「うーん、少し不機嫌そうではありましたけど……疲れていたのかもしれません」


「子どもたちは、まだ言葉で感情を整理するのが難しいことがございます。好きな人ほど、強い言葉で試すこともあるのかもしれません」


 彼女はしばらく黙ってアールグレイを見つめていましたが、やがてぽつりとつぶやきました。


「そうですね……私も、あの子が好きだからこそ、言われた言葉が辛かったのかも」


「優しさが深いほど、揺れることも多くなります。でも、それが寄り添う力にもなります」


 彼女は微笑みながら、カップをもう一口傾けました。


「明日、また普通に笑って話しかけてみようと思います。きっと、大丈夫ですよね」


「ええ、きっと。子どもは、大人の変わらない優しさを、ちゃんと感じ取っています」


「……なんだか、少し元気になりました。ありがとうございます」


「こちらこそ、そう言っていただけるのが何よりです」


 彼女は立ち上がり、深く頭を下げて店をあとにしました。ドアの閉まる音は、心なしか軽やかに響きました。


 マスターはそのあとを見送りながら、アールグレイの香りに包まれて、そっと呟きました。


「伝わるには時間がかかっても、優しさはきっと届くものです」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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