老婦人 来店時刻:18時30分
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、ころん、と優しく鳴りました。
「こんばんは。あら、変わっていないのね」
入ってきたのは、小柄で上品な身なりの老婦人でした。淡い色のストールを肩にかけ、手にはレースのハンカチを添えた小さなバッグを持っています。
「いらっしゃいませ。お久しぶりでございますね」
「ええ、覚えていてくださって嬉しいわ」
「もちろんです。お席はこちらへどうぞ」
老婦人はゆっくりとカウンター席に腰を下ろし、微笑みながら言いました。
「今日は、抹茶をいただけるかしら?」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
喫茶店に抹茶ラテはありますが、抹茶を注文される方はそういません。
ですがご安心ください。このお店では本格的に抹茶を点てるための道具もあります。
マスターが静かに茶筅を準備している間、老婦人はふと店内を見渡しました。
「このお店、本当に落ち着くのよね。家具の配置も照明も、前に来たときと何も変わっていない」
「はい。いつでも『戻れる場所』であるようにと、意識しております」
抹茶の碗がそっと差し出され、老婦人は両手で包むようにして受け取りました。
「……ああ、やっぱりおいしい。香りがふんわりと広がって、心がほどけていくみたい」
「それは何よりでございます」
彼女はひと口飲んだあと、そっと目を細めました。
「実はね、この町を離れるの。娘夫婦のいるところへ引っ越すのよ。そろそろ一人暮らしも限界かしらって」
「そうでしたか……それは、寂しくなりますね」
「ええ。でも、このお店に来ると、いつも「さようなら」より「またね」って言いたくなるの。不思議なことに」
マスターは少し笑って、深くうなずきました。
「「またね」は、別れの中に希望がある言葉ですから」
「本当に、そうね。いつか、また来られる日を楽しみにしているわ」
老婦人は残りの抹茶を丁寧に飲み干し、そっと立ち上がりました。
「今日まで、ありがとうございました。ここで過ごした時間は、私の宝物です」
「そのお言葉が、何よりの贈り物でございます。またいつでも、お帰りをお待ちしております」
老婦人はやわらかな足取りでドアへ向かい、最後にもう一度、店内を振り返ってにっこりと笑いました。
マスターは彼女の空いた席を見つめながら、静かに呟きます。
「思い出の椅子は、誰かの心にいつまでも残り続けるものなのです」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




