謎の男性 来店時刻:23時
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、静かに揺れて鳴りました。
「……一人、入っても?」
低く落ち着いた声。姿を現したのは、黒のコートに帽子を目深にかぶった中年の男性でした。背は高く、顔立ちは整っていながらも、どこか目を引く無表情さをまとっています。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席へ」
「カウンターで」
彼はまっすぐにカウンター席に歩き、椅子に腰掛けると、短く言いました。
「ブラックコーヒーを」
「かしこまりました」
豆を挽くマスターの動きを、じっと観察するように見つめながら、男は口を開きます。
「……この店、変わってるな」
「変わってる……ですか?」
「雰囲気が、こう……時間が止まってるみたいだ」
「それは光栄でございます。外の喧騒から離れて、心が緩む場所であれたらと思っております」
男はふっと鼻で笑い、小さく頷きました。
「……探してる人がいるんだ」
マスターは静か、彼の話を耳に入れながらコーヒーを淹れ始めます。
「何かの事件、とかでしょうか」
そんな話を他人にしてもいいものなのでしょうか。そう考えたマスターの予想は嬉しくも外れます。
「いや。失踪でも誘拐でもない。ただ……見失った。自分の中の記憶からも、なぜか消えていく気がしてる」
コーヒーが注がれ、湯気がゆらりと立ち上る中、男はそれを見つめながら続けました。
「名前も顔もわかるのに、会話の内容や、出会った理由がぼやけていく。まるで、夢だったみたいに」
「記憶というのは、とても繊細で曖昧なものです。けれど、思い出そうとする気持ちは、必ずどこかに届きます」
男はコーヒーをひと口飲み、その味をかみしめるように目を閉じました。
「……妙な話だと思うかい?」
「いえ。人を探す理由は千差万別。見えないものを追うほうが、案外本質を突いているのかもしれません」
男はコートの内ポケットから、古びた写真を一枚取り出しました。そこに写っているのは、笑顔の女性と小さな子ども。
「もしかすると、これは俺自身の記憶じゃないのかもしれない、と思うこともある」
「でも、それを手放さずにいるのですね」
「……そうだな。忘れたくないから、かもしれない」
男はゆっくり立ち上がり、代金とともに写真を机の上に置きました。
「……もし、誰かがこの写真のことを話していったら、教えてくれないか」
「承知いたしました。お預かりしておきます」
男は軽く帽子を傾け、店をあとにしました。
ドアが閉まると、店内には再び静けさが戻ります。
マスターは写真をそっと手に取り、やさしい眼差しで呟きました。
「探しているのは、相手ではなく……自分自身なのかもしれません」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




