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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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14/28

謎の男性 来店時刻:23時

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、静かに揺れて鳴りました。


「……一人、入っても?」


 低く落ち着いた声。姿を現したのは、黒のコートに帽子を目深にかぶった中年の男性でした。背は高く、顔立ちは整っていながらも、どこか目を引く無表情さをまとっています。


「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席へ」


「カウンターで」


 彼はまっすぐにカウンター席に歩き、椅子に腰掛けると、短く言いました。


「ブラックコーヒーを」


「かしこまりました」


 豆を挽くマスターの動きを、じっと観察するように見つめながら、男は口を開きます。


「……この店、変わってるな」


「変わってる……ですか?」


「雰囲気が、こう……時間が止まってるみたいだ」


「それは光栄でございます。外の喧騒から離れて、心が緩む場所であれたらと思っております」


 男はふっと鼻で笑い、小さく頷きました。


「……探してる人がいるんだ」


 マスターは静か、彼の話を耳に入れながらコーヒーを淹れ始めます。


「何かの事件、とかでしょうか」


 そんな話を他人にしてもいいものなのでしょうか。そう考えたマスターの予想は嬉しくも外れます。


「いや。失踪でも誘拐でもない。ただ……見失った。自分の中の記憶からも、なぜか消えていく気がしてる」


 コーヒーが注がれ、湯気がゆらりと立ち上る中、男はそれを見つめながら続けました。


「名前も顔もわかるのに、会話の内容や、出会った理由がぼやけていく。まるで、夢だったみたいに」


「記憶というのは、とても繊細で曖昧なものです。けれど、思い出そうとする気持ちは、必ずどこかに届きます」


 男はコーヒーをひと口飲み、その味をかみしめるように目を閉じました。


「……妙な話だと思うかい?」


「いえ。人を探す理由は千差万別。見えないものを追うほうが、案外本質を突いているのかもしれません」


 男はコートの内ポケットから、古びた写真を一枚取り出しました。そこに写っているのは、笑顔の女性と小さな子ども。


「もしかすると、これは俺自身の記憶じゃないのかもしれない、と思うこともある」


「でも、それを手放さずにいるのですね」


「……そうだな。忘れたくないから、かもしれない」


 男はゆっくり立ち上がり、代金とともに写真を机の上に置きました。


「……もし、誰かがこの写真のことを話していったら、教えてくれないか」


「承知いたしました。お預かりしておきます」


 男は軽く帽子を傾け、店をあとにしました。


 ドアが閉まると、店内には再び静けさが戻ります。


 マスターは写真をそっと手に取り、やさしい眼差しで呟きました。


「探しているのは、相手ではなく……自分自身なのかもしれません」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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