介護女性 来店時刻:19時30分
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、静かに鳴りました。
「……こんばんは」
入ってきたのは、やや疲れた表情を浮かべた中年の女性でした。コートの肩には小さなほこりがついており、足取りは重く、目元には疲れが色濃く表れています。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
「はい……カモミールティー、ありますか?」
「ございます。どうぞ、お好きなお席へ」
彼女は小さくうなずき、カウンター席の端にそっと腰を下ろしました。マスターが茶葉を準備する間、彼女はバッグから小さなメモ帳を取り出し、開いたまま手を止めてじっと見つめています。
「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」
「いえ……今日は母の通院の付き添いでした。最近は、だいたいそんな毎日です」
「そうでしたか。お疲れさまでございました」
カモミールティーのカップが置かれ、やわらかな香りが立ちのぼります。彼女はそれを深く吸い込んで、ふうと長い息をつきました。
「……なんだか、ようやくひと息つけた気がします」
「ここでは、どうぞご自分の時間をお過ごしくださいませ」
「ありがとうございます」
彼女はカップを両手で包みながら、ぽつりと話し始めました。
「母は、認知症なんです。もともと厳しい人でしたけど、最近は私のことすら忘れてしまう日があって……」
マスターは静かに耳を傾け、カウンター越しにそっと視線を合わせます。
「名前を呼ばれないと、まるでこの世に自分が存在していないような気持ちになります」
「それは、とてもおつらいことですね」
「ええ。でも、責められないんです。本人だって、きっと苦しいはずだから。……でも、そう思えば思うほど、自分の中にたまっていくものがあって」
「そのお気持ち、どうか無理に抑えこまれませんように」
彼女はカモミールティーを一口飲み、目を伏せたまま小さく頷きました。
「本当は、誰かに話したかったのかもしれません」
「ここでのお話は、どこにも漏れません。よろしければ、またいつでもいらしてください」
彼女の目元に、うっすらと涙のあとが浮かんでいましたが、表情にはわずかな安堵が感じられました。
「……ありがとうございます。ほんの少しだけ、軽くなった気がします」
「その“ほんの少し”が、きっと日々を支えてくれると信じております」
彼女は立ち上がり、そっと頭を下げてから店をあとにしました。
マスターはまだ温もりの残るカップを片づけながら、やさしく呟きます。
「寄りかかれる場所は、多くなくてもいい。ただ、そこに在ることが、大きな力になるのです」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




