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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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13/28

介護女性 来店時刻:19時30分

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、静かに鳴りました。


「……こんばんは」


 入ってきたのは、やや疲れた表情を浮かべた中年の女性でした。コートの肩には小さなほこりがついており、足取りは重く、目元には疲れが色濃く表れています。


「いらっしゃいませ。おひとりですか?」


「はい……カモミールティー、ありますか?」


「ございます。どうぞ、お好きなお席へ」


 彼女は小さくうなずき、カウンター席の端にそっと腰を下ろしました。マスターが茶葉を準備する間、彼女はバッグから小さなメモ帳を取り出し、開いたまま手を止めてじっと見つめています。


「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」


「いえ……今日は母の通院の付き添いでした。最近は、だいたいそんな毎日です」


「そうでしたか。お疲れさまでございました」


 カモミールティーのカップが置かれ、やわらかな香りが立ちのぼります。彼女はそれを深く吸い込んで、ふうと長い息をつきました。


「……なんだか、ようやくひと息つけた気がします」


「ここでは、どうぞご自分の時間をお過ごしくださいませ」


「ありがとうございます」


 彼女はカップを両手で包みながら、ぽつりと話し始めました。


「母は、認知症なんです。もともと厳しい人でしたけど、最近は私のことすら忘れてしまう日があって……」


 マスターは静かに耳を傾け、カウンター越しにそっと視線を合わせます。


「名前を呼ばれないと、まるでこの世に自分が存在していないような気持ちになります」


「それは、とてもおつらいことですね」


「ええ。でも、責められないんです。本人だって、きっと苦しいはずだから。……でも、そう思えば思うほど、自分の中にたまっていくものがあって」


「そのお気持ち、どうか無理に抑えこまれませんように」


 彼女はカモミールティーを一口飲み、目を伏せたまま小さく頷きました。


「本当は、誰かに話したかったのかもしれません」


「ここでのお話は、どこにも漏れません。よろしければ、またいつでもいらしてください」


 彼女の目元に、うっすらと涙のあとが浮かんでいましたが、表情にはわずかな安堵が感じられました。


「……ありがとうございます。ほんの少しだけ、軽くなった気がします」


「その“ほんの少し”が、きっと日々を支えてくれると信じております」


 彼女は立ち上がり、そっと頭を下げてから店をあとにしました。


 マスターはまだ温もりの残るカップを片づけながら、やさしく呟きます。


「寄りかかれる場所は、多くなくてもいい。ただ、そこに在ることが、大きな力になるのです」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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