タクシードライバー 来店時刻:0時10分
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、控えめに、そっと鳴りました。
「こんばんは。まだ、やってる?」
声の主は、中年の男性でした。ジャケットの肩にはうっすらと雨のしずくが残り、首元にはタクシー会社のネームが入った名札がちらりと見えています。
「はい、ようこそ。お疲れさまでございます」
「ありがと。ホットコーヒー、お願い」
「かしこまりました」
マスターが静かに豆を挽き始めると、男性はカウンターに腰を下ろし、大きくひと息をつきました。その動作ひとつひとつに、夜の長さがにじんでいるようでした。
「夜の勤務中でいらっしゃいますか?」
「んー、まあそう。今日は終わり。ちょっとひと休み」
「おつかれさまでした。寒い夜ですね」
「まったくだよ。雨だし、お客さんは少ないし。やっとこさ終点ってわけ」
マスターはホットコーヒーを差し出しました。立ちのぼる湯気とともに、ほっとした表情が男性の顔に浮かびます。
「……うまい。やっぱり、缶コーヒーとは違うね」
「ありがとうございます」
彼はカップを両手で包みながら、ぽつりぽつりと話し始めました。
「前に、ちょっと面白いお客さんを乗せたことがあってさ。『あてもなく走ってくれ』って言うんだ。そりゃあ仕事なんだから、そういうわけにはいかないって言ったんだけど……」
「続けて走られたのですか?」
「うん。結局『じゃあ海が見えるとこまで』ってなって、こっちは高速乗って夜のベイブリッジを渡った。静かだったなあ……その人、何も話さなかったけど、窓の外ずっと見てた」
「その方に、何か感じるものがあったのですね」
「そうかもな。降りるとき、ぽつっと言ったんだよ。『ありがとう、思い出せた』って」
マスターはそっと微笑みながら、カップのふちを布巾で拭います。
「運転手でありながら、その方の心の案内人にもなっていたのかもしれませんね」
「案内人、ねぇ……悪くない響きだ」
彼は残りのコーヒーを一気に飲み干し、静かに立ち上がりました。
「ごちそうさま。あんたのコーヒーも、きっと何か思い出させる味なんだろうな」
「そうであれば、嬉しい限りです」
男性は軽く帽子を傾けて、静かにドアを開けました。外の雨はやや小降りになり、濡れたアスファルトが街灯に照らされて光っていました。
マスターは静かにカップを洗いながら、ぽつりと呟きます。
「心の寄り道も、ときには必要なのかもしれません」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




