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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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11/28

男子大学生 来店時刻:13時50分

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、控えめに鳴りました。


「こんばんは……あ、空いてる」


 入ってきたのは、ラフな服装の大学生風の男性でした。肩からかけたトートバッグが膨らんでおり、その中からはノートパソコンの端が少しだけ顔をのぞかせています。


「いらっしゃいませ。お一人ですか?」


「はい。カプチーノ、お願いします」


「かしこまりました」


 彼は静かにカウンター席に座ると、バッグから小さなUSBメモリを取り出して見つめました。その表情はどこか困惑しているようで、マスターがカプチーノを準備する間も、それを机の上で指先でもてあそび続けていました。


「こちら、カプチーノでございます」


「あ、ありがとうございます……」


 彼は一口飲みながら、ふぅと息を吐きました。


「何か……お困りごとがございますか?」


「うーん、というか……ちょっと奇妙なことがあって」


「奇妙なこと、ですか?」


「このUSB、大学の研究室で拾ったんです。誰のか分からなくて。中身を確認したら、ファイルはひとつだけ。“voice.mp3”っていう音声ファイルだけだったんです」


 マスターは少し首をかしげながら、手を止めて聞き入ります。


「で、再生してみたら……誰かの声で、“ここに来て、思い出してください”って、囁くように言ってるだけで。他には何もなくて」


「それはまた、不思議なお話ですね」


「はい。最初はいたずらかと思ったんですけど、声が妙にリアルで……どこかで聞いたことがある気もするんです」


 彼は再びUSBを握りしめ、真剣な顔になりました。


「それで、録音場所がどこか気になって、音を解析してみたら、環境音にかすかに“氷の当たる音”が混じってたんです。グラスの中の氷の音」


「なるほど……当店のような場所で収録された可能性がある、と」


「ええ。来てみたら、なんだか雰囲気が似ていて」


 彼がカプチーノの泡の表面を軽くスプーンででなぞると、マスターはにこやかに頷きながら答えます。


「それは、その声が“記憶にある音”だったのかもしれませんね」


「記憶……」


「忘れていたもの、心の奥にしまっていたものは、意外と身近な音や香りによって引き出されることがございます」


 彼はしばらく黙ってカプチーノを見つめ、やがて静かに微笑みました。


「そういえば、昔よく喫茶店でレポート書いてました。氷の音も、BGMも、似てるかもしれない」


「そのときの気持ちを、思い出されましたか?」


「……はい。なぜか、懐かしくて、ちょっと泣きそうです」


 彼はUSBをそっとポケットにしまい、カップの残りを一口で飲み干しました。


「ありがとうございました。なんだか、すごく落ち着きました」


「それは、何よりでございます」


 彼が去ったあと、マスターは空のカップを手に取り、指でやさしくふちをなぞりながら呟きます。


「人の心には、思い出すべき“音”が、それぞれあるのかもしれません」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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