男子大学生 来店時刻:13時50分
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、控えめに鳴りました。
「こんばんは……あ、空いてる」
入ってきたのは、ラフな服装の大学生風の男性でした。肩からかけたトートバッグが膨らんでおり、その中からはノートパソコンの端が少しだけ顔をのぞかせています。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
「はい。カプチーノ、お願いします」
「かしこまりました」
彼は静かにカウンター席に座ると、バッグから小さなUSBメモリを取り出して見つめました。その表情はどこか困惑しているようで、マスターがカプチーノを準備する間も、それを机の上で指先でもてあそび続けていました。
「こちら、カプチーノでございます」
「あ、ありがとうございます……」
彼は一口飲みながら、ふぅと息を吐きました。
「何か……お困りごとがございますか?」
「うーん、というか……ちょっと奇妙なことがあって」
「奇妙なこと、ですか?」
「このUSB、大学の研究室で拾ったんです。誰のか分からなくて。中身を確認したら、ファイルはひとつだけ。“voice.mp3”っていう音声ファイルだけだったんです」
マスターは少し首をかしげながら、手を止めて聞き入ります。
「で、再生してみたら……誰かの声で、“ここに来て、思い出してください”って、囁くように言ってるだけで。他には何もなくて」
「それはまた、不思議なお話ですね」
「はい。最初はいたずらかと思ったんですけど、声が妙にリアルで……どこかで聞いたことがある気もするんです」
彼は再びUSBを握りしめ、真剣な顔になりました。
「それで、録音場所がどこか気になって、音を解析してみたら、環境音にかすかに“氷の当たる音”が混じってたんです。グラスの中の氷の音」
「なるほど……当店のような場所で収録された可能性がある、と」
「ええ。来てみたら、なんだか雰囲気が似ていて」
彼がカプチーノの泡の表面を軽くスプーンででなぞると、マスターはにこやかに頷きながら答えます。
「それは、その声が“記憶にある音”だったのかもしれませんね」
「記憶……」
「忘れていたもの、心の奥にしまっていたものは、意外と身近な音や香りによって引き出されることがございます」
彼はしばらく黙ってカプチーノを見つめ、やがて静かに微笑みました。
「そういえば、昔よく喫茶店でレポート書いてました。氷の音も、BGMも、似てるかもしれない」
「そのときの気持ちを、思い出されましたか?」
「……はい。なぜか、懐かしくて、ちょっと泣きそうです」
彼はUSBをそっとポケットにしまい、カップの残りを一口で飲み干しました。
「ありがとうございました。なんだか、すごく落ち着きました」
「それは、何よりでございます」
彼が去ったあと、マスターは空のカップを手に取り、指でやさしくふちをなぞりながら呟きます。
「人の心には、思い出すべき“音”が、それぞれあるのかもしれません」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




