大工の壮年 来店時刻:22時
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、重たく鈍い音を立てて鳴りました。
「……やってるかい」
入ってきたのは、がっしりとした体格の中年男性でした。日焼けした肌に作業着、手には革の手袋を持ったまま。職人らしい雰囲気が全身から漂っております。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
「じゃあ、奥の方を借りるよ」
男性はゆっくりと歩いてカウンターの端に腰を下ろしました。椅子がきしむ音も、どこか重厚に響きます。
「焼酎を、ロックで」
「かしこまりました」
カフェバーで焼酎。あまり耳慣れないかもしれませんが、このお店にはしっかりと揃えてあるのです。
グラスに氷を入れ、焼酎を注ぐ音が響くなか、マスターは彼の様子をさりげなくうかがいます。その表情はやや疲れており、どこか所在なさげでもありました。
「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」
「いや、今日は早めに上がらせてもらってな。……正確には、仕事を引退したんだよ、今日でな」
「まあ。それは、おつかれさまでございました」
「ありがとよ。とはいえな……急にやることがなくなると、かえって落ち着かなくてな」
マスターは軽くうなずきながら、グラスをそっと差し出しました。
「お疲れのところ、こうしてお越しいただいて光栄です」
「……この店、前から気になってたんだ。通勤路の途中にあってな。現場が終わったら寄ってみようって思ってたんだよ」
「そう言っていただけると、嬉しい限りです」
彼は一口、焼酎を口に含んでから、ふうっと長い息を吐きました。
「三十年以上、大工一筋だった。手も腰もボロボロだけど……まあ、やりきった感はあるよ」
「立派なお仕事ですね。たくさんの家を建てられたのですね」
「家だけじゃなくて、人の思い出も、そこに一緒に作ってきた気がするんだ」
マスターはその言葉に、静かにうなずきました。
「でもな……明日っからのことを考えると、やることが急になくなって。時間はあっても何していいかわからねぇ。テレビも退屈でしょうがねぇしな」
「何もしない時間も、次に何かを始める準備期間かもしれません」
「準備、か……そうだな。確かに、何か始めてもいいかもしれない」
彼は再びグラスを持ち上げ、じっと氷と焼酎を見つめます。
「今さらだけどさ、孫に椅子でも作ってやろうかな。小学校に上がるって聞いたから」
「きっと喜ばれますね。世界にひとつだけの椅子、ですね」
「そうか……そうだな。ありがとな、マスター。ちょっと元気出たよ」
「また、いつでもお待ちしております」
彼はゆっくりと立ち上がり、腰に手を当てながら笑いました。
「この腰が動くうちに、もうちょっと働いてみるよ」
「どうぞ、ご無理のない範囲で」
ドアが閉まる音のあと、残されたグラスにはまだ少しだけ焼酎が残っていました。
マスターはそれを静かに片付けながら、やさしく呟きます。
「過ぎてきた日々の重みは、これからの時間を豊かにする種にもなります」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




