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一杯のあとに、少しだけ  作者: 塵無


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10/28

大工の壮年 来店時刻:22時

 賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。


 今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。


 ――木製のドアベルが、重たく鈍い音を立てて鳴りました。


「……やってるかい」


 入ってきたのは、がっしりとした体格の中年男性でした。日焼けした肌に作業着、手には革の手袋を持ったまま。職人らしい雰囲気が全身から漂っております。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


「じゃあ、奥の方を借りるよ」


 男性はゆっくりと歩いてカウンターの端に腰を下ろしました。椅子がきしむ音も、どこか重厚に響きます。


「焼酎を、ロックで」


「かしこまりました」


 カフェバーで焼酎。あまり耳慣れないかもしれませんが、このお店にはしっかりと揃えてあるのです。


 グラスに氷を入れ、焼酎を注ぐ音が響くなか、マスターは彼の様子をさりげなくうかがいます。その表情はやや疲れており、どこか所在なさげでもありました。


「お仕事帰りでいらっしゃいますか?」


「いや、今日は早めに上がらせてもらってな。……正確には、仕事を引退したんだよ、今日でな」


「まあ。それは、おつかれさまでございました」


「ありがとよ。とはいえな……急にやることがなくなると、かえって落ち着かなくてな」


 マスターは軽くうなずきながら、グラスをそっと差し出しました。


「お疲れのところ、こうしてお越しいただいて光栄です」


「……この店、前から気になってたんだ。通勤路の途中にあってな。現場が終わったら寄ってみようって思ってたんだよ」


「そう言っていただけると、嬉しい限りです」


 彼は一口、焼酎を口に含んでから、ふうっと長い息を吐きました。


「三十年以上、大工一筋だった。手も腰もボロボロだけど……まあ、やりきった感はあるよ」


「立派なお仕事ですね。たくさんの家を建てられたのですね」


「家だけじゃなくて、人の思い出も、そこに一緒に作ってきた気がするんだ」


 マスターはその言葉に、静かにうなずきました。


「でもな……明日っからのことを考えると、やることが急になくなって。時間はあっても何していいかわからねぇ。テレビも退屈でしょうがねぇしな」


「何もしない時間も、次に何かを始める準備期間かもしれません」


「準備、か……そうだな。確かに、何か始めてもいいかもしれない」


 彼は再びグラスを持ち上げ、じっと氷と焼酎を見つめます。


「今さらだけどさ、孫に椅子でも作ってやろうかな。小学校に上がるって聞いたから」


「きっと喜ばれますね。世界にひとつだけの椅子、ですね」


「そうか……そうだな。ありがとな、マスター。ちょっと元気出たよ」


「また、いつでもお待ちしております」


 彼はゆっくりと立ち上がり、腰に手を当てながら笑いました。


「この腰が動くうちに、もうちょっと働いてみるよ」


「どうぞ、ご無理のない範囲で」


 ドアが閉まる音のあと、残されたグラスにはまだ少しだけ焼酎が残っていました。


 マスターはそれを静かに片付けながら、やさしく呟きます。


「過ぎてきた日々の重みは、これからの時間を豊かにする種にもなります」


 今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。


 誰かのこころが、ほどけていったようです。


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