サラリーマン 来店時刻:21時30分
メインで進める話より先に思い浮かんだので色々と「協力」を得て書いてみました。
最後まで見ると意外な結末になります。
賑やかな通りから一本、そしてもう一本横に曲がった先にある、小さなカフェ&バー。
今日も若きマスターがいるこの店には、ほんの少しだけ、刺激的なお客様が訪れます。
――木製のドアベルが、やさしく揺れました。
「こんばんは」
入ってきたのは、グレーのスーツを着た三十代前半ほどの男性でした。
ネクタイを緩め、少しだけうつむき加減に歩く様子からは、どこか疲れた雰囲気が伝わってまいります。
「いらっしゃいませ。カウンター席でよろしいですか?」
「ええ、そこで……」
彼は、短く返事をすると、奥から三番目の椅子に腰を下ろしました。鞄を静かに床に置き、スーツの裾を整えながら、ようやく顔を上げます。
「ウイスキーを。ストレートで」
「かしこまりました」
マスターはグラスを手に取り、琥珀色の液体を静かに注ぎます。
照明の加減で、その液体がグラスの中でゆるやかに揺れるのが、どこか幻想的に見えました。
「……お仕事、お疲れさまでした」
「ええ、まあ。ありがとうございます」
短い会話のあと、男性は一口ウイスキーを口に含みました。グラスを置いた指が、かすかに震えているように見えたのは、気のせいだったでしょうか。
「今日は、なにかあったのでしょうか」
マスターは、カウンター越しに静かに問いかけます。
「……転職するかどうか、迷っているんです」
少しだけ間を置いて、男性はぽつりと口を開きました。
「今の会社、もう十年になるんです。入社してからずっとがむしゃらに働いて、ようやく課長になった。でも最近、ふと、これが本当に自分のやりたかったことなのかって……」
「なるほど……それで、どんなお仕事をされているのですか?」
「営業です。法人相手のルート営業。でも、最近は数字ばかり追われていて。お客様の顔より、パソコンの画面の方が長く見てる気がします」
男性は苦笑しながら、もう一口ウイスキーを口に含みました。その笑みの奥に、どこか諦めのようなものが見え隠れしているように思えます。
「転職先は、もう見つかっていらっしゃるのですか?」
「ええ、昔の同期が、ベンチャー企業に誘ってくれて。でもそこは、今より年収が下がるし、役職もゼロからです」
マスターは、彼のグラスが空になっているのに気づき、再びウイスキーを注ぎ足します。その手つきは静かで、でもとても丁寧でした。
「私が申し上げることではないかもしれませんが……今のお仕事も、転職先も、どちらも間違いではないように思います」
「……そう思いますか」
「はい。お話を聞いていて、どちらも“誰かのため”になっているお仕事のように感じましたから」
「誰かのため、ですか……?」
「ええ。相手は違えど誰かのために動くことって、何であれとても尊いものだと思いますよ?」
「尊い、か……」
男性は、それを聞いてしばらく無言でグラスを見つめておりました。やがて、ふっと小さく笑い、肩の力を少しだけ抜いたように見えました。
「……なんだか、肩の荷が少しだけ軽くなりましたよ。マスター」
「おそれいります」
男性は代金を置き、立ち上がります。
「また、来ていいですか」
「ええ、もちろんです。ウイスキー、お口に合いましたか?」
「ええ。沁みましたよ、心に」
そう言って彼は、軽く会釈をして店を出ていきました。
木製のドアが静かに閉まり、店内に再び、柔らかな静寂が戻ってきました。
その静けさの中で、マスターはグラスを磨きながら、ぽつりと呟きます。
「どちらの道でも、きっとあの方は、大丈夫だと思います」
今日もまた、一杯のあとに、少しだけ。
誰かのこころが、ほどけていったようです。




