ぶっきらぼうな香の店主と冒険者は互いに香りを知っていく〜ひとつ知っていく度に会うことが楽しみになる〜
夕焼け空が茜色に染まる頃、リーリンはハウの寂れた路地を一人歩いていた。
ふうと溜め息を吐く。
背には使い慣れた剣と、今日討伐した魔物の素材が入った革袋。
異世界に転生して早数十年。
冒険者として各地を渡り歩き、ようやくこの香りの都ハウに辿り着いた。
ようやく、だ。
ハウは、その名の通り、様々な香りの店が軒を連ねることで有名だった。
くんくんと鼻を動かせば、いい香りがする。
甘美な花の香り、スパイシーな香辛料の香り、清涼な薬草の香り。
(異世界っぽいし、異国らしい匂い)
空気そのものが、幾重にも重なる香りのヴェールを纏っているようだ。
街並みも乱雑に見えて、統一した風景がある。
「ここ……」
そんなハウの一角に、ひっそりと佇む一軒の店があった。
香粋堂。
古びた看板は風雨に晒され、文字も薄くなっている。
素朴だ。他の店のような華やかさはないが、リーリンはその店に妙に惹かれるものを感じた。
ちょっとだけ、怯むがなんとか進む。
引き戸を開けると、むっとするような濃密な香りが鼻腔をくすぐった。薄暗い店内には、大小様々な香水瓶や香炉が所狭しと並べられている。
「いい香りだ」
奥のカウンターには、黒い衣を纏った男が静かに佇んでいた。「あっ」顔は影になってよく見えないが、低い声が店内に響いた。
「何か、御用か」
その声は、どこか憂いを帯びていて、リーリンの胸に小さな波紋を広げた。
少し出たくなったけど。
そして、特徴的な一人称が耳に残る。
「あ、えっと何か珍しい香水を探していて」
リーリンは少し緊張しながら答えた。
(あまり話すのは得意じゃないんだけどなぁっ)
男はゆっくりと顔を上げた。深い藍色の瞳が、一瞬リーリンを射抜く。
「眼光強い」
整った顔立ちだが、確かにどこか人を寄せ付けないような、怪しい雰囲気を漂わせていた。
「珍しい香り、ね。おれの店には、ありきたりなものはないぞ」
男は低い声で言った。その声には、自信のような、諦めのような、複雑な感情が混ざっているようだった。
「私はリーリンと言います」
「おれは、ジン。この香粋堂の主だ」
ジンと名乗った男は、カウンターの奥から小さな香炉を取り出した。
蓋を開けると、ふわりと甘くもどこか懐かしい香りが広がる。
「これは、『追憶の胡蝶』過ぎ去った日々を、鮮やかに蘇らせる香りだ」
リーリンはその香りに目を奪われた。
(思い出す、な)
前世の記憶が、遠い日の幻のように脳裏をよぎる。
哀愁。
故郷の風景、家族の笑顔、そしてもう二度と会えない人々の面影。
「すごい。本当に、懐かしい気持ちになります」
思わず漏れたリーリンの言葉に、ジンの藍色の瞳がかすかに揺れた気がした。
「お前は、変わった客だな。ただ珍しい香りを求めているだけじゃないようだ」
ジンの言葉に、ドキッとした。
転生者であることなど、誰にも話したことはない。
この男は、一体何を感じ取ったのだろうか。
不思議な勘を持っている。
「私は、遠い故郷を思い出せるような香りを、ずっと探していたんです」
ふふ、と笑みを浮かべたリーリンは、正直に打ち明けた。
ジンは何も言わず、じっとリーリンを見つめている。
その沈黙が、妙に心地よかった。
「お前のような異邦人が、なぜこのハウに?」
しばらくして、ジンが低い声で問いかけた。
低い声で聞いていて落ち着く。
「私は冒険者です。色々な場所を見て回りたくて」
冒険者のカードを見せた。
「冒険者、ね。危険な道を選ぶとは、面白い女だ」
ジンの口元が、かすかに歪んだような気がした。
それは嘲りの笑みではなくどこか興味深そうな、そんな表情だった。
わかりにくい人だと思う。
その日から、リーリンは時折、香粋堂に立ち寄るようになった。
ジンは多くを語らないが、彼の調合する香りはどれも深く、リーリンの心の奥底に眠る感情を呼び覚ますよう。
二人の間には、言葉にならない不思議な繋がりが生まれ始めていた。
興味の蕾。
ハウの街に漂う様々な香りのように、二人の関係もまた、複雑で奥深いものへと変化していくことになるだろう。
(楽しみだなぁ)
怪しい雰囲気を纏う香水店の主と、異世界から来た女冒険者。
二人の未来は、まだ誰にも予測できない。
数日後、リーリンは再び香粋堂の引き戸を開けた。
「お邪魔します」
今回は、背負った革袋がいつもより幾分か膨らんでいる。
険しい山岳地帯で遭遇した、毒を持つ妖鳥の鱗粉を手に入れたのだ。
鮮やかな虹色に輝く鱗粉は、微かに痺れるような独特の香りを放っている。
店に入ると、ジンはいつものようにカウンターの奥に立っていた。
「こんにちは」
薄暗い店内で、彼の藍色の瞳だけが静かに光っているように見える。
「また来たか」
低い声が、相変わらず感情を読み取らせない。
「はい。あの、ちょっと珍しいものを見つけたので」
リーリンは少し緊張しながら、革袋から小さなガラス瓶を取り出した。
「なかなか珍しくてですね」
中には、採取したばかりの妖鳥の鱗粉が入っている。
光の加減で、七色にきらめき、妖しい魅力を放っていた。
リーリンは自慢げに笑う。
「これは?」
ジンは興味深そうに目を細めた。
カウンター越しに、自分の手元の瓶を見つめている。
「毒妖鳥の鱗粉です。毒性も強いらしいんですが、この独特の香りが気になって」
鱗粉の瓶を少しだけ傾けて見せた。微かに漂う、甘さと刺激が混ざったような香りが、店内の空気に溶け込む。
反応は思っていたようなものである。
「どうですか?」
ジンは無言で鱗粉の瓶を見つめていたが、やがてゆっくりとカウンターから身を乗り出した。
「面白いものを持ってきたな」
彼の声には、いつもの憂いに混じって、微かな興味の色が感じられた。
それに対してさらに笑みが深くなる。
「こんなもの、一体どこで手に入れた?」
「少し奥まった山で。動きが速くて苦労しましたが、なんとか」
リーリンは苦笑しながら答えた。
大変ではあったけど。
冒険者としての苦労は絶えないが、こうして珍しいものを見つけた時の喜びは格別だ。
ジンは、リーリンから鱗粉の瓶を受け取ると、丁寧に蓋を開けて匂いを嗅いだ。
(嬉しいのかな?)
彼の表情は真剣そのもので、周囲の喧騒などまるで耳に入っていないかのようだ。
「確かに、独特の香りだ。甘美でありながら、奥に鋭い刺激がある。今まで嗅いだことのない種類の香りだな」
しばらくの間、ジンは鱗粉の香りを堪能するかのように、静かに息を吸い込んだ。
彼の普段見せない真剣な表情に、思わず息を呑んだ。
「この鱗粉で、何か香水は作れますか?」
問いかけると、ジンはゆっくりと顔を上げた。
その藍色の瞳には、先ほどの真剣さに加えて、何か思案するような光が宿っていた。
「作れるかどうかはまだ分からない。だが試してみる価値はあるかもしれない」
「本当ですか?よかった」
ジンの言葉に、リーリンの胸が高鳴った。
(採ってきたものを褒められた!)
彼の口から「試してみる」という積極的な言葉が出たのは、初めてのことだったからだ。
「もし、何か新しい香りができたら教えてもらえますか?」
リーリンは、期待を込めてジンを見つめた。
「?」
ジンは一瞬、目を逸らしたが、すぐにリーリンの瞳を捉え返した。
「ああ。お前が持ち込んだものだ。完成したら、一番に教えてやろう」
なぜ逸らしたのか?
その言葉は、いつもより少しだけ優しく響いた気がした。
それから数日、リーリンはハウの街で他の依頼をこなしながら、時折香粋堂を訪れた。
彼と語らうのは楽しい。
ジンは相変わらず多くを語らなかったが、以前よりも少しだけ……リーリンに対して警戒心を解いているように感じられた。
ある日、店を訪れれば。
店内には、これまで嗅いだことのない、不思議な香りが漂っていた。
「これって、もしかして」
妖鳥の鱗粉の甘さと刺激に、何か深みのある香りが加わった、複雑で魅惑的な香りだった。
「ジンさん!」
カウンターの奥に立つジンの表情は、どこか満足げだった。
「できたぞ」
彼は、小さな香水瓶をリーリンの前にそっと置いた。
透明な瓶の中の液体は、淡い虹色に輝いている。
「これは?」
「『異彩の誘惑』。お前が持ち込んだ鱗粉を元に、調合してみた」
ジンの低い声には、かすかな誇りのようなものが感じられた。
自分はその香りをそっと嗅いだ。
「わぁ」
それは、妖しくも魅力的で、一度嗅いだら忘れられないような、不思議な力を持つ香りだった。
「すごい。本当に、ありがとうございます」
リーリンは、心からの感謝を込めて言った。ジンは、少し照れたように目を逸らした。
「礼には及ばん。面白い素材を提供してくれたのは、お前だからな」
どきりとなる。
それは、共に珍しい香りを創り上げたという、二人にしか分からないもの、なのかもしれない。
心をゆったりと、近づけていくのだった。
そっとうかがう。
「あのもしよかったら、今度、一緒にお茶でもどうですか?」
『異彩の誘惑』が完成してから数日後、リーリンは意を決してジンに声をかけた。
ハウには、様々な茶葉を扱う店や、落ち着いた茶屋がいくつかある。
彼の淹れる香りの知識があれば、きっと美味しいお茶を知っているだろうと、思ったのだ。
ジンは、いつものようにカウンターで香水の調合道具の手入れをしていた。
リーリンの突然の誘いに、少しだけ手を止めたが、顔は上げない。
「おれと、茶を?」
低い声には、驚きと。
ほんの少しの戸惑いが混じっているようだった。
「はい。ジンさんの選ぶお茶を、ぜひ味わってみたいと思って」
リーリンは、彼の返事を待つ間、少しだけ心臓が早くなるのを感じた。いつも冷静なジンが。
今日はどこか落ち着かない様子に見えるのは気のせいだろうか。
ドキドキ。
沈黙が数秒続いた後、ジンはゆっくりと顔を上げた。
こちらも。
その藍色の瞳は、いつもより柔らかい光を帯びているように見える。
「別に、構わんが」
意外にも、ジンはあっさりと承諾した。
よかったと、ホッとして。
パッと顔が緩くなる。
リーリンは、安堵と喜びで胸がいっぱいになった。
「本当ですか?ありがとうございます!」
「ただし、おれはあまり社交的な場は得意ではないぞ」
ジンは少しだけ、眉をひそめて言った。
そんなの気にしない。
その言葉には、彼なりの照れ隠しのようなものが感じられる。
「大丈夫です。私も、賑やかな場所より、静かに話せる方が好きですから」
思わず付け加えた。
二人は、数日後、ハウの街の裏通りにある、小さな茶屋で待ち合わせることに。
その茶屋は、ひっそりとしているが、庭の手入れが行き届いており、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
約束の日、リーリンは少しだけおしゃれをして茶屋に向かった。
新しい冒険で手に入れた、薄紅色の刺繍が施された外套を羽織ってみたのだ。
変なところはなし、と。
茶屋の入り口でジンを見つけた時、リーリンは思わず息を呑んだ。
彼はいつもの黒い衣ではなく、深い藍色のシンプルな絹の着物を身につけていた。
「わぁ」
普段の怪しげな雰囲気は影を潜め。
「かっこいい」
どこか物静かで凛とした美しさがあった。
「待たせたか」
ジンは、リーリンに気づくと少しだけ目を細めて言った。
デートって感じがする。
その声は、いつもより幾分か優しく響いた。
「いいえ、私も今来たところです」
二人は、庭が見える静かな席に案内された。
周りには同じような客が話している。
運ばれてきたのは、湯気を立てる淡い緑色のお茶と、小さな茶菓子だった。
美味しそう。
最初は、お互いに少しぎこちない会話が続いた。
「えっと」
リーリンは最近の冒険の話を、ジンは香りのこと、そしてハウの街の古い言い伝えなどを話した。
「それはだな」
話が進むにつれて、二人の間の緊張はしっとりと溶けていった。
ちょっとずつ。
ジンはお茶の淹れ方や、それぞれの茶葉の特徴について、静かに語った。
優しい声音。
彼の言葉には香水と同じように、深い知識と愛情が感じられる。
「博識だなぁ」
リーリンは、彼の話に熱心に耳を傾け、時折質問を挟んだ。
「このお茶は、とても香りが良いですね。何というお茶ですか?」
リーリンが尋ねると、ジンは湯呑みを手に取り、静かに答えた。
「これは、『春告草』という茶葉だ。まだ、寒さの残る早春に芽吹く茶葉でな。かすかな甘みと、清々しい香りが特徴だ」
彼の説明を聞きながら、自身はその繊細な香りをゆっくりと味わう。
ジンが語るお茶の世界は、まるで彼の調合する香水のように、奥深くて魅力的で。
会話の合間には、しばしば静かな時間が流れた。
その沈黙は決して気まずいものではなく、二人の間に心地よい静寂が漂っている。
庭の木々を渡る風の音や、鳥のさえずりが、二人の時間を優しく包み込んでいた。
お茶を飲み終える頃には、二人の間には、初めて会った頃のぎこちなさはなくなっている。
互いのことを少しだけ理解し、心を通わせることができたような気がした。
帰り際、茶屋の入り口で、ジンは少しだけ躊躇うように述べる。
「今日は、楽しかった」
彼の素直な気持ちが表れているように感じられ、リーリンの胸は可愛いかもしれないという。
未知の感覚で満たされた。
「私も、とても楽しかったです。また、一緒にお茶を飲みに来ませんか?」
リーリンが笑顔でそう言うと、男は一瞬目を伏せ。
そして、小さく頷いた。
「ああ」
夕焼け空の下、二人はそれぞれの帰路についた。
ハウの街を離れ、しばらくの間、遠方の遺跡調査の依頼を受けていた。リーリンが、久しぶりにハウへと戻ったところ。
数週間ぶりの帰還だったが、その心には、いつもよりわずかながら特別な期待感が漂っていた。
香粋堂の主である、ジンに会えることへのささやかな喜び。
遺跡の近くの街で、リーリンはジンへのお土産を見つけていた。
それは、その地方特産の黒曜石で作られた、小さな香炉。
無骨ながらも、磨き上げられた表面は滑らかで、独特の光沢を放っている。
ジンが普段使っている香炉は、古びた真鍮製のものだったので。
新しいものを贈ったら、喜んでくれるかもしれないと思ったのだ。
(早く会いたい)
ハウの街に戻り、冒険者ギルドに報告を済ませる。
リーリンは逸る気持ちを抑えながら、香粋堂へと向かった。
夕暮れ時の薄暗い路地を歩きながら、店の灯りがともっているのを見る。
不安だったが少しだけ、安堵した。
引き戸を開けると、いつものように濃密な香りがリーリンを迎える。
(この香りも懐かしい)
カウンターの奥には、ジンが静かに佇んでいる。
彼はこちらに気づくと、いつもと変わらない表情で投げかけた。
「戻ったか」
「はい、ただいま戻りました」
リーリンは少しだけ呼吸する。
そして、背負っていた荷物から大切に包んだ、黒曜石の香炉を取り出した。
「あの、これ、お土産です」
少し緊張しながら、リーリンは香炉をカウンターの上に緩く置いた。
黒曜石の深い黒色が、薄暗い店内で静かに輝いている。
ジンは贈り物に、わずかに目を丸くした。
彼は贈られた香炉を見つめ。
手に取って見回す。
その顔は、いつもの雰囲気とは異なり好奇心で、いっぱいだった。
「これは黒曜石か」
彼の低い声には、わずかな驚きと興味の色が混じっていた。
「はい。この地方の特産品なんです。ジンさんの香炉が少し古くなっていたので、もしよかったら、使ってください」
リーリンは、彼の反応を見守る。
ジンがどのように感じるか、少し不安だった。
男は、しばらくの間、香炉をジッと見つめていた。
黒曜石の滑らかな表面をゆっくりなぞる。
その表情は相変わらず読みにくいが、とても満足げな様子にも見えた。
やがて、ジンは顔を上げ、リーリンの瞳を見る。
その藍色の瞳には普段にはない、キラキラした光が宿っていた。
「ありがとう」
その一言は、なによりの賛美で、震えているようにも聞こえた。
「は、はい」
それは、彼の美しい外見の奥にある、素直な感謝の気持ちの表れなのだろう。
美しくずっと見ていたい。
ささやかな贈り物だったが、確かに彼の心に届いたのだと感じた。
「喜んでいただけて、嬉しいです」
顔を綻ばせるとジンはわずかに目を逸らしたが、すぐにいつもの仏頂面にも見える表情に戻った。
「別に礼には及ばん。だが、大切に使わせてもらう」
そう言うと、ジンは黒曜石の香炉をカウンターの奥へと慎重にしまった。
その仕草はいつもよりも殊更丁寧だった。
その日、リーリンは香粋堂で、ジンが淹れてくれたお高そうな茶葉を二人で共に飲んだ。
帰ろうとしたら、すでに茶が用意されていたので、いただく。
「どうだ?」
普段と変わらない静かな時間だったが。
二人の間にはスパイシーな香りのような、確かな空間が存在していた。
「帰ってきたって感じがします」
ささやかな贈り物は、二人の距離を少しだけ深め、きっかけとなったのかもしれない。
リーリンは、ジンとの静かな交流の中で確かに、受け止めているようだった。
人との感情など、言えるほど経験がないけれど。
彼がこちらに対して、親友だと思ってくれていればいいなと思う。
友人でも可。
(こんなにおだかやな時間なんて、初めてかも)
今まであちこち旅をして、過去の思い出に似た場所を無意識に探し求めていた。
それなのに、ちっとも似てないこの土地でホッとできる自分に驚く。
「どうした?」
(そうだ)
「あの、ジンさんはここに住んで何年ほどなんですか?わたし、今宿暮らしなんですけど。ここに住むなら家を借りたいと思ってまして。どこかよい借り地とかあったりしますか?」
ここでの暮らしを検討し始めていることを素直に伝えた。
正直に言ってしまえば、胸がスッキリ。
「そうだな……ここら辺はあまりおすすめしない。ここは商人が多く住むから、土地代が少しばかり高い」
「そうですか。ここなら市場に近いからいいなって思ってたので、高いなんて無理そうですね」
残念さにウッとなる。
「って、それを払えているここ、凄いですね。そんなに香の需要ってあるんですね」
「この町は香や香油の文化がまだ根強いしな」
「へぇ。わたしの故郷は香の文化はだいぶ廃れてしまって、代わりに電気……香りも火も使わないものになってるんですよ。火事にならないからです」
故郷は故郷でも、異世界だが。
「まぁ、火の扱いは慣れると無意識に疎かになりがちだからな」
「でも、香りがよくてわたしも火がないならいいなって思ってて。袋にして匂い袋にしたいなぁって」
「匂い袋?」
どうやら、ここでは匂い袋の概念がないと。
「匂い袋っていうのはハーブや香辛料を」
説明し終わると彼は作りたいと言い出す。
リーリンは、彼の素直な言葉に心が暖かな感覚で満たされた。
好奇心が強い人なのだな。
「なるほど。それは、良さそうだ」
ニコニコと笑みが自然と浮かぶ。
「はい。作ってもらえたら、私買います」
力強く顎を引く。
「ああ。調合してみる」
ジンも作る気がありそうで、期待に目をリーリンは光らせた。
もし、使えるようになったのなら枕元におきたい。
是非是非、と念押しのように再度頼み込み、気分が高く舞い上がる。
頼んでみたらオッケーをもらえたのだから、嬉しいと幸せが混合で起こるわけで。
それを楽しみにリーリンは待つことにした。
出来上がったかもしれない、とお店に顔を出す。
「ジンさん、進歩はいかがですか?」
試しに聞いてみる。
「もう少しだけ待ってろ」
こちらに顔を向ける、顔の良い店主。
彼は得意げに目を細めて、手になにかを持ったまま戻ってくる。
「あ、それってもしかして」
期待に膨らむ。
目を向けると、ジンは自慢げにそれを見せつけてくる。
「どうだ」
木造のテーブルにポンと乗せられる。
「すごい。見せてもらっても?」
「ああ。手に取って好きにしてくれ。たくさん作ったからな」
「じゃあ、失礼して」
べっこう色の袋に入れられている。
「袋からして気合い入ってますね」
感想を口にする。
中身を透かしながら、くんと匂いを嗅ぐ。
「わっ、香りが強い!」
「匂い袋っていうのなら、そんなもんだ。何か変か?お前しか知らないからな」
「合ってますよ」
謎めいた笑みを浮かべた男は、どうやら嬉しいらしい。
匂い袋が、うまく行ったことがそんなにだったようで。
「そうか。もう少し微調整する」
こちらも嬉しくなる。
彼は古代の秘密を知ったような顔をして、匂い袋を再度テーブルへと置き、それを手に取った。
「今のままでも、いいと思うのですけど」
どこか、影のある雰囲気を持つ若い男なので、見ているだけでは単に怪しい。
「だめだ。完璧を目指す」
今ではそれも、見せかけと知っているけど。
ジンは安堵したのか、何度も頷く。
リーリンはそれを見て、頼んでよかったとホッとした。
香りの都ハウ、と呼ばれるだけある。
完成度が違う。
濃密な香りが鼻腔を通る。
「では、完成品を待ちますね。これも買い取りたいのですが」
試作品を指差す。
しかし、それは未完成なので無料でやると押し付けられる。
「え、いや、流石に」
じっとリーリンを見つめている。
持っていけと圧が強い。
「あんないい香炉をもらったんだ。少しはおれにもなにか、お前に渡させろ」
ハッとなる。
黒曜石の香炉。
お土産のことか。
いつもの黒い衣を身につけた男は少し、こちらの視線を気まずそうに見る。
余計なことを口にしたなと、思ってそう。
「あ、えっと。もらいます!」
照れながら受け取る。
ジンは離さず顎を上下させるだけに留めた。
こちらも、なんだかそれ以上言えなくなる。
胸がいっぱいとはこのことか。
「そういえば」
「はいっ!」
「前に茶屋で着ていた羽織の他にはあるのか?」
「え、えーっと、あんまり、ないと思います。普段は動きやすい、今みたいな服装で動いていますし」
ジンはそれを聞くと、無言でカウンターから退く。
そして、扉を開いたままゴソゴソさせて、なにかを抱えてやってくる。
ベッコウ色の、刺繍が施された外套が、そこにあった。
びっくりだ。
女物である。
「じ、ジンさん遂に」
「待て、何の勘違いをしてる?これはお前ようにだなっ」
「え?私の、ですか?」
ジンは、ついぽろりと言ったという顔をし、ドンとカウンターテーブルにそれを乗せる。
「女ものなんて、買ったことなんてあまりないから、センスについては何も言うな」
「プレゼントってことですかね?」
香炉の礼にしては豪華だ。
「まあ、普段の礼も兼ねて。なんなら数年分」
「え、ふふ。大きく出ましたね」
出しにくいからと、ぶっきらぼうに語る相手。
流石の自分も、照れ隠し行動とわかる。
手に取ると、清涼な薬草の香りが。
店に置いてあったので、香りが移ったのだろう。
ジンの匂いだ。
「この羽織。ジンさんの香りがしますね」
「なっ」
カウンターの奥にいるジンは、動揺したのか後ずさる。
「そういうことは、口に出さず心の中で思っておくべきだぞ」
少し、怒鳴るように言う。
耳が微かに赤く熟れている。
「すみません。つい、本音が」
彼はこの世界でいう、真面目だからこうなる。
藍色の瞳を持つ彼が心なしか、ちょっと潤んでいるような。
さらに美人度が増す。
「あの、ジンさんも着てみるってのは」
「香炉と匂い袋、どちらで張り倒されたい?」
「ジョーダンです」
甘さと刺激のある会話を終わらせて、羽織を見る。
これを着る時、また一緒に出掛けてみることを提案したら、どう答えてくれるだろうか?
もう一度、その落ち着いた嗅ぎ慣れた香が移った羽織を、そっと手に抱え込んだ。
ジンも羽織を着てみたらいい、という方も⭐︎の評価をしていただければ幸いです。
ご褒美は匂い袋で殴打されるでしょう。