憂える宮廷官吏達
宮廷に勤め始めて三ヶ月目の文官であるエミリアン・ブラントームは非常に葛藤していた。
エミリアンは聖職者である。
平民出身ながら、非常に達筆であったため教会では写本を得意としていた。
その点を買われて公文書を作成する文官として取り立てられたのだが、配属された部署の空気が何だか殺伐としていたのである。
その理由は二、三日も働けばよくわかった。
「あぁあ! アゼマ伯爵家とバルテレミー伯爵家の婚約が破談になった!」
「ブリュイエール男爵家とダルトワ子爵家の婚約もです!」
「こっちはドゥケ子爵家とジアン子爵家の婚約が破棄、ドゥケ子爵家はラングレー伯爵家と婚約し直すようです」
そう、エミリアンが配属された部署は貴族の婚姻に関する書類の発行を主に担当しており、最近は激務が続いていたのだ。
それと言うのも、昨今貴族家の婚約が破棄されたり他家と結び直されたりというのが頻発していて、この部署では大量の書類の書き直しを余儀なくされているからである。
そしてエミリアンは王宮に勤める聖職者の為の宿舎から職場に辿り着くまでの間に、「これ追加な」と新たな婚約破棄と婚約締結に関する書類を各所から五枚も渡されていた。
(これを持って入るの嫌だなぁ)
そんな訳で、エミリアンは渡された書類を抱えたまま、部屋のドアの前で葛藤していたのだった。
「エミリアン、そんなところで突っ立ってどうしたんだ」
「メルセンヌ様。おはようございます。……それが……」
後からやって来た先輩のシリル・メルセンヌに話しかけられて、ドアの前でもじもじしていたエミリアンは気まずそうに抱えていた書類を彼に見せた。
途端にシリルは全てを察し、あぁ、と小さな声を漏らした。
「皆、お前が新入りだからと書類を押し付けて行ったのだな。仕方のない奴らだ。エミリアン、その書類をこちらへ。私が持って入ろう」
「そんな、申し訳ないです」
「良いんだよ。どうせ処理せねばならん書類だ」
そう言ってシリルはエミリアンから書類を奪い取って、いつも通りに職場のドアを開けた。
エミリアンも恐る恐るその背について部屋に入る。
「おはよう、諸君。早速だが仕事だ」
シリルの声で部屋の中は水を打ったようにしんと静まり返った。
それはまるで、魔物から逃れる為に草むらに身を隠し、じっと息を潜めるかのようだった。
そんな中で、シリルは丸められた羊皮紙を広げ、そこに書かれた内容を淡々と読み上げていく。
「フランクール伯爵家とミュレーズ伯爵家の婚約が決まった。ここの担当はサイモンだな」
「はい」
言いながらシリルは、まだ朝だというのに既にインクで手を黒く汚しているサイモンに羊皮紙を渡す。
「続いてシルヴァン伯爵家とジョクス伯爵家」
家名を聞いた瞬間、部屋の隅から小さな悲鳴が上がった。
「まさか……」
悲鳴を上げた青年に羊皮紙を差し出してシリルは苦笑する。
「そのまさかだ。婚約解消が決定した。更にジョクス伯爵家はベランジェ伯爵家と婚約をし直すそうだ。書類作成を頼む」
「あぁあああ……」
羊皮紙を受け取った青年、コンスタンはそのまま机に突っ伏した。
彼の机にはまだ書き終えてない書類の束が山を作っており、部屋の中の誰もが似たり寄ったりの状況だった。
そうしてシリルがその他全ての書類を担当者に配り終え、今日も部屋の中にどこかどんよりとした空気を漂わせながら勤務が始まったのだった。
──この国では、貴族は婚約時点で貴族院への届出が必須である。
婚姻は家と家の契約であり、例え婚約であってもそれがただの口約束などではないと証明する為だ。
そして受理された婚約について、貴族院での保管用、教会での保管用、そして両家の保管用の合計四枚の書面が発行される。
この時に発行される書面を作成するのがエミリアンの所属する部署だ。
なお、この書類は誓約の言葉も含めて全て手書きである。
しかも貴族の婚姻に関する書類は平民のそれよりも細かな規定が多い。
例えば、発行される書類は教会で聖別され、魔力を含んだ水にも火にも強い専用の紙を使用するだとか、書類の文字だって教会の定めた神聖な飾り文字でなければいけないだとか、そういう取り決めがいちいち多い。
書類の改竄防止のため、使用するインクの配合さえ厳しく定められていて専門のインク職人だっている。
勿論誤字脱字は訂正すら許されないので、一文字でも間違えば即書き直しとなる。
婚約が破棄された場合には書類も規定通りに破棄するだけで良いが(魔力を含んだ紙なので書類の破棄も当然面倒な手順が存在するのだが)、問題は新たな婚約である。
何しろ最近は婚約破棄から新しい婚約までのスパンが短い。
その度に手書きで四枚の書類を作成するのだ。
しかも全てが聖職者の中でも書ける者が限られる、手間のかかる複雑な飾り文字である。
度重なる婚約破棄に加えて新たな婚約も重なるとなれば当然処理が追いつくはずもなく、その為の増員で配属となったのがエミリアンであった。
エミリアンには本当はあと二人同期がいたのだが、彼らは早々に胃痛に倒れて去っていった。
「痛ぁっ!」
エミリアンが現実逃避という名の物思いに耽っていると、部屋のどこかから悲鳴が上がった。
見ればフィリップ・セヴランが右手首を押さえて倒れている。
「フィリップ! 腱鞘炎か。無茶しやがって。湿布……のストックは切れていたか。医務室に行って手当をして来なさい」
「いえ、自分まだいけます! やらせて下さい!」
「馬鹿者、腱鞘炎を甘く見るな」
「しかしそれでは書類が……」
「書類よりもまず君の身体だ。早く医務室に行って来い」
「……申し訳ありません」
申し訳なさそうに肩を落として医務室へ向かうフィリップを見送ったシリルは、ひどく難しい顔をして呟いた。
「……至急大臣に増員の申請と、医務官達に湿布の調合を頼まねば……」
その呟きはシリルの近くにいたエミリアンには大変重苦しい響きを持っているように聞こえた。
シリルはこの職場の若き室長である。抱える苦労も多いだろう。
何か声を掛けるべきだろうかとエミリアンが逡巡したその時、ガタンと音を立てて一人の職員が立ち上がった。
「ミゲル……?」
それはエミリアンより半年早く配属されたミゲル・アルマだった。
ミゲルはエミリアンよりも更に若い。
歳の頃にしてみれば、まだ貴族でいうところの学園に通っているような若さなのだが、信仰心の篤い家系に生まれ、幼い頃から聖職者になるべく教育を受け精進してきた所謂エリートだった。
この国において宮廷での公文書の発行は聖職者の仕事だ。
聖職者としての宮仕えという経験を積む為に配属されたと聞いているが、そんなミゲルは今、ぶるぶると怒りに震えていた。
「何で……、どうしてこんなに書類の書き直しが多いんですか⁉︎ 毎日毎日次から次へと……僕らを殺す気ですか!」
メキッ。
その音を聞いた部屋の中の人々は「またやったな」と思った。
ミゲルの手の中では今週何本目かになるペンが無惨に折れていた。
彼は生まれながらに騎士並みに握力が強いのである。
だがミゲルは折れたペンを気にした風もなく、ひたすら怒りを顕にしてシリルを睨み付けた。
「メルセンヌ様、あまりにも婚約破棄と再婚約が多すぎますと、僕が配属されて一週間後にはお伝えしてますよね。なのに何故、未だに状況は改善どころか悪化しているのでしょう?」
「ミゲル、改善していないと言うが、貴族の家系図関連の職務は他の部署に回して貰ってうちの業務を減らす事には成功しただろう?」
「そんなのは焼け石に水もいいところですよ! 業務を減らす? 減ってますか、コレ⁉︎ 増え続けていますよね? え? 大体どうして貴族がこんなほいほい婚約したり破棄したりするんですか! 婚姻とは本来こんな簡単に繋いだり切ったりするようなものではなく、神聖な、尊いものであるはずだ!」
「それはそうだが、だからそれは……」
怒れるミゲルを宥めるように、シリルは苦笑しながら彼の肩を軽く叩いたが、ミゲルは火を噴く竜の如く止まらなかった。
「だからそれは? 巷で婚約破棄ビジネスとか言われるアレのせいでしょう! あんな犯罪まがいの行為、国中に警吏を派遣して片っ端からさっさと取り締まれば良いのに! したくもない婚約だか何だか知りませんが、婚姻という貴族の義務を真っ当に果たせないなら、貴族籍なんて投げ捨てるなり取り上げるなりして平民にでも何でもなれば良いものを、自分一人の体裁さえ保てばそれで良いんですか! そも、わざわざ正式に婚約した後に破棄するなよ面倒くさい!」
ここまでをミゲルはノンブレスで叫んだ。
彼は生まれながらに騎士並みの肺活量なのである。
その叫びに、教会で説法を説く事もあり、日頃から肺活量を鍛えているシリルもノンブレスで返した。
「ミゲル、何度も書類の書き直しを余儀なくされて憤る君の気持ちもよくわかる。しかし、この問題は非常にデリケートで複雑なんだ。婚約破棄ビジネスというのは仕掛けた貴族令嬢だけが悪い訳でも、それにほいほい引っ掛かってしまう貴族子息だけが悪い訳でもない。悪いのは、未だ世情に追い付かない法整備と、自分の意に沿わぬ婚約に困惑し葛藤する令嬢達の心につけ込み婚約破棄ビジネスなどというものに手を染めるよう誘い込む黒幕なのだ」
黒幕、という言葉に、部屋にいた皆は何か恐ろしい事を聞いてしまったのではないかとビクビクした表情を浮かべ、部屋の真ん中で対立するシリルとミゲルを見た。
「黒幕……?」
「そうだ。元々は婚約者から理不尽に蔑ろにされた事から、相手に見切りを付けて女性側から婚約破棄を申し入れるようになったのがこの風潮の始まりではあるが、昨今では慰謝料目当ての婚約破棄ビジネスが横行している。しかし、婚約破棄『ビジネス』と呼ばれるものには、それを斡旋する業者……つまり黒幕がいるらしいと警吏の調査で判明した。関わった令嬢達は頑なに話をしようとはしないので、聞き取り調査は難航しているらしいがな」
「婚約破棄と婚約破棄ビジネスって違うものなんですか?」
「似て非なる、というやつだ」
シリルの語った内容にエミリアンはそんな事になっていたのかと驚愕したが、ミゲルは語調荒くシリルに噛みついた。
「じゃあ警吏がさっさとその黒幕とやらを摘発すれば良いだけじゃないですか! もう僕の腕だって限界なんです! 早く摘発して、適正な業務量で定時で帰宅できる生活を取り戻して下さい! こんなんじゃお祈りの時間さえままなりません!」
「聞き取り調査は難航していると言っただろう。なかなか尻尾が掴めないのだ」
肩を竦めながらシリルはそれに、と続けた。
「今は男性側が有責になり相手側に賠償金を支払って婚約を解消するというのが殆どだが、今の状況では、本当に貴族子息側が婚約者である令嬢を大切にせず倫理にもとる行いをしたが故に婚約破棄に至ったケースと、令嬢側が婚約破棄したいが為に相手にそのように仕向けて理由を『作成』して婚約破棄に至ったケースと、瑕疵の所在については判断が非常に難しい」
「あ、そうか。浮気等の事実がある場合、それが自らの意志なのかそもそも仕掛けられたものなのか、判断するのは確かに難しいですね。口では何とでも言えますから」
エミリアンはぽんと手を打って頷いた。
浮気を理由に男性側を断罪するのは簡単だ。
だが、その浮気がそもそも仕組まれたものであったなら話はまた変わってくる。
しかし、ハニートラップか否か、それを第三者が証明するのは確かに難しい問題だ。
それに大体の場合、ハニトラの証拠は掴めないのが定石だ。
だからこそ現状では浮気という事実を突きつけられた男性側が賠償金を支払う事になるのだろう。
何にせよ、不貞の事実は変わらないからだ。
よく考えられているなと思わずエミリアンが溜め息を吐くと、ミゲルは顔を真っ赤にして書き物机を拳で叩いた。殴ったと言う方が近かったかもしれない。
「あぁもう! どんな理由があったとしても浮気だなんて穢らわしい! そんなものをする人間も他人を使って色仕掛けを仕掛けようとする人間も、全て等しく地獄に堕ちろ!」
ミゲルの過激な物言いに、部屋の聖職者達は喉の奥でヒッと小さな悲鳴を上げ、身を竦ませる。
本来まだ幼さを残し可愛らしい顔付きのミゲルだが、こうして怒っていると物凄く迫力があった。つまり、普通に怖かった。
最近は忙しさから殺伐とした空気に身を浸していたが、彼らは元々穏やかな性分であるので、このような激昂した人間の叫び声というのはそれだけで萎縮してしまうのだった。
シリルは部屋にいる皆の精神状態が一気に悪化した事を直ぐ様察知して、よく通る声で一時間の休憩を皆に言い渡した。
業務に遅れが生じている事を承知の上で、部屋の換気をし、温かいハーブティーを飲んで休むように命じたのである。
そして部屋の中で一番おっとりとしていて人当たりの良いサイモンにミゲルを託し、厨房に行ってホットミルクとビスケットをミゲルに与えるように申し付けた。
サイモンに肩を抱かれて部屋を出て行くミゲルは、先程までの勢いが嘘のように今度はスンスンと泣いていた。
ミゲルは泣きながらインクで汚れた手で涙を拭うので、顔はそれはもうひどい事になっていたが、誰もそれを指摘など出来なかった。
もうおうち帰りたい。そう言いながら泣くミゲルに誰も何も言えなかった。泣き声の合間に「人間は愚か」と不穏な呟きも聞こえた気がしたが、気のせいだったかもしれない。
限界だ。身体も、心も。
ミゲルを見送りながら、誰もが同じ事を思っていた。
「エミリアン。休憩時間に悪いが、ひとつ頼まれてくれないか」
「はい、メルセンヌ様。私に出来る事でしたら何でもお申し付けください」
シリルは疲労の滲む声で、エミリアンに騎士団に行って湿布を分けてもらうようにと申し付けた。
シリルは今から大臣に人員の拡充について話をしに行くらしい。
宮廷内にも当然医務官が医務室に常駐し、病気や怪我に備えている。
だが、最近は湿布の使用比率が高まり医務室の湿布自体が品薄になっていた。
騎士団にはまた別で専用の医務室があるから、そこから分けて貰えと言う事だろう。
今は少しでも湿布のストックが必要なのだ。
エミリアンはこくりとシリルに頷き、騎士団に割り当てられた区画へと早足で向かったのだった。
「あのう、失礼します。公文書官室の者ですが……」
騎士団区画の中の事務を担当する部屋にエミリアンが恐る恐る声を掛けると、偶々中に居た騎士団長が気付いてエミリアンを中に通してくれた。
「珍しい客人だな。何かあったのかね」
「メルセンヌ室長から、こちらで湿布を分けて貰うようにと申し付けられ、遣いにやって参りました」
「湿布? 怪我人か?」
「あ、いえ、あの、怪我といえばそうかもしれませんが……皆、腕や手首を痛めていて……」
エミリアンがそう答えると、騎士団長は全てを察した顔になった。
「そうか、メルセンヌといえば例の……。君、彼を医務室に連れていって医務官に湿布を分けてやるように伝えなさい。こちらは最低限があれば良いから、ありったけの在庫を渡すように」
「畏まりました。君、付いて来たまえ」
若い騎士に先導されてエミリアンは騎士団の医務室へと向かう。
騎士団の医務室は宮廷医務室とはまた少し趣きが異なっていて、より無骨な印象を受けた。こちらでは怪我を主に扱っているからかもしれない。
騎士が医務官に話をつけてくれたので、エミリアンは騎士の横で医務官に小さくぺこりと頭を下げただけで、あとは準備が整うのをただ突っ立って待っていれば良かった。
エミリアンがぼんやり立っていると、若い騎士が話かけてきた。
「君、アレだろ。貴族の婚約等の書類を作ってる部署の」
「え、あ、はい。さようです」
「聖職者の仕事とはいえ、最近は大変なのだろう? 我々も力になってやりたいが……こればかりはな」
正義感が強いのだろう。若い騎士は悔しそうに顔を歪ませてエミリアンを見ている。
エミリアンはそれに肩を竦ませて苦笑して返した。
「そういえば、騎士団の方が婚約破棄ビジネスには黒幕がいる事を突き止めたと聞きました」
「ん? あぁ、だが詐欺などやる悪人どもは総じて耳も鼻も利く。我々も早く摘発してこの不健全な状況を改善したいのだが、令嬢方は非協力的だし、子息らは総じて事の真相を知らぬ。摘発するにしてもなかなか決定打がなくて我々も苦戦している」
シリルもこの騎士も言っていたが、なかなか黒幕に辿り着けないのは、関わった令嬢達からの供述が無い事が関係していそうだった。
もし彼女らが教会でその事を懺悔したとしていても、教会は騎士団に懺悔の内容を漏らしたりはしないし、そもそも婚約破棄ビジネスに関わった事が知れたら自身の立場が危うくなるのだから詳細を話したがる令嬢などいる訳がない。
どこも大変なのだなとエミリアンは溜め息を吐いて、そしてふと思い付いたように言った。
「これまで関わった令嬢が何も話してくれないのなら、これから関わる令嬢から話を聞いてみたら良いのでは? 全ての身分や地位、財産等を保障すると約束して協力者を秘密裏に募れば良いのではないでしょうか。もしくは、あえて婚約破棄ビジネスに引っ掛かったフリをして相手を泳がせて相手の情報を抜くだとか……」
「君、それはデビュタントを迎えたばかりのご令嬢や、まだ学生である貴族家の子息に囮になれと言うようなものだぞ」
「言うようなもの、というか、そう申しております」
エミリアンとしてはごく当たり前の事を言ったつもりだったが、若い騎士はとんでもない事を聞いたとばかりに驚いた表情を浮かべている。
彼はもしかしたら貴族のお坊ちゃんなのかもしれないな、と平民出身のエミリアンは何となく思った。
貴族あるあるなのだが、彼らは「貴族とはこうあるべき」というものを頑なに変えようとしないのだ。
この凝り固まった貴族思考が法整備を遅れさせ、婚約破棄ビジネスなどというものが蔓延る一因となるのではないだろうか。
流石に口には出せないが、エミリアンは何となく事の核心を突いてしまった気がした。
「既存の方法が相手方にバレているから逃げられるんでしょう? だったら捜査のやり方自体を変えなければ」
重ねて言えば、まだ柔軟な考えを持っているらしい若い騎士は神妙に頷いた。
「それは、そうだが。……いや、君の言う通りだな。上が納得するかどうかはわからないが一つの意見として伝えてみよう」
そこで医務官が支度が出来ましたと声を掛けてきたので、二人の話はそこまでになった。
騎士に手伝って貰って、湿布とそれを塗布する為のガーゼやら固定用の包帯やらの一式を運び、エミリアンは戻るなり、まず職員達に湿布で手当をして、休憩で少し気分が上向いた他の職員達と共に仕事を再開したのだった。
「……ところで、一つお尋ねしたいのですが」
書類を仕上げながら、エミリアンはふと思い付いて、隣の席でペン先の手入れをしていたサイモンに声を掛けた。
サイモンは何だいと手を止めずにエミリアンに穏やかな視線を向ける。
「どうしてこの書類は全て手書きなのですか? 共通の文章部分を版画にして、両家の名前を書き入れる部分だけ手書きにすれば、大分時間の節約になると思うのですが」
版画にすればいつでも均一な文章が作れるので、印刷に失敗さえしなければ時間も人件費も一気にカットできる。
そう思っての発言だったが、周りの聖職者達は何を言い出すのかと一斉にざわついた。
「あのね、エミリアン。婚姻に関わる書類は聖職者が手書きで作成するという決まりがあるんだよ」
「どうしてです?」
「どうしてって、これは神聖な書類だからね。神聖な文字を聖職者自らが書いて書類を作成する。今までずっとそうやって来たんだ」
「でも、神聖文字で原版を作成すれば、神聖文字の書類は作成出来ますし、改竄防止というのなら刷る際の魔力インクで何とかなるでしょう? 最近は教えを伝える教本だって一部は版画を使って刷られているんですよ。このまま書類の手書きを続けるのは効率が悪いし、早晩私達全員、腕が使い物にならなくなります」
エミリアンは自分なりに頑張って現状の問題点とそれに対する改善案を出したつもりだった。だって、ここにいる誰一人手書きにしなければいけない理由を明確に言えないのだ。
そんな形骸化している決まりなど、さっさと変えてしまえばいい。
けれど、そこではたと気が付いた。
この部屋にいる聖職者は自分以外が皆貴族家の出身であった。
つまり、彼らもまた伝統だとかしきたりだとか、そういうものに固執する性質を持っているのだ。
(確かに守るべき伝統は多い。でも、全てを無かった事にしたり、他のものに取って変える訳でもないのに、どうしてここまで従来のやり方に固執するんだろう?)
シリルが帰って来たら改めて伝えてみようと考え、エミリアンは一応はサイモンの言い分に納得したかのような曖昧な笑みを浮かべて再び作業に戻った。
その後、エミリアンはシリルに先程の自分の考えを伝え、婚約破棄と新たな婚約が重なる状況が続く限り聖職者の負担は際限がなく、現状打破には何かしらの手を打つべきと考えていたシリルが上申してくれたのだが、結局は『決まりである』と一蹴されてしまったのだった。
「……うぅん、昔からある決まりを変えるって難しいんだなぁ」
とっぷりと日が暮れた夜の廊下を宿舎に戻っていたエミリアンは、疲労その他諸々にがっくりと肩を落としていた。
と、そこに声が掛けられる。
「おや、君は昼間の」
「あ、騎士様」
「あぁ、ちょうど良かった! 聞いてくれないか!」
「ひぇ⁉︎」
がしりと強い力で騎士に肩を掴まれて、エミリアンは飛び上がる程びっくりした。
だが騎士は憤懣やる方ないといった様子で勢いよく口を開いた。
「君からの意見だが、私なりに現在の捜査に応用出来そうな点を考えて上に進言してみたが、とりつく島もないんだ!」
「はぁ」
「貴族らしくないだとか、騎士の作法に反するだとか、そんな事ばかり並べ立てて私の言い分などばっさり斬って捨てられてしまった。私はただ出来る事から少しずつやっていこうと言っただけだぞ⁉︎」
若い騎士はそこから一通り愚痴を捲し立て、最終的には肩で息をしながら口を閉じた。
「すまない。みっともない姿を見せた」
「いえ、皆様大変なんですね」
「だが、これで諦めた訳ではない。今は学園で学生生活を送っておられるフレデリク王子殿下も、現状を憂い、御自ら啓蒙活動を行われているのだそうだ。私も根気強く早期解決に向けて出来る事をしていくつもりだ」
騎士の強い意志を秘めた瞳に、エミリアンはなるほどと思った。
一度却下されたからといって素直に諦める必要はないのだ。
もしかしたら自分は相手を納得させるだけの説明が出来ていなかったのかもしれない。
だから相手が納得出来るような説明やメリットを提示して、何度でも挑戦すれば良い。
「私も、今の自分に出来る事を行なって参ります」
「あぁ、互いに頑張ろう」
しんと静まり返る夜の通用廊下で、二人は互いに頷き合い、そしてそれぞれの行くべき場所に向かって歩き始めた。
この後、エミリアンは根気強く自身が考案した書類の版画への変更について、シリルと共に各所にプレゼンを行うのだが、最終的に全ての関係部署を納得させて採用されるまでに年単位で時間を必要とした。
シリルの奔走による定期的な人員拡充がなければ乗り切れなかったのは言うまでもない。
同様に、騎士団が警吏の上層部を説き伏せて捜査方法の方針を変更し、囮捜査によって婚約破棄ビジネスを斡旋する悪徳業者を摘発するに至るまで、同じく年単位の時間を必要とした。
その間に悪徳業者はネズミのように増え、摘発しては新たな業者が生まれるイタチごっこが始まっていた。
同時に業者を介さない純粋に悪質な婚約破棄も横行するという状況に対し、抜本的な解決案として、貴族女性の地位向上に向けてようやく貴族議会が動きだすのにもまた数年を要するのだった。
──そんな数年を経て、今やベテラン文官となったエミリアンは、ようやく変革の時を迎えようとする世の中を見て、すっかり腱鞘炎とお友達になってしまった腕を撫でながらぼんやりと思った。
どうでも良い法律や決まりはあっという間に決まるのに、本当に必要とされている法の整備にはどうしてこんなに時間が掛かるのだろう。
きっとあの若い騎士も同じ事を同じ空の下で思っているはずだ。
未だ安定する様子のない貴族間の婚約事情に、文官や警吏という宮廷官吏達の憂いはまだしばらく晴れそうにはない。
けれどもエミリアンがまだ踏ん張れているのは、来月には版画の原版が完成すると聞いていたり、婚約破棄に関する法令の制定が進んだりと、少しずつでも進んでいる事を肌で感じているからだ。
「さぁ、今日も皆で頑張るぞ!」
憂いは晴れずとも、光は遠くない。
そう信じて行動する人々の一人として、エミリアンは空を見上げ、ぐっと大きく伸びをした。