その後 後編
第三十二代のメディア王、ライナルト一世ことライナルト・エッカートは悩んでいる。
政務の事ではない。軍務の事でもない。
妻の事だ。
妻に対し、彼はどう接すればよいのか分からない。
嫌いではない。むしろ好きと言ってもいい。
だが結婚に至った経緯が経緯である。彼女の方は自分の事をどう思っているのだろうかなどと考え出すと、どうしても不安や恐怖が先に立って、一歩前に歩み出す事が出来なくなるのだ。
我ながら情けないと思う。狂王の二つ名が聞いて呆れるとも思う。
「ご案じなさいますな。女王様も陛下を好いておられますよ。その証拠に、夜以外は楽しくお過ごしではありませんか」
側近のハラン・エディアはそんな事を言う。
「確かに共に過ごしている時は楽しい。だが、あくまで仕事仲間や同志として楽しいだけだ。夫婦としてとなると、話は別だ」
「いえいえ、陛下はあれこれと深く考えすぎでございます。考える事も重要ですが、時にはやってみる事も重要です。それで芳しくない結果になるなら、その時にまた考えればいい。その程度の道理が分からぬ陛下ではありますまい。むしろ陛下はその道理を一番ご存じのはず。全くらしくない事です」
らしくない、と言われれば確かにそうであった。
政治や軍事の話であれば、あれこれ深く考えたりしない。良いと思えば、即実行し、結果に応じて軌道修正していくやり方をライナルトは好んでいた。軌道修正も上手くいかなければ、失敗と素直に認めて引っ込めればいい。何事もやってみる事が重要なのだ。考えてばかりいても何も始まらないのだから。
――とわかっているのに、こと、妻の事になると、失敗した時の事ばかりが脳裏に浮かんできて何もできなくなってしまう。それがライナルトが抱えている悩みであった。
とはいえ、同志として仕事仲間として親しい関係を築けているのに、それを壊してしまうリスクを冒してまでそれ以上を求める必要がどこにあるのかという気がしないでもない。
大体、夫婦が夫婦である為に、肉体関係が必須というわけでもあるまい。
家臣達は、しきりに「お世継ぎを儲ける為です」と言うが、それとても、王族の誰かを適当に選んで養子にしてしまえばいい。元々ライナルトにしてからが、本来は王位を継ぎうる立場にはなかった。しかし時流に乗って王位を奪い取ったのだ。一応は王統の男系男子という事もあって、彼の王権を否定する者はいない。であれば、自分の後を継ぐのが養子であっても何ら問題ないではないか。
また彼は別に性欲が強いわけでもない。
むしろ、娼婦の子として幼少期を過ごし、その事を散々馬鹿にされて育ってきた彼は、性欲というものに対してトラウマすらあった。
だから妻が欲しもしないのに、強引に求めたいとは思わないし、また妻以外の女と関係を持ちたいとも思わない。
であれば、あえて関係を進展させる必要もない。
――と結論付ける事で、彼は悩みを強引に抑え込んでいたが、それでも折に触れて思うのである。
それでよいのかと。
ライナルトは多忙である。
大国の統治者である以上、やむを得ないが、昨今は隣国のロマニア帝国の脅威もいよいよ深刻化してきて、その対応策に追われているという事もあった。
だから彼は寝る間も惜しんで執務に励み、日付が変わった頃にようやく就寝し、夜明け前に起きてまた執務に打ち込むという過酷な日常を過ごしていた。
政務や軍務は嫌いではない。
それに仕事に没入している間は、余計な事を忘れられるという利点も無視できなかった。
ある日、ライナルトの下にロマニア帝国軍が国境を侵犯したという報告がもたらされた。侵攻してきたロマニア軍は大軍であり、現地の知事や領主では対応しきれないという。仕方なく彼は自ら一万の軍勢を率いて急行した。
狂王ライナルトは優れた将軍であった。
巧みな采配で、ロマニア軍を翻弄し、勝利をもぎ取る。
続く講和交渉の席上、
「陛下には世継ぎたる御子がおられぬと聞き及ぶ。ロマニアの女は古くより良く子を産み、良く育てる存在として知られておる。そこで、わがロマニアの姫を側室として迎えられては如何かな。我が姫が陛下の御子を産み、その御子がメディアの王位を継げば、両国は永久の盟友として共に繁栄の道を歩めよう」
ロマニア軍の主将シャルル・エリス・エル・フラゴナール公はそんな事を言いだした。
ライナルトは呆気にとられるしかなかった。
彼には妻がいる事を知っているから、ロマニアの連中もあえて側室として勧めてきたのだろう。その配慮が実に小賢しい。しかし一方で、レファナとの間に子を儲けない限り、今後もこういう話が舞い込み続けるという気もして、ライナルトは急に落ち着かなくなった。
とはいえ、「ふざけるな」と一喝してロマニア側の心証を害する必要もない。
勝利したとはいえ、ロマニアは依然として手強すぎる敵であり、これを機に友好関係を構築するに越した事はないのだ。
「その件については、まだ時期尚早かと。我が陛下も女王陛下もお若く、近いうちに御子が産まれずとも慌てる事はないのです。御二人の間に御子が生じれば、当然にその御子を世継ぎとせざるを得ず、例え貴国の姫君が御子を産んでも庶子とせざるを得なくなってしまいます。それではせっかくの友好も無為に期してしまいます。
よって、両国の友誼の証としては、とりあえず別の形を考えた方が無難かと」
そんなライナルト王の意を察して、ハランが言う。
フラゴナール公もあえて強くは求めなかった。
「左様か」
と答えただけである。
ともあれ両国の間に和議が成立し、ロマニア軍は粛々と撤退していった。
ライナルトはホッと一息つく暇もなく、王都ハグマターナに慌ただしく帰還した。王宮では仕事が山の如き形をして彼の帰還を待っているはずだし、それよりも何よりも、今は無性に妻レファナに会いたかったのだ。
王都に凱旋したライナルトを、大衆の喝采が出迎えた。
それすら無視して、彼は王宮に直行する。
そしてその日の夜の事だった。
◇◆◇◆
その日も、彼は夜遅くまで執務に勤しみ、日付が変わる頃にようやく寝室に戻ってきた。
後は風呂に入り、寝間着に着替えて、ベッドに飛び込み、朝が来るまで睡魔に身をゆだねるだけ。
いつもと変わらない。
――はずだった。
しかしその日はいつもと違っていた。
彼の寝室には、彼の他に誰もいるはずのない寝室には、なぜか先客がいたのだ。
彼女は純白かつ薄地のネグリジェだけを身に纏った、やたら色っぽい恰好をして、ベッドの上にちょこんと腰かけていた。
彼の姿を見ると、ヒッと声を上げ、落ち着きなく全身を震わせている。あたかも小動物のようであり、何とも言えない可愛らしさがあった。
「れ、レファナ……?」
呆気にとられたように立ち尽くしているライナルトに対し、
「はい」
と、彼女は答えた。
「な、なんでここに?」
我ながら愚問だとライナルトは思った。
ここは寝室だ。そこに妻がいる理由など一つしかない。聞くまでもない事だし、聞くだけ野暮な事でもあった。
「あ、あの……」
薄暗い部屋の中。
彼女がどんな顔をしているのかはよく分からない。
だがその声は間違いなく震えていた。
「へ、陛下。そ、その、私、え……っと、その。……私の事が、お、お嫌い、ですか?」
動揺の果てに、ようやく発する事が出来た言葉。
もっと別の事を言うつもりであったのに、口から飛び出したのはそんな言葉だった。
「い、いや、嫌いではない」
そう言いながら、ライナルトは金縛りから解けたように一歩前に歩み出した。
そして彼女の隣にちょこんと腰を下ろす。
彼女と身体を接して見て、改めてわかる。
彼女の身体がぶるぶる震えている事と、何やら熱い事に。恐らく恥ずかしさで顔を真っ赤にしているに違いない。
そんな彼女を隣にして、ライナルトは己の頭の中で何かが吹っ切れたのを感じた。
次いでこみ上げてきたのは、笑いであった。
「ハハハハハ」
「な、何をお笑いに……」
レファナの声の上で困惑が蠢いている。
「いや、悪い。違うんだ。別にお前を笑ったわけではなく、己の臆病が今更おかしく思えてきたのだ」
「己の臆病?」
「ああ、余はずっとこうしたいと思っていたのに、あれこれ理由をつけて、遂に何もしなかった。迷い続けているうちに、逆にお前に先を越されてしまった。それが何だか悔しいというか、恥ずかしいというか、情けないというか。それで笑えてきたのだ」
「……」
「思えば、俺とお前の関係は常にお前に先を越されてばかりだな。結婚の申し出も、お前からだったし」
「そ、それは……」
レファナの顔は益々真っ赤に染め上がり、頭は脳みそが茹で上がるのではないかと思うほど熱く、心臓は破裂するのではないかと思うほど激しく動き続けている。
「改めて聞くが、本当に余で……、いや俺でいいのか?」
かつて似たような質問をぶつけてみた事がある。
だがその時と今とでは、真剣の度合いがまるで違った。
「ええ」
そう答えるレファナの心理も昔とは全く違っていた。
昔の彼女はただのヤケクソだった。単なる現実逃避でしかなかった。しかし今は心から彼と一緒にいたいと思っているし、彼に触れられたいと思っている。
ライナルトも事ここに至っては、もはや何も言わなかった。
ただ彼女の身体に手を触れ、ベッドの上に押し倒し、その顔を凝視する。
「……泣いているのか?」
彼女の瞼から溢れ出すそれを見て、ライナルトは恐る恐る問うてみた。
「いえ、嬉しいのです」
レファナは震える声で答えた。
「そうか」
「ええ、だからこれはお気になさらず」
「ああ」
どう答えるのが正解なのだろうか。
ライナルトはふとそんな事を考えた。
しかし、正直なところ、今はそれどころではなかった。
目を閉じ、必死に受け入れの姿勢を作っている彼女を目の当たりにして、もはやこみ上げてくる衝動を抑えきる事は出来なかった。
彼は別に女が嫌いなわけではない。
性的関係についても、パトロンと娼婦的関係が嫌なのであって、別にそれ自体が嫌いなわけでもない。
彼は静かに、己の唇を彼女のそれに重ねてみた。
人生で二度目のキス。
しかし一度目の儀礼的・義務的なそれと違って、今はとにかく気持ちが良かった。
そして彼は獣になる。
彼女も例外ではなかった。
熱情的な一夜が明ける。
夜通し頑張ったせいか、目が覚めた頃には既に昼が近づいていた。
隣で妻がすやすやと眠っている。
その幸せそうな顔を見ると、無性に抱きしめたくなった。それはかつて彼女が自分の下に逃げてきた時とは全く違う顔。そして革命を成し遂げて、にっくき妹や彼女を裏切った男に対して復讐を果たした時とも違っていた。
「あら、起きられたのですね」
彼女の声は、いつになく甘く聞こえた。
「ああ。さっき起きた」
「そうですか。……あの」
彼女は少し恥ずかしそうに眼を逸らしてから、
「よかったですか?」
と、問うた。
「ああ、人生で一番よかった」
彼女の他に経験などないのだが、ライナルトは心の底から昨晩が一番よかったと思っていた。
妻は嬉しそうに微笑んでいる。
その微笑みを、守っていきたいと彼は思った。
徐々に昼が迫ってきている。
今頃、部屋の外では、彼らの判断を待つ仕事が列をなしているに違いない。
王と女王は忙しい。
メディア王国の更なる繁栄と、そして永続の為に、彼らはこれから今まで以上に頑張っていかないといけないのだ。
「頑張りましょうね。あなた」
そんな彼の意を察したように彼女が言うと、
「ああ」
とだけ答えるライナルトであった。