1
ピリピリと目覚まし時計が鳴った瞬間、手が伸びてきてスイッチを切った。
その手の主はベッドの掛布団を跳ね除けてから足下に畳むと、ベッドサイドに立ち上がり、百八十cmほどの背丈を大きく伸ばす。
この日系の顔立ちの黒髪茶瞳の青年は、鍛えられた肉体を惜しげもなく晒す、パンツ一丁の姿である。
青年――コードネーム『コンバット・プルーフ』こと、シバ・サエモは起き抜けの体をストレッチで解すと、ベッドの脇に置かれた箱に近寄る。箱の中にはバーベルの重りがいくつかと、ボウルの中に入れられた小麦粉が入っている。そして箱の下には、なぜか畳まれた毛布と更に下に頑丈な体重計が置かれていた。
「よしっ、朝の『脳力』開発だ」
シバは手を伸ばして、箱に触れる。
すると箱が浮きあがった。
シバの腕力で持ち上げているわけではない。
シバの持つ超能力――念動力で浮かしているのだ。
その証拠に、シバが箱から手を離しても箱は浮いた状態で存在している。
「脳力の減衰はなし。続いて、トレーニングに入る」
シバは床に置かれていた袋を手に取る。袋の表面にプリントされた文字とイラストから、中身が小麦粉であることが分かる。
シバは袋の中に入れられたスプーンで小麦粉を掬い、箱の中にあるボウルの中へと少しずつ入れていく。
さらさらと小麦粉が投下された瞬間から、シバの額に汗が浮かび始める。
小麦粉を少量追加すればするほどに、シバの表情は変化していき、やがて苦痛を堪えるような顔つきになる。
「ぐうっ。あと、少し、だけな、ら」
ぱらりと小麦粉が再投入された瞬間、浮いて止まっていた箱が急に振動を始めた。
まるで限界だと報せるような動きをする中、シバは目を固く瞑って堪える様子になる。
しばらく箱の振動は続いていたが、やがて小刻みになり、そして再び空中で静止状態となった。
「……ふぅ。もう少しだけ」
再びぱらりと小麦粉が投下され、箱が振動を始める。またシバは耐える顔つきになり、箱の動きが止まる。再び同じことを繰り返していくが、やがて箱が振動して止まらないようになる。
シバは額からダラダラと汗を垂らしながらも、満足げな表情になる。
「俺の今の重量限界に到達。次は距離限界の伸長訓練だ」
シバはゆっくりと箱から距離をとっていく。
そして二mまで離れたところで、箱の振動が激しくなる。
「ふー、ふー、ふー」
シバは荒くなる息を無理矢理制御しながら呼吸を整える。身体からは、限界まで超能力を使用している反動で、汗みずくになっている。
それでもシバは、箱が浮き続けている間は、一mm刻みで箱から距離を取っていく。
しかしある地点を過ぎた瞬間、箱を浮かせていた力が消失したかのように、唐突に箱は床へと落下した。下に敷かれていた毛布のお陰で、落下の際に音はほとんど出なかった。
「ふーーー。では計測だ」
シバは現地店の自分の踵に水星ペンで印をつける。その後で箱に近づいた。
再び超能力で箱を持ち上げると、体重計の電源を入れると、箱を置き戻した。
「重量、百三.二百五十四kg。二十gだけ記録更新だな」
重量を計測し終えた後は、巻尺を使って、箱から床に書いた印までの距離を測る。
「距離、二.二五六m。二十一mmの増加か。重量も距離も、まずまずの増加だな」
シバは満足げに頷くと、今度はその場でスクワットを始め出す。
一分かけてしゃがみ、一分かけて立ち上がるという、スロースクワット。加えて過負荷を上げるために、自身の念動力で自分の身体を上から押さえつけるという事までやる。
十分間のスクワットを終えると、今度は腕立て伏せ。こちらも念動力で負荷をかけつつ、ゆっくり下ろして上げる。
筋トレの最後は、背筋を鍛えるためのデッドリフト。本来はバーベルを持って行うものだが、こちらも念動力で負荷を加えている。
そうして一通りの筋トレが終わった後で、シバはワンルームの部屋を出て、汗を流すためにシャワールームへ。
シャワーを浴び終え、タオルで水気を拭ってから新しいパンツに履き替える。
そのままの姿で部屋に戻り、カラーボックスの中に収められている箱の一つを引き出す。
箱の中には、銀色の包みが何個も入れられている。
シバは幾つかの銀色の包みに書かれている文字を読み比べて、一つの包みを選んだ。
「高エネルギー高たんぱく食のD型にするか」
包みを破り開けると、掌大の長方形の食料バーが一本と小さな透明な包みに入った粉があった。
シバは堅いバーを口に入れつつ、カラーボックスの別の箱からペットボトルの水を取り出す。ペットボトルのふたを開け、粉の包みをその中へと入れ込んだ。ペットボトルを振ると、包みごと粉が水に溶け、やがて乳白色の液体へと変化した。
シバはバーをガリガリと噛み砕きながら、ペットボトルの中身を飲む。バーは無味無臭で味気ないが、飲み物は甘酸っぱくて美味しい。
バーを食べ終え、飲み物を飲み終わり、破いた銀の包みと空のペットボトルをゴミ箱に入れた。
そうして朝食を食べ終えると、シバはクローゼットを開けて、その中にある衣服を身体に着けていく。
上下真っ白なスーツに、インナーは青いシャツ。ネクタイは赤地に斜めの金色が一本だけある。
姿見でざっと格好のチェックを終わらせると、クローゼットの中から新たに一つのものを取り出す。
それはキラキラと光る石が組み込まれたバッグ――通称でビーズバッグとよばれているもの。
いまシバの手の中にあるビーズバッグは、なにかの風景画を模した柄が前後にあるもの。
シバのような青年が持つにしては不似合いな品だが、シバ自身は気にする様子はない。
「さて、学校に行くとしますか」
シバは自分自身に語りかけるような独り言をつぶやくと、白いスーツ――マルヘッド高等専門学校の制服の内ポケットから、作業ゴーグルのようなものを取り出して頭の上に乗せた。
そして、自室のロックを手の静脈照合で外して、外に出た。
学校への道のりを、シバは悠々とした足取りで歩いていく。
シバの目で見える街の風景は、ほぼ白一色だ。
建てられた高層ビルも白一色。地面も道路も白。街行く人の格好は、ビジネススーツやボディースーツにツナギなどと様々だが、白色が多い服ばかり。
どうしてそんな服装ばかりなのかというと――シバは交差点に差し掛かったので、頭に置いていたゴーグルを目元に掛け直した。
すると、目にする街の景色が一変した。
真っ白な建物だったはずのビルは、色とりどりの映像が流れる巨大なモニターになっている。
地面や道路には、様々な道路標識や広告が掲示されている。
人々の格好も、白色ではなく様々な色の衣服になっている。
シバがゴーグルを外せば、再び白一色。また掛ければ、色とりどりの世界へ。
「拡張現実の方が、実際に物を作ったり色の変化を付けたりするより、消費リソースが少なくて済む――といってもなぁ……」
現実世界の白さを目にしてしまうと、色のある拡張現実も味気がなくなる、という感想がシバの胸を占める。
シバは、ゴーグル越しに見える世界の光景にある交差点の信号が青になったのを見届けてから、ゴーグルを頭の上に戻して交差点に進入する。
交差点を過ぎてさらに歩いていくと、シバと同じ制服を着た何人かの男女の集団がいて、何もない場所を指して笑っている。
「これ、ヤバくない! スゲー面白んだけど!」
「うひゃー。よくこんなの作ったね」
「どうよどうよ。今回の課題、満点貰えるっしょ!」
シバの素の目を通すと、そこには何もないように見える。しかしゴーグルを掛け直すと、半裸男性を模した大理石の彫刻――拡張現実上に展開したデータの彫刻だ。
データ上とはいえ、たしかにその彫刻の出来栄えは、学生が作ったにしては目を見張る美しさがあった。
シバが感心の目を向けていると、制服の男女がシバに気付いた。
「よーっす、シバ。お前の作品はどんなのよ?」
「シバは、ウチの学校じゃ珍しく、実物派だもんね。どんなの作ったの?」
親しげに話してくる彼ら彼女らに、シバはクラスメイトだとは思い出せたものの、詳しい名前までは思い出せない。
とはいっても、顔見知りだと分かれば、処世術で微笑みを返すぐらいのことは出来る。
「俺が作ったのは、このビーズバッグだよ」
シバが手に持っていたバックを持ち上げて示すと、男子は興味の薄い顔つきになったが、女子の方が食いついた。
「うっわー、綺麗! データじゃなくて、本物なんでしょ! ちょっと触らせて!」
「なんか色ごとに温度が違う気がする。どうしてだろう?」
「あっ、診断走らせたら、このバッグの素材が出たよ。うっわっ、このバッグに使われているの、プラスチックじゃなくて本物の宝石だって」
「宝石の種類で温度が違うってこと!? あっ、でも、宿題のテーマ的にどうなのかな?」
女子たちの伺う視線に、シバは肩をすくませる。
「今回の宿題のテーマは、無価値や低価値から価値あるものを創造することだろ。俺がビーズバッグに使用した石は、元は粉にして絵具にするしか使い道がないような、小粒やクズの宝石だ。テーマに合致しているだろ?」
「そういうことなら、問題ないか。そっか、無価値から価値を創るって考えると、どうしても拡張現実上のデータを考えがちだけど、実物でも出来るんだ」
感心したと言いたげな言葉を受けて、シバは羞恥隠しにビーズバッグを取り返した。
「こんな場所で立ち止まっていると、遅刻するぞ。締め切りに間に合わないクリエーターは、単なる無能だって、校長も今期最初の朝礼で言ってたし、遅刻の減点は重いかもしれないぞ」
「えっ、もうそんな時間!? うっわ、教えてくれてありがとう、急いで登校しないと!」
シバの前にいる学生の誰もが、あらぬ方向に視線を向けて驚きの声を上げる。恐らくは、自身のみが見ることのできる拡張現実上の時計で時刻を確認したのだろう。
バタバタと駆け出す彼ら彼女らの後ろを、シバは歩いて進む。自分の足なら、歩いても遅刻ギリギリで校舎に入れると理解しているため、急いでいく必要はないからだ。