落ち零れ女の遅咲き青春記
『ガラガラガラ!! ガシャンッ! ガシャンッ!!!』
午後二時過ぎ、実家の自分の部屋で雑誌を読んでいると、外から尋常ではない物音がした。
「ねえ、今の何の音!?」
隣の部屋にいた妹の武弥も部屋から出て来る。
二人で庭に出てみると、父の政孝、母の亮子が呆然と立ち尽くしていた。家族四人が集まり下を見ると、庭のブロックが自壊し、下段に建つ家の敷地内に大量に飛散している。
為す術もないまま立ち尽くしていると、
「フフフフフッ・・・・・・」
こんな状況なのに亮子は笑い出し、やがて伝染したように、私を含め全員が笑い始めた。
この家族、揃って笑顔になるのは本当に珍しいことなのである……。
十年前――
政孝は長年勤めた家電量販チェーン企業を、三月一杯で退社した。しかも、亮子には何の相談もなく。理由は、亮子が言うには、両親が高齢の為、それと東京にいる兄(伯父)が帰郷し易いようにする為、本家の農業を引き継ごうというもの、らしい。
私が生まれた三田居家は、祖父、政康の代で四八代目となる、地元では名家である。
平安時代中期、伝承では九五○年頃とも。から安土桃山時代後期まで、駿河国、現在の静岡県北東部の村、十八ヶ村一帯の広大な地域を支配していた豪族、三田居氏は二六代目の時、近隣の大名によって攻め滅ぼされてしまう。
その時一族のほとんどが命を落としてしまったけれど、助かった当主の子供や家臣たちは駿河国から出るなり地元の村で帰農し、散逸していった。それが、現在の三田居本家だ。
政孝が退社した当時、私は一○○円ショップでアルバイトをしていた。駅近くにあり、客層も幅広く来店者も多い店。クレーマーも数人いて、店員のストレスも多かった。
『お父さん、会社辞めるから』
亮子からそう聞いた日もクタクタで、私は「そう」とだけ答えて聞き流した。
政孝は農業に転職して一年目は、両親がやってきた米、椎茸栽培を踏襲したみたいだけど、翌年からはトマトのハウス栽培を始める。
しかし、その年の十月上旬、静岡県内に上陸した台風によりハウスが全壊してしまう。よって以降の収穫はゼロ。従って収入もゼロ……になってしまう。
私はその事を亮子からの電話で聞いたけど、それとは別に、今回の台風で家のリビングが雨漏りし、階段の壁も変色してしまった事も伝えられた。当時、実家は建ってまだ六年、怪訝に思った。
長年借家住まいだった一家四人の目標は、いつか自分達の家を建てる事だった。
『あのお家はお爺ちゃんとお婆ちゃんが一生懸命お金を貯めて建てたの。うちもいつかあんなお家を建てようね』
私が幼い頃、亮子が自分の実家の前でよく言っていた台詞。念願叶ったのは、私が高校二年の夏だった。
木造二階建て。姉妹にも一部屋ずつ与えてもらい、嬉しくて快適だった。
あの頃は、我が家も順調だったはずなのに――
「築二、三十年の家ならガタがくるだろうけどさ・・・・・・工務店に言った方が良いんじゃない」
『そうしたいけど、今はそれどころじゃないわ』
「そう・・・・・・家族の家が死んで行くね」
『そうね・・・・・・』
私の気持ちとは裏腹に、亮子の返事は上の空。
無理もないと思う。急に夫に会社を辞められ、生活困窮に巻き添えにされたのだから……。夫婦は金の事で喧嘩する日が多くなったという。
以来、私が「食欲がない」と言っても、亮子は『そんなの一時的なものよ!』と言って突っぱね、精神的にも不安定になった。家のローンも残る中、生活費すら借金しなければならなくなった現実。精神的ストレスから血圧が上がり、通院して薬を常用するまでになる。
高校卒業後に上京した私は、キャビンアテンダントを目指して、専門知識などを養成するエアラインスクールへ入学した。卒業すれば短大卒業資格が取得できる学校で、TOEICを受験したりして勉強に励んだけど、私には根本的な問題があった。
在学中、居酒屋でアルバイトして分かった性質。お客の言動に感情を左右され易く、マナーの悪いお客の態度にイラつくと、顔や態度に出てしまう。幸い大きなクレームにはならなかったけれど、自分は接客業に向いていないのだと悟った。
二年後に卒業を迎えても結局CAの道には進まず、行き着いた先が、向いてなかったはずの接客業……一○○円ショップだった。
その事も亮子から、
『大金出して学校通って、何を学んだの?』
と揶揄され、ぐうの音も出なかった。
台風被害に遭って我が家の家計が火の車となった翌年。私は三月一杯で一○○円ショップを退店した。
どこの販売店員でもあるだろう、「売上を上げろ」と言う社員と、クレーマーとの板挟み。一々溜め込み我慢していたものが弾け、私も精神が不安定になった。
退店するきっかけは、自分が担当している文房具を品出していた時。
「自転車に被せるカバーはいつ入ってくんだよ」
背後から中高年男性に半ばキレ気味に訊かれ、
「確認して参りますので少しお待ちください」
担当に訊きに行こうとした。
「いいよもう! 一週間くらい掛かるんだろ? 何日に着くとは言えないって、どういう事なんだよ?」
「運送会社の都合で日にちが前後する可能性があるんです」
大体のお客さんはここで理解してくれる。
「どいつもこいつも同じ事言いやがって! 運送会社に何日の何時に着くか確認しろよ!!」
一週間くらいの事で――
「その日の交通状況にもよりますので、何時とはお答えでき兼ねます」
イラっとしながらも、冷静は保った。
「できねえだあ? あんた名前何っつうんだよ?」
お客が名札を覗き込み、反射的に名札を隠す私。
「三田居さんだな? よーし分かった!」
お客が不敵な笑みを浮かべながら去って行くのと同時に、私は背中がゾクっとした。
笑顔は時に、凶器にもなり得る――
それよりヤッバ!
名指しでクレームが来る。先輩に報告しようと事務室を目指していた途中、
「祝儀袋はないの?」
今度は中高年女性に声を掛けられた。
「済みません。今品切れしております」
丁寧に頭を下げると、
「何なのよ。ここ何にもないのね」
女性は気色ばんだ顔で店を出て行った。
その光景を呆然と見ていると、
「お姉さん、靴下は出てる種類だけ」
さっきとは別の中高年男性に訊かれた。
「っあ! はい、確認して参ります」
「何だ。あんた分かんねえのかよ・・・・・・」
男性はうんざりとした口調で言いながら、どこかへ行ってしまう。
中高年からのトリプルパンチ――
何でそんな言い方しか出来ないの?……
『バーーンッ!!』
私の中で何かがバーストした。
自分が上手く対応できなかっただけ。それを私は、抑えていたものを迸らせるきっかけにした。前々から辞めたいと思いながら仕事を嫌々やってきた、自業自得の結果だ。
亮子は、
『そのくらい撥ね除ける強さがなくてどうするの!?』『お金の事を言ってもらっても困るわよ』などと、落ち込んでいる娘に同情などしてくれなかった。
金と精神は癒着している。人間が「金銭」というものを編み出した時点で加わった、素直な心理。それを改めて痛感させられた。
一○○円ショップを辞めて一ヶ月後、当時頻繁にCMが流されていた人材派遣会社に登録した。
製品に異物が混入していないか、顕微鏡で確認する検品作業を一ヶ月やったり、携帯電話の組立工場に派遣されたりしている内、大手電機メーカーの製造部に派遣されるようになって、やっと職場が落ち着く。
派遣社員となって一年が経った四月中旬の月曜日。私は自動車免許を更新する為、三年ぶりに帰郷した。
当時上京して五年だったけど、まだ住民票は静岡県にあった。東京でも更新はできるけど、亮子の『たまには帰って来なさい』の言葉で、有給を取って渋々帰る事にした。
新宿から小田急線特急に乗り、地元の駅を目指す。片道約三千円で約二時間の旅。車窓から見慣れた風景が顔を出し始めても、ほっとするなんてとんでもない。気持ちは重くなる一方だ。
正午前に駅に着き改札を出ると、政孝と亮子が笑顔で私を迎えた。その光景に、思わず下を向いてしまう。照れ臭い気持ちと、二人のぎすぎすした生活を亮子から聞かされていたから、笑顔に悲惨さを感じた。
両親は普通に振る舞ってはいたけれど、私は到底笑顔にはなれなかった。駐車場で政孝が料金を支払う姿を車内から見ているだけで、虚しさが込み上げてくる。なけなしのお金を使ってるんだろうなあ……という極端な哀れみと、力になってあげられない自分が情けなかったから。
実家へ戻る道すがら、早くも東京に帰りたくなった。
家に着いて唯一気持ちが楽になったのは、中学二年の時から飼っている雑種犬のランと触れ合っている時だけ。
「ラン、久しぶりー」
ランは三年の月日を経ても、私に近寄って足や手を嗅いで認識すると、手を甘噛みするスキンシップを始めた。これ、本当は子供の内に「駄目!」と躾なきゃいけなかったのだけど、誰一人躾なかった。芸も「お座り」と「お手」しか教えていない。
玄関を開けると、久しぶりのせいか自分の家ではないような雰囲気を感じた。
中に入り、リビングの雨漏り跡と階段の壁の変色を確認した。溜息は出なかったけど、心中で「あーー」と声が木霊する。
階段を降りて両親の寝室兼、政孝の書斎に入った。ハンガーラックには着なくなった政高のスーツと、もう締める事はないのだろうネクタイが掛けてあった。
子供の頃、晩酌後にしどけなく寝ていた父親が、朝になると整髪してネクタイを締め、ピシっとした姿で出勤して行く光景を、カッコ良く思っていた時期もあったっけ。
お昼を食べてしばらく経つと、政孝はハウスへ仕事に行った。亮子は仕事が休みで、リビングでテレビを観ていたけれど、私はずっと二階の自室に籠もった。
夕方五時になり、ランを散歩に連れて行く事にした。散歩が大好きな犬で、リードを持っただけでジャンプして喜んでいる。
普段は行かないだろう場所を目指し、橋を渡り山道を進んで行く。やがて民家と田畑が広がる中、とある公園に辿り着いた。
<仲山城跡公園>――
ここは見晴らしが良く、町の中心地や遠くの山々も望める。
仲山城がいつ築城されたのかは分かっていないが、私の先祖が代々本拠としていた城だ。城といっても石垣を使った部類のものではなく、館造りの居館だったと推定される。一番広い削平地一面に芝生が貼られていて、広場の中央にはジャングルジムやブランコなどの遊具が設置されている。ここが本丸跡と推定される場所だ。周辺にも削平地があるのだけど、みな水田と化していて山側にも削平地が広がり、城主の館はこの奥の方にあったと町の資料館の郷土史家に聞いた事がある。一段高い場所に城址碑と解説板、その後ろに祠が建てられていて、私は祠の前へ行き、
「無地に帰って来ました。いつもお守り頂き、ありがとうございます」
とご先祖様に手を合わせた。
城跡を後にし、歩くランの背中を見ながら考えた。私が帰郷した大義名分……ご先祖様に手を合わせる事とランの散歩。それと免許の更新だけ……なのかもしれないと。
その日の夕食は焼肉。大好きなメニューも、気持ちが沈んでいると味わえない。
政孝が晩酌の焼酎を飲み始め、咄嗟的に嫌な予感がした。三、四十分経った頃、
「若は今、どこで仕事してるんだ?」
政孝が口を開いた。
「・・・・・・販売の仕事・・・・・・」
亮子には派遣である事を伝えているけど、何故か政孝には言えず、恐る恐る嘘を付いた。
「販売は人の心を摑まなきゃいけない。親の心も摑めないお前が・・・・・・自分の将来をどう考えてるんだ?」
定職に就いていない私を心配し、語気は強まる。表情は悪鬼の如く、口調は決壊した川の如し……。政孝は年齢を重ねるごとに、酒に酔うと喧嘩上戸になった。素面の時も口数少なく威厳があるけど、酒を飲むと更に高圧的になる。素面の時と一八○度違った事を言ったりもするから厄介だ。
この人、アルコールを飲まないと家族、兄妹にも苦言を呈せないし本音も言えない。それどころか人を精神的に責めるだけ責め続ける。ある意味では「お気の毒な性質」の人……。だけど政孝自身には酒を飲んでいても「自分は間違った事は言っていない」という自負があるらしい。でも、その行為によってこれまで家族や身内にどれだけ迷惑をかけ続け、どれだけ心的外傷を負わせてきたのかは自覚していない。だから別の表現をすればある意味「図太い神経の持ち主」の人……。
「そこにいて結婚ができるのか? オレの跡を継いでくれる青年と出会えるのか?」
「跡を継いでくれる青年」という言葉に、私が意識していなかった、父親が本家を継いだ現実を突き付けられた。
「今のままじゃ無理ね。親の葬式すら出せないし、武弥にお小遣いもあげられないわよ」
亮子が追い討ちを掛ける。親の葬式が出せないという事は、裏を返せば子供に何かあっても同じという訳で……。「親は先に死ぬ」なんて言葉は、人間の勝手な決め付けだから。
「何が食欲がないよ! 食べる物はちゃんと食べてるじゃない!!」
確かに、私は以前「食欲がない」とは口にした。でも――
それ今は関係なくない?
私が子供の頃から、亮子は心配と歯痒さを感じるとヒステリックを起こして、身内の前で「落ち着きがない」「勉強はしない」とディスられて来た。女って頭に血が上ると、妙に頭の回転が早まるから。
よくよく思い返すと、二人共、金銭的に余裕がない今に始まった性癖じゃないんだよね。もうお分かりの通り、私の両親はエモーショナルで乱痴気夫婦――
私が上京した理由、CAは口実で、本心は豹変する両親から逃げたかったから……なのかもしれない。
とはいえ、両親を化けさせているのは、心労を掛け続けている私に問題があるのだから、反論を口に出す事はできない。
「都会に住む人間は何も分かっちゃいないんだ。兄貴は高齢でも農業をやってる人達はいるって・・・・・・東京とこの町の地形を考えろってんだ!」
私の地元は、富士山裾野の豊富な涌き水により、稲作が盛んだ。だけど町のほとんどは山地で、僅かな盆地に中心市街地が形成された、全体の約七十%が森林で占められた町でもある。
「近所の人達からは、八十を超えた老人にはもう酷だって前から言われてた。オレもそう思ったから、家の事をどうするのか、親父もお袋も年齢的に限界だって、兄貴にファックスやメールで散々伝えたんだ。それを耕耘機の購入資金だけ出せば良いと思って・・・・・・」
埒が明かないから会社を辞めた。だけど、実家の問題だけ?
家電量販店で接客をしていた政孝は、元来人付き合いが苦手なタイプだ。私の勝手な推察だけど、接客業よりも、限られた人と接して黙々と作業ができる仕事の方が、自分には向いていると感じたのではないだろうか。そのさ中に出て来た実家の相続問題。政孝にとって、ある種渡りに船だったのかもしれない。
「お前と武弥のためにこの家を守って来たけどな、オレはもうこの家なんかどうだって良いんだ」
ショックな言葉……。本音だろうけど、政孝はこの家を売ろうとはしていない。
家を建てるのが家族の目標だったじゃない! 居た堪れなくなり、私は席を外して二階に駆け上がった。
翌日、仕事を休んでくれた亮子と一緒に、隣の市にある免許センターへ向かった。講習まで時間があるので、途中近くのファミレスに寄ってお昼を食べる事にした。
私が携帯のメールをチェックしながらタバコを吸っていると、
「お母さんの事は良いけど、お父さんの事は許してあげて」
亮子は徐に言った。
「・・・・・・」
「お父さん、仕事や兄妹の事で鬱憤が溜まってるから」
「・・・・・・見れば分かるよ。そんな事」
すげない返事をしてしまう。
「家族だから・・・・・・」
「っは?」
今度は食って掛かる声を出してしまった。
「家族だからっていう甘えもあるの。他人には言えない事も、家族だからこそぶつけられる。分かってあげて」
「・・・・・・」
理屈は分かるけど、今の私には政孝の鬱憤を受け止める余裕はない。そう思う私でさえ、亮子にふてぶてしい態度を取っている。これ、甘え以外に何という?
食事を終え、センターへ戻って約三十分間の講習を受けた。私は地元以外では運転しないし、違反もしていないからゴールド免許だ。
午後四時過ぎに帰宅すると、休む間もなく、新宿のデパートで買ったお土産のお菓子を持って、亮子の車で市街地にある亮子の実家へ向かった。玄関前に立ち、確認する必要はないけど表札を見る。
根本勤。この勤も、なかなかの曲者なのである……。
インターホンを押すと、祖母のシメ子が迎えてくれた。
「お父さん、若よ」
笑みを浮かべたシメ子に茶の間へと案内されると、勤は定位置に座り、町の広報誌を読んでいた。
「おう。お前何の用で戻って来たんだ?」
「免許の更新の為」
この家は亮子の実家ではあるけど、この家に亮子が住んだ事は一度もない。十八年前の三月、近所からの出火によって根本家は全焼してしまう。
亮子が、『お爺ちゃんとお婆ちゃんが一生懸命お金を貯めて建てたの』と言っていた家だ。
当時幼稚園の年中だった私が朝起きて茶の間に入ると、普段は我が家にいないはずの勤とシメ子がいた。
「もう爺ちゃんの家は燃えてしまった」
満面の笑みで言われたけど、寝ぼけ眼で意味が分からなかった。でも、未だに強く印象に残っている笑顔……。家財道具を何一つ運び出す事ができず、財産のほぼ全てが灰になった深刻な事態。だけど、幼稚園児の孫に深刻な顔を見せても仕方がない。無理に取り繕ってくれた笑みだったのだろう。
よく遊びに行って、私にとっても思い出深い家だったから凄く残念だったけど、勤が凄いのは、三年後に周りの力を借りつつ家を新築し、再起した事だ。
私にとって、この人は偉大過ぎる。
「仕事は何をやってるんだ」
帰ると、両親以外にも絶対に訊かれる事。
「派遣で働いてる・・・・・・」
勤には嘘は付けなかった。
「派遣・・・・・・それはお前が望んだのか?」
「・・・・・・はい」
「手に職を付ける気はないのか?」
勤はじれったそうな顔をした。
獣医師をしていた勤は、教育・職業に関しては熱心で、子供の頃から口酸っぱい。私にとっては親が三人いる感じだ。
「良いじゃないの。ちゃんと働いてるんだから」
シメ子がフォローしてくれた。
小言を聞き流すと、今度は、毎日片道二時間掛けて学校に通っていた頃のお話。
そして、第二次世界大戦中、既に獣医を志していた勤は自ら志願して陸軍に従軍し、満州国(かつて中国北東部に存在していた日本の傀儡国家)で軍馬の衛生、治療に当たっていた頃のお話。そしてそして、帰国後は日本大学の獣医学科へ通い、そのさ中、東京大空襲に遭った時のお話と続いて行く。
これ、いつもの三点セット。一人で二、三時間は喋り続ける。勤の家に来る度、私の頭の中では『朝まで生テレビ!』のテーマ曲が流れる。テーマは決まって「どうした!? こうした! 根本勤」でお送りされる……。
「お前に知恵を付けてやろうと思ってな」
とは言ってるけど、述懐、自分が遮二無二やっていた時の事を話して聞かせるのが好きなんだ、この人。御年八四歳。「男子多くを語らず」の真っ只中の世代だけど、例外も、いる。
帰り際、やっとシメ子と二人になれた。
「お爺ちゃん相変わらず元気だね」
「本当。若だけよ、熱心に話を聞いてくれる孫は」
シメ子は「ああそうだ」と言って、エプロンのポケットから茶封筒を出し、
「これぐらいしかして上げられないから」
私に渡した。
「いいよ、お小遣いなんか」
「お婆ちゃんの気持ちなんだから。またいつでも帰って来なさい。お爺ちゃんもああ見えて孫の顔を見るの嬉しいのよ」
車に乗り、シメ子に見送られて発進させた。
信号待ちの時、『手に職を付ける気はないのか?』勤の言葉と表情を思い返した。六十歳上の爺様から心配される孫って、何? 何とも形容しがたい、複雑な心境だ。
次の日の午後。再び亮子の車を借り三田居本家へ向かった。途中墓地に立ち寄り、改めて日頃の無事を感謝し手を合わせる。
「こんにちは」と挨拶しながら玄関を開けると、祖父の政康と祖母の益子、曾祖父の兼一が「よく戻って来た」と笑顔で迎えてくれた。
政孝はダイニングキッチン横の部屋でソファに座り、テレビを観ながら食後のコーヒーを飲んでいた。少し経って仕事を再開する為に家から出て行ったけど、目も合わせなかったし声も掛けなかった。
四人でゆっくりとお茶を飲む。
「曾お爺ちゃんは今年も神楽やるの?」
「ああ。それが楽しみだからな」
そう言ってにっこりした兼一は、御年一○一歳。足腰は確りしていて、神楽を舞うのが好きな人。奉納が行なわれる毎年十月を楽しみにしている。
「仕事はどんな事やってるの」
益子に訊かれた。益子も勤程は口酸っぱくないけれど、仕事の事を心配してくれている。
「雑貨とか、商品販売の仕事してる」
父親に続き、その母親にも嘘を付いてしまった……。
「良いよ。何でもしていれば」
益子は微笑んで頷いた。政康も同様だ。嘘を付いたのは自分のくせに、二人の姿を見ていて悔恨の念に駆られ、胸が締め付けられた。
他に政孝の仕事の具合や、武弥の事を話している内に、一時間近くが経っていた。
「じゃあ、私そろそろ」
「お父さんのハウスは見て行かないの?」
席を立った私に、益子が言った。少し考えたけど、
「いい。また今度にする」
今は見る気にならなかった。
帰り際、シメ子と同様に、兼一と政康から小遣いの入った茶封筒を差し出された。小遣いといえば、なぜかうちは茶封筒なのだ。
「いいんだよそんな。お父さんに怒られちゃう」
「遠慮する奴があるか」
兼一はにこにこし、私が受け取るまで手を引っ込めない様子だ。
「他にくれる人はいないだろ?」
政康も「ほら」と封筒を更に前に出して来た。
「お父さんの父親からもらうんだから、気にしちゃ駄目」
と益子。
そこまで言われたら拒絶する訳にもいかず、ありがたく頂戴し、本家を後にした。
翌日の午前十時二十分。東京へ帰る日、政孝と亮子は午前中の仕事を休み、私と一緒に駅にいた。
「今を頑張れよ。若」
政孝はにっこりしていた。
「そして向上心を持て! お父さんも向上心を持って農業をやっている。会社の同僚が定年後に年金だけになった時には、農業収入だけで食べて行けるようになっている事が、お父さんの目標だ」
政孝の目をじっと見て、「はい」と頷いた。
両親は笑顔で見送り、私ははにかんで笑い、手を振って別れた。
十時四十分の電車に乗り、正午過ぎに新宿に着いた。その瞬間、地元では感じなかった解放感に包まれる。やっぱり私には、東京の方が合っているんだ。そう実感していたのに……。
東京へ戻って約二ヶ月後の、六月上旬の木曜日。職場で午後三時からの休憩中、派遣会社の担当の人に呼ばれた。なーんか嫌な予感がする。
「実はですね、ここの職場、今月一杯で終わる事になりました」
淡々と早口で言われた。
こんな中途半端な時期に?
やっと職場が落ち着いたかと思えば、こんな結果……すんなり「はい分かりました」と言える心境ではない。
担当の人の話によると、折からの不況で会社自体も資金難に陥り、約六十人いる製造部の派遣社員の内、四十人が解雇されるのだという。
「ですから残った有給、全部使っちゃってください。それとこの書類、今週末までに書いて渡してください」
呆気に取られ、ほとんど頷く事しかできないまま、担当の人は席を立ち他の人に解雇を告げに行く。
なーんて事務的なんだろう。一々感情移入していたら仕事ができない点もあるだろうけど、人は組織に入ると人格がなくなったりする。人間の恐ろしい一面だ。
また振り出しか……新たに職を探さなければいけなくなり、その日、うちに帰る前に本屋に立ち寄って求人雑誌を買った。
夕食や入浴を終え、ゆっくりしながら雑誌を捲っていると、聞いた事のない芸能事務所の事務職の求人が載っていた。グラビアアイドルをマネジメントしているらしい。場所は六本木。勤務時間は午前十時から午後七時までで週休二日制。時給は千二百円。
事務的で嫌な思いをしたばかり。まして事務はやった事がない。けど、何か気に留まったからページに折り目を付けて、その日は就寝した。
二日後の午後、私は六本木にいた。電話で聞いた道順通りに進み、駅から歩いて十分、目的地に到着した。ビルの五階にある<株式会社 ミスコーポレーション>。中に入ると、オフィス内は書類やDVDなどで乱雑としている。
私と同い年くらいの女性に応接室に案内され、数分後、社長と思われる男性が現れて名詞を渡された。
社長、村田聡志。
村田社長は履歴書に目を通し、
「性格は繊細な方ですか」
と訊いた。
「図太くてマイペースだと思います」
但し、打たれ弱いですが……。
「時間は守る方ですか?」
「きちんと守ります」
「人間関係はどうですか?」
「特別トラブルメーカーではありません」
「パソコンの技術はどうでしょう?」
「基本的な操作はできますけど、もっと使いこなせるようになりたいです」
「残業には対応できますか?」
「はい。二時間くらいでしたら・・・・・・」
「ご家族は?」
「静岡県に両親がいて、岐阜県に妹がいます」
「最後に何かご質問は?」
「家族のくだりは、何か意味があるんですか?」
「雇いますからには、ちゃんと親御さんと連絡を取っている人。家族の現状を把握している人が良いと考えているからです。とても正直な疑問だと思いますよ」
本当に素朴な疑問なだけだったけど、褒められたので、一応お礼を申し上げた。
こんな感じで応答を繰り返して、村田社長は一つ一つメモに取り、約十五分で面接は終了した。
翌土曜日の夜に、村田社長から合格の電話が入った。事務経験もないし、正直不利と思っていたけれど、自然体が良かったのだろうか。
月曜日から、私はアルバイト事務員として働く事になった。運良く、食いっぱぐれにならなくて済んだ訳だ。
派遣の職場は有給を使い、派遣会社には、頼まれた書類はロッカーに入れておいたので、勝手に取ってくれと報告した。それと、残った日にちは、新しく仕事が決まったのでもう行かないとも、淡々と早口で申し上げた。
「・・・・・・そうですか」
スタッフは渋々了承してくれた。
事務をやってみて分かった事。まあマネージャー達が書類の期日を守らない。月末までに請求書を郵送したくても、添付する書類が揃っていない。なーんて事は毎月。時間も不規則で出張も多いから仕方ないのかもしれないけど。
それと、電話や来客応対はメディア関係者から一般人まで幅広い。一般人からは、オーディションやイベントの問い合わせがほとんど。
でも、これも働き出して分かった事だけど、うちはAV女優もマネジメントする事務所だから、セクハラめいた電話……だけならともかく、直接やって来る輩もいる。そんな奴らを上手くかわす、五年先輩の榎本知花は唯々凄いと思う。
榎本はそれだけじゃなくて、相手が年上だろうと、書類の期日を守らないマネージャーなどには、チクリと嫌味を言って応戦する。榎本曰く、多少ふてぶてしさを持っていた方が長続きするのだとか。
<ミスコーポレーション>に入って二ヶ月が経った八月末。夏休みを一週間もらい、土曜から三日間、東京南西部の市に住む伯父、政長の家に泊めてもらう事になった。
子供の頃、お盆に帰省する政長一家を見る度、都会的センス溢れる雰囲気に、羨望と嫉妬を抱いていた。政長一家と比べ、我が家は野暮ったく見えていたから。
プラス、両親が地元にいるうちに対し、遠方から迎えられている光景も、羨望と嫉妬に拍車を掛けた。私が上京した理由の一つは、政長一家の存在にある。
豹変する両親から逃げる為。都会に住む親戚一家に憧れたから。私の精神はどこまで子供なんだか……。
政長には三人の子供がいて、長男、睦仁は神奈川県。次男の武政は埼玉県に仕事の関係で移っている。長女の良子は都内北西部の市に移っていて、休みが合えばたまにお茶したり、二人で買い物に行く事もある。
政長の家に行くのは、武政が結婚した時以来一年ぶり。私が学生の頃は、よく外食を共にしたりする事があったけど、政孝が退社してからは、何となく距離ができていた。
私が政長宅に着くと、妻の明子はご馳走を作って歓迎してくれ、良子も私が来ると知って実家へ寄ってくれた。
一夜明けて、政長宅から山梨県の甲府市に向かい、武田神社と甲斐善光寺に参拝した。別に神社仏閣を巡る趣味はないけど、こういう時じゃないと行く事はないから。
善光寺本堂内にある御戒壇めぐり。真っ暗な通路を進むと、御本尊様とつながっているという錠前があり、触れると幸運に恵まれるといわれている。確り触らせて頂きました。
夜、武政夫妻と一歳の長女、そして良子も加わり、私の希望で焼肉屋へ行った。睦仁は明子の携帯へメールを入れ、「若に宜しく」との事。
食事が終わり、武政一家と良子は各々の自宅に帰った。私は政長宅にもう一泊させてもらう事になっている。
伯父夫妻と一緒にゆっくりと晩酌をした。一歩引いて夫妻を見ていると、互いにワインを注ぎ合ったり、会話を聞いていても仲睦まじさが伝わって来る。私がいるからかもしれないけど……。でもぎすぎすした私の両親とはえらい違い。
「政孝のハウスはどうだった」
政長に訊かれた。
「見てない」
「オレ達が会社を辞めると聞いたのも突然なんだよ。亮ちゃん(亮子)はオレ達が賛成したって思ったみたいだけど、全部あいつが専決してしまったんだ」
「でも、現状を伝えるファックスとかメールは送られて来てたんでしょう?」
「ファックスやメールじゃ、所詮気持ちを伝えるには限界がある。今更遅いが・・・・・・直接言葉を交わすべきだった」
念を押すような、しみじみとした口振りだった。酒を飲んだ時には「口撃」が激化するくせに、素面の時には口数少ない、政孝の要領の悪さが原因か……。
政孝は次男で、他に弟が二人と妹が一人いる。地元に残ったのは政孝だけで、皆関東や愛知県に移っている。見る見る年老いて行く両親をずっと目の当たりにし、実家の近所の人達からは、「もう気の毒だ」と追い討ちを掛けられる。誰にも相談できず、最後の伝として兄に助けを求めたのかもしれない。でも、兄からは満足な答えが得られなかった。それが逆に、政孝にとって渡りに船となったのだろうか?……。
「確かに・・・・・・オレ達は目の当たりにしてないから分からない事もある。それはその通りだし申し訳ないとは思うが、オレは、地元に帰って農業をやるつもりはなかったんだ・・・・・・政孝が仕事を辞めて、親父が怒ってな。「オレは加勢しない」って、口も利かない状態だったんだ。何とか仲を取り持ったんだが・・・・・・」
「そんな事があったんだ・・・・・・」
政長の「農業をやるつもりはなかった」との言葉を聞いて、
『会社の同僚が定年後に年金だけになった時には、農業収入だけで食べて行けるようになっている事が、お父さんの目標だ』
以前に聞いた政孝の言葉が頭を過る。
私の中で、何かが沸々と沸き上がっていた。
私は政長もその家族も、子供の頃から大好きだし、今もこうやってお世話になっている。
身寄りのない東京に一人で出て来て、一家を構えた政長を、私はリスペクトしている。でも……なーんだバカヤロー! この前DVDで観た昔の芸人、荒井注って人のギャグだけど、そう言ってやりたかった。
私も離れた土地で暮らしているから、政長を責める権利はない。だけど、疎ましく思っても、政孝は私のたった一人の父親。同情の気持ちはある。
会社を辞めるのを専決した? そこまでお父さんを追い詰めたのは誰よ!?
農業をやるつもりはなかった? お父さんの想いを踏みにじる気!?
何でうちが……何で地元にいるってだけで、お父さんが全部被らなきゃいけなかったの!?
感情的に言えば、私の気持ちはこうなる。私は喉元まで出て来た言葉を、ワインで押し込めた。
夏休みが終わって一ヶ月が経った、九月下旬の火曜日の夕方。事務所のベランダで一人タバコを吸っていると、同じ事務職で、私よりも二週間先に入った神谷汐弥が出て来た。「お疲れー」と挨拶を交わす。
神谷と私は同い年だと人伝に聞いたけど、当たり障りのない会話しかした事がない。一見するとクールそうな男。でも合コン好きで、毎回遊ぶ女が違うという情報はバンバン入って来る。頭髪も左半分、前頭部から前髪まで金に染めている。事務所に入ってからだ。「入ってしまえばこっちのもん」ってやつか?
初めは私から離れてタバコを吸っていた神谷が、徐に近付いて来た。
「三田居さんって、今付き合ってる人いるの?」
社内の女にも手を出す気?
「べーつに・・・・・・」
軽く答えてやりながら、今までの恋愛を振り返ってみた。自然とフェードアウトしたり、訳も分からないままフラれたり……ろくな終わり方をした事がない。
「じゃあさ、オレと付き合わない?」
「じゃあさ」って……何も知らないとでも思ったか? それに何だ、そのついでに、みたいな言葉は。「うん。付き合おう!」って、おちょくってやろうかとも思ったけど、
「急に言われても・・・・・・少し考えさせて」
と答えて中に入った。
それから一週間が経った月曜日。またベランダの喫煙所で神谷から返事を訊かれた。
「神谷君って女には不自由しないんじゃない?」
それとなく悪評を指摘した。事実、彼は私にこだわる必要性はゼロ、のはず。
「実は、前から三田居さんの事が気になってたんだ」
男は焦らすと食い付いて来る。粘れば落とせる、みたく軽く思ったか? だとしたら、神谷の遊びに付き合って、私も遊んでみようか。
でもその時、『オレの跡を継いでくれる青年と出会えるのか?』政孝の言葉が頭を過った。
罷り間違って神谷を家族の事情に巻き込んだら……神谷の場合、そんな心配はいらないかもしれないけど、やっぱり躊躇した。
「じゃあさ、セフレとして付き合わない?」
「え!? セフレ?」
意想外だったらしく、裏声になって戸惑った表情をした。今まで一夜を共にする事はあったと思うけど、セックスフレンドは初めてらしい。
「・・・・・・オレは別に良いけど・・・・・・」
「そう。じゃあ決まりね!」
彼の困惑した顔を心地良く思いながら中に入ろうとすると、
「っあ、ちょっと待って。三田居さんの下の名前、若だよね?」
「そうだけど?」
「オレ汐弥。シオって呼んで。それと連絡先も交換しとかないと」
シオは物の数秒でいつものノリを復活させた。
「はいはい・・・・・・」
強かで転換が早いのが、遊び人の人となり。ってか。
そして木曜日の夜九時過ぎ。二人の休みが合う金曜日に合わせて、シオと恵比寿で待ち合わせた。居酒屋で食事とアルコールを体内に入れながら、セフレとして付き合って行く上での決め事を話し合う。
一、恋愛関係になるのは御法度
二、お互いの生活に深入りはしない
三、SEX以外の待ち合わせ、デートはしない
四、支払いは全て割り勘にする
五、言うまでもないが、避妊は絶対
全部割り勘にしたいのは、借りを作らず、お互いフェアでいる為だ。
十時過ぎに居酒屋を出て、「必要な物」を買うためにディスカウントストアに入った。具体的には……まあ、誰でも知っている物だ。
Tバックが見たいと言うシオの希望で、ブラとセットでカゴに入れた。品物を見ていると、抵抗より高揚の方が大きい。私は絶倫なのかもしれない。
「取り敢えずここはオレが出すよ。後で割れば良いし」
シオはレジに向かった。さすがは慣れているらしく、平然と会計を済ませている。
学生時代以来となるラブホテルに入り、部屋の見物もそこそこに、浴室に入って下着だけを着替えた。服を着て部屋へ戻ると、ベッドに座っていたシオは立ち上がり、自然に二人は抱き合った。
「舌出して」
シオが舌を出す。
「もっと。べーって」
シオの舌が長くなり、初めてのキスでねっとりと舌を合わせた。
互いに愛撫しながら服を脱がし合う。あっという間にパンツとTバック一枚ずつになった。ベッドに四つん這いにさせられ、シオは優しくお尻を鷲摑みにする。相当なお尻フェチなのだろう。だからコスプレじゃなくてTバックって訳だ。
シオがお尻や背中を舐め始めた。
「ちょっとその前にシャワー。汗かいてるよ」
「良いよ、少しくらい」
履いて四十分足らずでTバックは脱がされた。その後は、ディスカウントストアで購入した「大人の玩具」で二人で遊んだ。
シャワーを浴び、欲望だけのSEXが終わった後、二人でタバコを吸う。
「立ち入った事訊いても良い?」
「何でしょう」
「ワカの将来の目標って何?」
「目標・・・・・・」
そういえば、専門学校を卒業してからの私の目標って、具体的に考えた事がない。
「シオはあるの?」
話の中心を彼に持って行く事にした。
「オレ小説書いてんだ。今二作目。専門卒業して放送作家の事務所に入ったんだけど、合わなくてさ。そこ辞めて携帯に付けるストラップを作る工場で働いてた時、急に小説書いてみたいって思ったんだ」
「前に書いた事あるの?」
「いいや。専門の卒業制作でシナリオはあるけど、小説は初めてだった。その卒業制作で書いたシナリオを小説化して、文学賞に応募したんだけどさ」
「駄目だった?」
シオは無言で頷いた。
「でも二作目って事は、諦めてないんでしょ?」
「本を出す事が、今のオレの目標」
シオの顔は引き締まっていた。
私の目標……。親孝行がしたいと思う訳でもない。只、東京の居場所を守っている……だけ。
私って、瓦全……。
十一月上旬の木曜日。夕方、亮子からメールが入った。
『勤お爺ちゃんがこの前うちに来て、若は未だに東京に擦れてない、純朴だって心配してたわ。孫の中で若の事が一番気になるみたい』
勤は獣医師を養成する専門学校で講師をしていた事もあり、人を査定するところがある。
あームカつく! 私の率直な感想。純朴って、只の世間知らずのバカじゃん! としか、今の私には思えない。
私は、政康みたいな普通のお爺ちゃんを求めているけど、勤はまるで違う人種。
胸糞悪かったから返信はしなかった。
十二月二四日と二五日。世間はクリスマスで冬休みに入ったけど、私とシオは三十日まで仕事だった。
三十日はシオの誕生日だったけど、彼は合コン。私は部屋の大掃除をして過ごした。
「このまま一人で年越しだろうなあ」と思っていた大晦日の夕方、何気にシオに電話を掛けてみた。
「合コンで疲れてんじゃない?」
『朝までクラブにいたけど、昼間寝たから大丈夫』
「そう。でさあ、今日は合コン、ある?」
『ないけど何?』
「うちに来ない?」
『え!? っていうか、正月帰らないの?』
「良いのよ。やる事ないし」
『そっか。ワカが良いって言うんなら、お言葉に甘えて』
シオは世田谷の自宅から約二十分で、私の自宅アパートの最寄駅に着いた。近くのスーパーですき焼きの材料と蕎麦、チューハイなどのアルコールを買い、杉並のアパートへ帰る。
私がすき焼きの用意をしている間、シオは民放のバラエティ番組を観ている。大晦日は歴史ある音楽番組……って世代でもないか。
すき焼きを食べ終えた後、割り下を利用して年越し蕎麦を作り、二人で啜った。
「やる事ない」といいながらも、大晦日にすき焼きを食べ、割り下で年越し蕎麦……これ、地元にいる頃の我が家の風習。疎んじていても、頭には習慣が残ってんじゃん! 自分にツッコミを入れる。
やがて午前零時を迎え、新年の挨拶を交わした。民放で朝までやっている音楽ライブ番組もそこそこに、二人で風呂に入り、ベッドに横たわった。
すき焼きと蕎麦でお腹が膨れて苦しかったけど、SEXをして眠りに就く。
午前十一時過ぎに目が覚め、一服して目覚めのSEXをする。正月から、こんな感じ……。
服を着て簡単なお昼を済ませ、正月特番を観ていた時、携帯が着信音を鳴らした。亮子からの電話。
「ちょっとごめん」
と言ってユニットバスに入った。
「新年おめでとうございます」
『おめでとう・・・・・・』
何となく声が深刻そうだ。
『唐突だけど、武弥が病気かもしれないの・・・・・・』
亮子は涙声になった。でも、急に泣き出すのは私が子供の頃からで、もう慣れっこだ。
二つ下で、岐阜県内の大学に通う妹の武弥は、勤と同じく獣医師を目指し六年制の学科へ進んだ。
「武弥は帰ってるの?」
『替わろうか?』
「そうして」
泣いている亮子では話にならない。
『もしもし? おめでとう』
「おめでとう。あんた声は元気そうだけど、大丈夫なの?」
『何か、肺に水が溜まっちゃったみたいなの』
肺胞に水が溜まる。病名は肺水腫。
「症状はどうなの?」
『ちょっと息苦しいなってのはあるけど、お母さんオーバーなんだよね。入院して手術すれば大丈夫ですって言われてるのにさっ』
「入院するんだ?」
『私は軽いから三月になると思う』
「そう。声聞いて安心した。あんまり無理しないで」
私が部屋へ戻っても、シオは私生活には深入りしない決まりを守り、何も訊いて来なかった。
午後四時を回り、明治神宮に初詣に行く事にした。五時過ぎに着いたけど、予想通り境内は人でごった返している。
「去年一年間、無事に送る事ができ、ありがとうございました。今年も、至らぬ私と家族を見守っていてください」。
隣のシオを見ると、結構長く手を合わせている。多分、本の事をお願いしてるんだろうなあ。
ここでシオとはお別れ。各々の自宅に帰った。
一月、二月とやっと仕事にも慣れ、結構重要な仕事も任されるようになって来た。そのさ中、ひな祭りの三月三日の土曜日。昼休み明け、いつも通り仕事をしていた私に、
「三田居さん、グラドルに興味ない?」
村田が声を掛けて来た。
「何ですかいきなり?」
「今年に入ってなかなかオーディションに合格させる娘いなくてさ。三田居さんルックス良いし、スタイルも悪くなさそうだから、やってみる気ない?」
激震が走った。そりゃそうだろう。だって事務スタッフとして事務所に入ったんだから。
「・・・・・・急にそんな事言われても」
「良いじゃない。そんなチャンス滅多にないんだしさ」
榎本が茶々を入れた。他人事だからって。
「・・・・・・二、三日考えさせてください」
村田は「分かった」と言って出て行った。
直ぐにベランダに出てタバコを吸った。心臓がバウンドし、とても仕事ができる精神状態じゃない。私がグラドル? しかも四月で二五歳になる今から?? もしかしてこれが善光寺の錠前のご利益????
舞い上がっていた。別に嬉しさからじゃない。予想だにしなかった事を打診され、自分がどこに流れようとしているのか、皆目見当も付かない事にだった。
翌日、ほとんど寝ていない状態で出勤し、昼休み、シオを外に呼び出した。私生活には深入りしない約束だけど、友達として相談したかった。
とはいえ、人が誰かに相談したいと思う時、本人の中では迷いながらも気持ちが決まっていたりする。一人では踏み出せないから、背中を押してほしいだけなのだ。
「昨日、デビューしないかって言われたの」
シオは「そっか」と言って、欄干に右手を付いて景色に目をやった。
「どう思う?」
「無責任みたく聞こえるかもしれないけど、オレは良いと思うよ。駄目だったらまた事務に戻れば良いんだし。逆にそのくらいの気持ちの方が楽しめるかもしれない」
「楽しむ・・・・・・」
「オレは余裕を持った考え方できないけど、ワカだったらできんじゃね?」
確かに、私は神経も図太く、マイペースに「何とかなるさ!」と思ってやって来た。一○○円ショップは別だけど。だけどもだ。今回はそれを応用して良いものやら……。
帰宅後、部屋で寛ぎながらシオの言葉を思い返したり、自分にとってのプラスとマイナスをあれこれ考えた。そうしている内……やってみようか。結論。仕事も恋愛も挫折ばかりして来た私が、どこまで達成できるのか、試してみたくなった。打診された日の内にうっすら涌いていた気持ちを、シオの言葉が後押ししてくれた。
その日、私はその気持ちを無駄にしない為にも、余計な考えが出て来ない内に就寝した。
翌朝、目が覚めても前向きな気持ちに変化はなかった。決意が揺らがない内に、出勤して早々、
「この前の話、やらせてください」
村田に告げた。村田は「そうか!」と言って破顔し、榎本もにっこりして私を見ている。シオと目が合うと、微笑を浮かべて頷いた。
二五歳という微妙な年齢での芸能界入り。不安は大いにある。けど、決意表明をして吹っ切れたのだろう、心には爽快感が大きく広がっていた。
デビューが決まった私には、早速、私より四つ上の松下美香マネージャーが就き、芸名は西田咲良に決まった。村田曰く、西田は静岡の田舎出身なので、「西」から来た「田」舎者。という意味なのだとか……。「バカにしてんのか!」ともツッコみたかったけど、まあ良いか。咲良は、完全な村田の好みだ。
ギャラをもらえる仕事を得るまでのプロセスとしてまず始まったのが、午後三時頃には事務の仕事を切り上げ、松下マネージャーと共に各出版社へ挨拶回りをする生活だ。
事務所スタッフが撮った洋服と水着姿の写真を載せた、間に合わせのような宣材資料を持参して、知っている有名雑誌から、聞いた事もない雑誌の編集部にお邪魔し、編集長に愛想良く頭を下げて回る。
売れていないグラビアアイドルは、本業の仕事がほとんどない時、キャバクラなどでアルバイトをしている。けど私は、今まで通り事務職を続けさせてもらう事にした。接客業が苦手だし、ましてキャバはキャスト同士の妬みやいざこざが面倒だと思ったから。
四月中旬の金曜日。ファミレスで夕食を済ませ、私はシオと一緒に渋谷・道玄坂にあるインターネットカジノ<プラフット>にいた。
一見マンガ喫茶のような店内には、十七、八台のパソコンが設置されていて、ポーカーやブラックジャック、アメリカンルーレットなどのゲームを自由に選択できる。
私はこれまで、ギャンブルとは無縁に生きて来た。地元にはパチンコくらいはあるけど、近寄りもしなかったし周りにやる人もいなかった。
そんな私が、今年に入ってシオにネットカジノを紹介され、少し嵌ってしまう。
私とシオは一万円からスタートさせ、私はポーカーを選んだ。プレイ中に携帯がバイブしたけど、気が散るので合間を見て電源を落とした。
約二時間で私は五万円を稼いだけど、シオは約八千円とマイナスに終わった。
念の為、私がいうのも変だけど、日本では賭博行為は法律により禁止されています。いずれ日本でも解禁されるかもしれないけど。
シオとホテルに入り、携帯に電源を入れて着信を確認すると、亮子からだった。今度は何? 元旦での事もあり、大いに戸惑いがあったけど、折り返してみた。
『急な用事じゃないんだけど・・・・・・武弥の手術、病気の方は上手く行ったみたいなんだけど、それで声帯痛めちゃったみたでね。声が出にくくなってるの』
「それって医療ミスじゃない。病院からの賠償はないの?」
『ない。そういうリスクもありますよって手術だったんじゃない? でも本人は裁判起こすって騒いじゃってね』
「声は元に戻らないの?」
『お腹の脂肪を声帯に移植すれば、少しは回復するらしいけど・・・・・・お母さんも誰に訴えれば良いのか分からないわ』
亮子は溜息を吐いた。頭を抱えている姿が目に浮かぶ。誰に訴えれば良いのか分からない時には、いつも若……。
武弥の事は勿論心配だけど、今の私は何も力になってあげられない。これで、余計デビューの事を親に告白できなくなった。姉妹揃って両親に心労を掛ける事は、何とも忍びないから。
私は、誰に訴えれば良いのやら……。これから先への淡い期待、不安と、今回家族に起きた災難……。それらの気持ちを振り払うかのように、今日の私はフェラに始まり騎乗位と、終始リードするSEXを続けた。
挨拶回りを始めて三ヶ月。あちこちに愛想良く頭を下げた甲斐あって、八月に中堅出版社から写真集とイメージDVDが発売される事が決まった。
それに向け、撮影が始まる一ヶ月前から、事務の仕事をしながら毎日ジムに通い、エステにも行って身体を絞った。
内容は、水着や下着の他に、セミヌードが含まれる。話が決まって一週間後に、
「胸やヘアーは出さなくても、お尻くらいは出す覚悟はしといて」
村田から言われていた。
AV女優もマネジメントする事務所だから、大体は予想できていた。勿論抵抗はあるけど、自分から「やらせてください」と言った事に加え、新人だから拒否はできない。
両親には、やっぱり何も告げられなかった。芸能界も然る事ながら、セミヌードと聞けば、すんなり賛成、応援はしてくれないだろう。
とはいえ、商品は全国の書店やネットでも販売されるから、バレるのは時間の問題かもしれない。
七月上旬の日曜日、いよいよ撮影が始まった。ホテルの一室やスタジオ内で、朝から夜に掛けて行なわれる。
「下着の跡は付けないで」と村田に忠告されたので、前日からロングのワンピースにノーパン、胸はニップレスで過ごした。
本番前日の夜、既に動悸は早く、気が立って眠れない。結局、七時間ベッドに横になって十分くらいうとうとしただけで、起きる時間を迎えた。後数時間で本番。でも今となっては緊張感はほとんど感じず、寝付けなかった事が却って良い効果となって、夢見心地のまま撮影現場へ向かう。
が、現場に近付くと昨夜の夜に逆戻り。胸は後ろから締め付けられるような圧迫感。口内は瞬時に渇きべたつく。
「かなり緊張してるね。もっとリラックスしなよ」
女性メイクさんが破顔して声を掛ける。「はい」とは返したけど、セミとはいえヌードがカメラに収められるのだから、緊張するなっていう方が無理なんじゃないか? でも時間は待ってはくれない。
メイクさんにナチュラル目にメイクを施してもらい、スタイリストさんが医
療用のベージュのテープを、私のアンダーバストにテーピングして行く。これはバストアップの技巧で、テーピングされた上からブラを着けると、窮屈な感じはあるけど、普段よりも数倍深い谷間ができた。
「西田咲良入りまーす!」
松下マネージャーが声高に告げると、
「はい、宜しく!」
男性監督が同じトーンで返した。
カメラマンや監督に指示されるがまま、スーツ姿などから脱いで行き、同じようなポーズや仕草を繰り返す。
スタッフの人達は慣れているだろうけど、人前でブラとTバックだけの姿は、やっぱり恥ずかしかったんだけど……。
「じゃあTバック、ちょっとずつ下ろしてみようか?」
監督が言った。手が竦み、ガタガタ震えるのかと思いきや、さっきまでの恥ずかしさが嘘のように、自然と下ろす事ができる。やっている内に気持ちが吹っ切れたのだろう、「撮るんなら綺麗に撮ってよね!」と勝ち気な想いが涌いて来た。表情も柔らかくなっているんじゃないかな。
その気持ちのまま、他のシーンでは、泡風呂に入って胸や局部を泡で隠したり、カジュアルな服装で街を歩いたりもした。
予算上、当然全て国内で済ませ、三日間で撮影は終わった。発売されるのは八月中旬だそうだ。
写真集とDVDの発売前に、公に出る初仕事として、イベントコンパニオンの仕事が決まっていた。七月十四、十五、十六日の三日間、新宿歌舞伎町のクラブで行なわれたチャリティーイベント『CONTRIBUTION』。私はこのイベントの初日に出演する。
和訳すれば「寄付」の通り、売上の半分がユニセフに寄付される。
イベント開始前、一番新人の私は、
「おはようございまーす」
挨拶しながら、松下と遠慮がちに楽屋へ入った。
今日出演するのは、竹本紀子(二八歳)と、ちあき(二七歳)に、私を入れての三人。
「若ちゃん撮影頑張ったんだってね」
ちあきは笑顔で訊いて来た。
「手探りで何も分かりませんでしたけど、一生懸命やらせてもらいました」
「デビュー急だったのに偉いよお。っあ、芸名咲良ちゃんだったよね? 本番気をつけなきゃ」
「デビュー作が売れると良いね」
竹本が私を一瞥した。
「はい・・・・・・」
ちあきは気さくな性格で、事務所内やファンの間でも評判が良いけど、竹本は嫉妬深く、自己中心的で知られている。枕営業をしているとも聞くし、とにかく必死なお方。
午後七時からイベントが始まり、午前零時までずっと立ちっぱなしで疲れたけど、特にトラブルもなく、無事に終わる事ができた。
イベントの前日、
「ブログを開設したから早速書いて」
村田に言われた。
日頃、日記も書く習慣がないから「面倒臭いなあ」とは思ったけど、私だけ例外は認められない。今日のイベントが恰好のネタだけど、どう書こうか、竹本とちあきのブログを参考にしようと、次の日に覗いてみた。
竹本のブログ――
『今日は歌舞伎町でイベントがあり、ちあきちゃんと新人の西田咲良ちゃんと出演しました。コンパニオンどうしとても仲良く、和気あいあいとした雰囲気だったよ――』
嘘付けよ! 3ショットの写真が載ってるけど、マネージャーがシャッターを押す時、竹本は飛びっ切りの笑顔を作り、撮り終えた途端、ブスっとした顔で去って行った。
ちあきのブログは、売上の半分が寄付される事や会場の雰囲気などが、写真を添えて丁寧に詳しく書かれていた。
他にも友人のグラドルと食事に行った様子や、別のイベントで浴衣を着て、
『空き時間に海沿いを散歩してみました。夕方でもまだ暑いんだけど、浴衣を着てるだけで涼しい気持ちになりました』
同性が見てもかわいらしい写真が載っていた。
それで、私のブログは……前半は初めてのイベントで超緊張した事と、お客さんの様子を少し。
『共演したお二方は先輩。コワ~イのかなあ? って思ったけど、優しい人達で安心しました』
これに、ちあきと撮ってもらった写真を添付した。私も、竹本のブログにケチは付けられない。
八月上旬の土曜日。事務の仕事を終え、自宅最寄駅の近くのコンビニに立ち寄った。弁当とお茶を手に取り、雑誌コーナーへ向かった時……息を呑んだ。
写真週刊誌『SATURDAY』の表紙で微笑む女優の頭上に、
『袋とじ 事務職からの衝撃デビュー!!』
と銘打たれたタイトルが載っている。
「まさか!?」と思い、急いで手に取って会計を済ませ、早足でうちに帰った。早速はさみで袋とじを開ける。焦っている時でも、自分は案外几帳面なのだと気付いた。
見ると、案の定私(西田咲良)だった……。即行松下に電話する。
「袋とじになるんなら言っといてくださいよ!」
『ごめんごめん。でも宣伝だから』
「分かりますけどビックリしましたよ。こんな有名雑誌に載るなんて。ああ身内の誰かが見ちゃうかなあ・・・・・・」
『良いじゃん。稼げるようになって親孝行すれば。社長も気合が入ってるんだからさ』
そう上手く行くかよ! 多少なりとも、グラドルの内情は知っている。
「ところでこれ、ギャラ出ますよね?」
『出ますよお。でも金額は期待しないでね。これから色んな雑誌のグラビアやってもらうから』
「当然水着だけじゃないでしょうね?」
念を押してみると、
『そうね。少し大胆になるとは思う』
釘を刺す答えが返って来た。
「了解です・・・・・・」
電話を切り、冷静になってグラビアを見返した。三十年近い歴史のある雑誌に自分が載る。身内の誰かが見るのではと気掛かりでも……でもだ。やっぱり悦に入ってしまう。
私が載っている『SATURDAY』が発売された一週間、内心ドキドキしていたけど、結局両親は何も言って来なかった。
八月中旬の土曜日。この日は朝から撮影会だった。二部構成で、全て参加すれば会費は一万四千円。プラス千円でツーショット写真が撮れる。今日出演するのは私の他に、ちあき、竹本と松本めぐみの四人。
事務所の自社スタジオには、朝から百人の男性ファンが並び、入口では出演者の写真集とDVDが販売された。私はこの日が発売日とあって、他の人よりも目立つように展示してもらえた。
撮影会が始まり、主役となったのは、ちあきと松本だった。ちあきは見た目からも醸し出される明るい人柄が、二三歳の松本はEカップの巨乳と清楚な感じが人気を集めている。
一、二部共、前半はオシャレなファッション、後半は水着に着替える。
松本が水着になると、男性達は嬉しそうにカメラのシャッターを押す。その松本のEカップ、例のテーピングの力もあるのだけれど。
シャッターを押す人の中には、あの胸に技巧が施されている事を看破している人もいるんだろうなあ。でも分かっていても見れば楽しい。人間の頭の中には歳を重ねると、「それはそれ。これはこれ」のスイッチが取り付けられるから。
私にもお情けでカメラが向けられた。「笑って」という単純な注文から、「こんなポーズして」と、身体を使って具体的に注文して来る人もいて、グラドルの大変さが改めて分かった。
二部の最後にはサインと握手会も行なわれ、ここでもお情けで四十人くらいの人が並んでくれた。中には写真集やDVDにサインを求めてくれる人もいて、嬉しかった。
「何であの子と一緒なの!?」
撮影会が終わり、更衣室に入ろうとした時、竹本の怒鳴り声が聞こえた。
「めぐみちゃんとはブッキングさせないでって言ったでしょ!!」
マネージャーに詰め寄っている。自分より若くて人気もある松本を妬んでいるのだ。必死になる気持ちも分からなくはないけど、枕営業までしなければ使ってもらえない現状、自己チューで嫉妬深い素顔を、一般人も薄々気付いているのではないか。
竹本の怒号は三十分は続いたけど、皆慣れているらしく、松本を含め他の人達は皆素知らぬ顔をしていた。
ファースト写真集とDVDの発売から四ヶ月経った、十二月二一日(金)。二作目となるDVDが発売された。
一作目の発売に合わせて幾つかの雑誌のグラビアを飾り、少しずつだけどファンも付いて来た。その影響で、前回の写真集とDVDの売上も若干上がったらしい。
今回のDVDは十月下旬に、事務所の自社スタジオと別荘を借り、前回と同様三日を掛けて撮影された。
勝ち気な思いは変わらずに、スケスケの下着を着けてシャワーを浴びたり、上はタオルで隠し、下は何も着けずに冷たいプールにも入った。
「そこまでやって見合ったギャラもらえるの」
シオが心配した面持ちで訊いた。
「いいや。事務の方が断然給料良いし」
因みに、シオは今年の文学賞も落選したらしい。でも、彼は諦めずに書き続けている。
年が明けた一月五日(土)。事務所の新年会が催され、振り袖姿の所属アイドルが一同に会した。
その後には撮影会も行なわれ、抽選五十人のファンとアイドルでスタジオはごった返した。
カメラを向けられにこやかにポーズを決める。最近になって、ようやく素人からカメラを向けられる事にも慣れ、ポーズをとる事も楽しくなって来た。
立ったままサイン&握手会を済ませ、大部屋で私服に着替える為、更衣室に荷物を取りに向かうと、数人の子達が入口で立ち往生していた。中からは『ダンッ! ダンッ!!』と凄い音がしている。
「どうかしたの?」
「今は入らない方が良いよ」
一人が答えた。皆何食わぬ表情をしている。構わずに中に入り、音がする方を見ると、着物姿の竹本と、仲の良い三人が寄って集って松本の私服やバッグを踏み付けていた。
THE 芸能界……。竹本が私に気付いてきっと睨んだ。
「何よ? あんたもやる?」
四人の挑発的な視線が突き刺さる。
「いいです。私は言葉攻めで潰しますから」
咄嗟に出任せを言ってロッカーから荷物を取り出し、私も何食わぬ顔をして更衣室から出た。
「めぐみちゃんに衣装を貸してあげてください」
男性スタッフにお願いし、事務所を後にした。
人気者を妬む者、かかわり合いたくなくて何食わぬ顔を決め込む者、先輩であるがゆえに盾突けない弱い自分……皆打算的。これも人間の面白味なのだろうか?
後で聞いたけど、松本はスタッフに用意された衣装を断わり、草履の跡が付いた服を着て帰ったらしい。さすがは度胸が据わっているとも評判なだけはある。
二月上旬の木曜日。私が予てより不安視していた事が現実となった。夜の九時過ぎに、亮子から電話が入った。
『あんた私達に隠してる事があるでしょ?』
正直、ある……。あの事しか考えられない。
「はっきり言ったら? もう分かってるんでしょ?」
『DVD出してるんだってね? 大胆な姿で・・・・・・』
予想通り……。他人の空似と言っても通用しないだろうなあ。
「誰から聞いたの?」
『近所の人が買ったんだって。直接見せてくれたわ』
「そう。去年の三月に事務所の社長からスカウトされたの。写真集一冊とDVDを二枚出した」
実物を見たのだからグズグズせず速やかに真実を話した。
『事務職じゃなかったの?』
亮子の声は困惑している。
『人様に裸を見てもらって何が嬉しいの!?』
亮子は涙ぐんでいる様子で、語気が強くなる。
「事務は今でもやってるよ。黙ってたのは悪いと思ってる。でももう子供じゃないんだし、自分で考えて決めたの」
『うちの家柄の事も考えてよ!』
「そんなの関係ないじゃない! 家柄って、どうせ落ちぶれてるじゃん。自分の人生を自分で決めて何が悪いの!?」
負けじと大声で応戦した。
結局、この日は物別れに終わり、それからしばらく母子は音信不通になった。
亮子に問い詰められた日から一週間後、私は母方の祖父、勤の家に電話を掛けていた。祖母のシメ子なら、私の話にじっくり耳を傾けてくれる気がしたから。
始めは勤とお話……というより、一方的にまくし立てられた。
『仕事はどうだ? 一生懸命やらなきゃいけないぞ』『朝はちゃんと食べてるか? 昼よりも朝確り食べなきゃ駄目だ』『お前日記書いてるか? 一日の締め括りに書け』……今更だけど、この人って本当に多言。
話を聞いていると、勤の方にはアイドルの話は回っていないようで、安心した。
三十分程経って、やっとシメ子に替わってもらう。
『もしもし。どうかしたの?』
シメ子の声を聞いただけで、安心感に包まれた。
「うん・・・・・・今私がやってる仕事を、お母さんに反対されたの」
『反対? いつ?』
「先週の木曜日。もうどうしたら良いのか分からなくて・・・・・・」
『あの子も感情的になると人の話を聞かないからね。でもれっきとした仕事なんでしょ?』
「まあ、一応はね・・・・・・」
『なら良いじゃない、親が反対しようと。自分で決めたんだろうし、楽しいばかりじゃないだろうけど、若、自分の仕事に誇りを持つ事が大事よ』
誇り……自分の可能性を試したいと決心し、最近やっと仕事も楽しくなっては来た。でも、誇りまでは正直持っていない。
『親はね、子供がどんな仕事に就いても心配する生き物なのよ。理想通りになる訳がないって分かっていても、反すると腹を立ててみたりね』
「うん。子供もそれは分かってるんだけど、現実はなかなか・・・・・・」
『亮子と話したくない時は、うちにいつでも電話したり帰って来なさい。実家が嫌だったら、お婆ちゃんちにいれば良いよ』
「ありがとう」
いつでも、どんな時でも、シメ子は私の味方をしてくれる。
電話を終え、溜飲が下がると共に反省が生じた。グラドルだけじゃない、今までの仕事で誇りを持ってやったものなど一つもなければ、そんな事考えもしなかった。
「嘘だろ!?」
シオは雑誌を見たまま凝固した。
「どうしたの」
私が訊いても何も答えず、何度も読み返しているようだ。
七月中旬の金曜日。渋谷区恵比寿の居酒屋に入って乾杯した後、シオは事前に買った月刊文芸雑誌『アインシュタイン』を開いた。八日発売の表紙には、『第八回アインシュタイン文学賞発表!』とある。
「嬉しい記事なの? それとも・・・・・・」
駄目だったの?……と言い掛けて止めた。
シオはやっと私と目を合わせ、
「やったよ。オレの作品が大賞だってよ!!」
顔は喜色に満ち、輝きを増していた。
「え! マジ!? おめでとう! それで作品はどんな内容なの?」
「心を閉ざした高二の男子が、ある日風俗嬢に拉致されるんだ。当然少年はキレてパニクるけど、風俗嬢の開き直りっぷりに呆れ返っちゃう。そうこうしている内に行き着いたのが、風俗嬢の地元の町だったんだ。少年は風俗嬢の過去に触れて行く内に心境が変化して行って、最後は心を開く。簡単に言えばこんな話」
シオは興奮を抑えつつ、早口で解説してくれた。
「へー。面白そうだね」
「最初に書いたやつを何度も手直ししてやっとだぜ・・・・・・」
「凄い。諦めないって大事だねえ」
その日はそのまま祝賀会となり、シオの美酒に、私は明け方まで付き合った。
数日後、シオには出版社から連絡が入り、彼は賞金百万円を手にした。作品は雑誌に連載された後、単行本として出版される事が約束されたらしい。
シオは賞金の半分を、「今まで迷惑ばかり掛けたから」と両親に贈呈すると言った。以外に律儀な面あるんだ。と驚いたんだけど……。
ある日の昼休み、ベランダの喫煙所で、
「頼む! 一回だけで良いから。友達として」
シオは深々と頭を下げ、私に手を合わせた。
八月上旬に、受賞を祝って合コンが開かれるそうで、それに出てほしいと頼まれた。何でお祝いが合コンになるかなあ?
「私、合コン苦手なんだよね」
「だからいてくれるだけで良いんだよ」
「SEX以外のデートとかはしないって約束だけど?」
「だから・・・・・・自分で言うのは変だけど、友達の一人として祝ってほしいんだ」
溜息を吐いて思案に暮れた。
「・・・・・・今回だけは特別よ」
「分かった! ありがとう」
シオは満面の笑みを湛えた。
その当日。渋谷区内のレストランの個室を貸し切り、シオの受賞を祝う合コンが開かれた。
私が着いた時、男性は全員揃っている様子で、シオの前の席に座ると、彼はにっこりして頷いた。「来てくれてありがとう」という意味なのだろう。
男女揃って五対五。男性はシオの他にうちの事務所のマネージャーが一人、後の三人は初対面だ。女性は私を含めてマイナーアイドル四人と、なんと、
「どーも、宜しくでーす!」
松本めぐみ……。こういうとこでガス抜きしてるんだ。
男性の服装をチェックする。基本皆カジュアルなんだけど、それに蝶ネクタイを付けた人もいる。最近テレビでもよく見るけど、カジュアルに蝶ネクタイって、カッコ良いんだろうか?
「シオ、文学賞受賞おめでとう!!」
シャンパンで乾杯して合コンが始まった。始めは受賞作品についてや、これからの作家活動についての話題だったけど、しばらくすると……。
「女にキシリトールのガム噛ませてキスすると、結構良いんだよ」
シオが得意げな顔をした。大した蘊蓄じゃないのに。
「シオくーん。そーゆーの何か嫌!」
松本が声高にツッコんだ。彼女はのっけから弾けまくっている。
「あの二人、結構一緒になるらしいよ」
隣に座っている藤森理奈がそっと耳打ちした。
「合コンクイーンなんだ・・・・・・」
やがて席替えタイムとなり、同時に、なぜかロールパンの投げ合い合戦も始まった。目の前を飛び交う卵やレタスとハム、トマトをサンドしたロールパンたち……。食べ物を粗末にする罰当たりども! 生産者がどんな想いで作っているのか、全く分かっちゃいない。私は当然参加しなかった。
一次会が終わり、皆は二次会でクラブに行ったけど、私は帰る事にした。
帰宅後、シオにメールを送信。
「今日はおめでとう! めぐみちゃんの違った一面も見れて楽しかったよ」
翌朝の七時頃、シオから返信が来ていた。
『こっちこそ無理言っちゃってごめん。ほんとサンキューでーす!!』
クラブ上がりでテンションが高かったのだろう。やっぱりあいつはチャラい。
年が明け、シオは文学賞を受賞した雑誌とは別の出版社が発行する雑誌で、三月号からの連載が決まった。これを期に事務所を辞め、本格的に作家活動をスタートさせる。
私は、未だマイナーアイドルと事務の掛け持ち……。けれど二人のセフレ関係は、月に二、三度と減っては行くが続いていた。
シオはコスプレは好まず、行ってもTバックや裸にエプロンくらいで、割とノーマルなSEXを好んだ。
二月下旬。キー局で春にスタートする、お笑いコンビがMCの帯番組のレギュラーが、キープ(仮決定)から正式に決まった。放送時間は深夜十一時五十分からの三十分。月曜から木曜までの放送だ。
松下から話を聞いた刹那、まず頭に浮かんだのは、朝十時からの事務職に差し支えがある事だった。
「それは大丈夫。午後からの出勤で良いって社長が言ってるから」
「そうですか。なら良っか。それで、どんな番組なんですか?」
「基本的には雛壇に座って笑ってれば良いから。たまにロケに出る事もあるかもしれないけどね」
「ああ、その手の番組ですか」
予想通り、トレンドやグルメを、半期に一度替えられる予定の二十人のマスコットガールが、現地リポートするのだという。
ロケに出るのは、プロデューサーやディレクターに気に入られた若い子だけだろう。私はスタジオで笑っていれば良いと悟った。
四月中旬の月曜日。第一回目の本番前、松下がディレクターに呼び出された。マスコットガールには台本も弁当もないので、私は自前のパンを齧りながら読み掛けの小説を読んでいた。
「さっき廊下で聞いちゃったんだけどさ」
シオの受賞を祝う合コンで一緒だった藤森理奈が、愚痴っぽく声を掛けて来た。
「何か癪に障ったの?」
「ディレクターが『お宅んとこもっと若い娘いないの?』って松下さんに。こっちだって自分の年齢自覚してんだよ!」
私は二七歳、藤森は二五歳……っま、ディレクターはそんなもんじゃね? とは思ったけど、
「どうせオバサンだよ!」
調子を合わせた。
番組が回を増すごとに、二十人の中では派閥ができ始めた。ロケに出ても、派閥が違えば口も利かないそうだ。私はどこにも属さず自由にやってたけど、まったく、人間の確執には凄まじいものがある。
いざこざはまだある。
「あの子、最近ロケに出るの疲れたって言ってますよ!」
笑顔でディレクターに告げる雛壇アイドル。彼女が言っている事は大嘘。ロケ出演が多い子を妬んでの言動だ。その子は「告げ口」によって見事ロケ出演をゲットした。
他にも、雛壇の前列に座る子と険悪な関係になろうものなら、席がどんどん後ろに回されるか、途中降板させられる。それを何度となく見聞きした。
裏じゃ足の引っ張り合いで、それでいて本番中は仲良さげ……。一見すれば着飾って華やかな世界でも、裏側はどす黒い。
人間は裏を汚くしなければ、表を美しくできない動物なのか?
自分の道を見出し歩み始めたシオに対し、私はストレスが溜まる一方だった。芸能界では相変わらずマイナー状態。幾ら図太くマイペースとはいえ、ちょっと限界を感じていた。
大手事務所のアイドルが、自分は「崖っぷちアイドル」だと言って売っていたけど、私は崖の岩に「しがみ付きアイドル」だ。
日頃の鬱憤を発散させようと、私は学生時代以来となるクラブに、ちあきや藤森を誘って朝まで踊り明かし、シオと会う時は必ずといって良い程、ネットカジノへ行った。初めの頃は一万円スタートだったのが、その頃はシオから金を出してもらって、十万スタートになっていた。
シオはあまり儲けを出せなかったけど、私は二十万前後を稼ぎ、隠れていた博才を開花させた。
時を重ね、芸能界の深みに嵌れば嵌る程、私生活は荒んで行った。
『今からちょっと逢えないかな?』
九月上旬の火曜日の夜。武弥からメールが入り、電話を掛けた。
「あんた今東京?」
『うん。研修で来てるの。日暮里って今いるとこから遠い?』
「行けるけど、あんたご飯は?」
『まだだけど?』
「じゃあ一緒に食べよう」
途中コンビニで金を下ろし、六本木の事務所から三十分で日暮里に着いた。改札を出ると、正面に武弥が笑顔で立っていた。逢うのは四年ぶり。政長の次男、武政の結婚式以来だ。
彼女は一見いつも淡々としていて、サバサバした性格。大人になってから、家族に対してはあまりにっこりする事がないので、笑顔で迎えられて以外だったけど、どこか影を感じた。
食事処を探して歩き出して直ぐ、
「もっとゆっくり歩いてよ!」
後ろの武弥が訴えた。
「(東京は)時間に追われてる街なんで」
電話でも思ったけど、彼女の声はかなりのハスキーボイスになっている。FMラジオに出演する女性DJのような、透き通った声は今や昔。脂肪を声帯に移植する手術は成功したようで、結局、病院を訴える事はなかった。
駅から歩いて十分のそば屋に入り、武弥は天ぷらそば、私はカツ丼を頼んだ。
「そば屋でカツ丼っておかしくない?」
「良いじゃん。美味しいんだから」
「まあ良いけど。それより姉貴、アイドルやってるんだってね?」
多分言われるとは思っていた。情報源は亮子に違いない。
「売れてませんが。だから事務所のアルバイトで事務やってる」
武弥は「ふーん」と言ったきり黙った。「どんな有名人に会った?」などと訊いて来るミーハーな性格ではないから。
「私はそんな感じだけど、学業の方は順調ですか?」
「そっちの方は何とかね・・・・・・お盆に帰ったんだけどさ、お父さんと一悶着あって、二階の壁に穴開けちゃったの」
影があったのはその為か……。
「凄い事をサラっと言うね」
雨漏りとそれに伴う壁の変色。そこに穴が加わった。
「あんたそんなに気性激しかったけ?」
「だってお父さんって一方的じゃん。酔った勢いで不平をダラダラと! 『六年制の学部に入って、うちに金ないの分かってるだろ!?』って。私だって申し訳ないって思ってるよ」
「それで何て言ったの?」
「お金の事言われたら私も姉貴も何にも言えないじゃん!! って言ってキレて二階上がって、ムカつきが抑えきれなかったから『ボカッ!』って・・・・・・あんなに脆いとは思わなかった・・・・・・あのお父さんとどう接して良いのか分かんないよ」
武弥が珍しく頭を抱えた。私は「私も姉貴も何にも言えないじゃん!!」の言葉が、姉の事も考えてくれてるんだ、と嬉しかった。そのくらい淡々としていて、何を考えているのか分からない子だから。
「でも野球とか、私より共通点はあるよね?」
政孝と武弥は巨人ファンで、よくナイター中継を二人で観ていた。
「会話もそれなりに弾んでたと思うけど?」
「あれはお母さんを経由してだから。私から話を振った事ないし」
初めて聞く妹の本音。何気にしか見ていなかったから、ちっとも気付かなかった。父親と次女の関係は比較的良好……とばかり思っていた。
「お父さんって自分の思念を伝えるのほんと下手だよね・・・・・・でも最近思うんだ。威厳保って家族をほとんど顧みなかった父親だけど、飲んでグジグジ言い出すのは、『オレの想いも分かってくれ!』っていう悲痛な叫びなんじゃないかなって。離れて暮らしてるからそう思えるようになったんだけどね」
「・・・・・・」
武弥は箸を止め、そばを見詰めて思案に暮れている様子。
「・・・・・・またいつの日か、あの家で四人が揃えたら良いね」
武弥は微笑を浮かべた。
「そうね・・・・・・」
会計を済ませて外に出ると、風が心地良い。
「っあ! 忘れるとこだった。はいこれ、お小遣い」
逢う前に下ろした一万円を渡した。以前、亮子に言われた『武弥にお小遣いもあげられないわよ』の言葉が、ずっと頭にあったから。
振り返ればこれまで、姉らしい事はほとんどしてあげられていない。表現は変だけど、何だかリベンジを果たしたような、私の方が安心感に包まれていた。
「良いよ。そんな事しなくて」
「良いから。友達のお土産代にでも使って」
「なら……遠慮なく」
武弥は照れ臭そうに笑い、一万円を財布に仕舞った。
「そうだ! 私も姉貴に一言」
「何よ改まって?」
「さっき時間に追われてるって言ったけど、私にしたら東京程時間に余裕が持てる街はないよ。電車は十分に一本は来るし、山手線なんて三分くらいに一本じゃん。田舎は三十分、長いとこだと一時間に一本だよ」
「そういう見方もあるかあ・・・・・・」
私も田舎者。忘れていた事を思い出させてもらい、その日は別れた。
九月下旬の木曜日、レギュラー番組最終日。半年の間で、私がロケに出たのは一回だけ。港区赤坂にある韓国料理店で、激辛料理を食べるリポートに駆り出された。私と一緒に餌食となったのは藤森理奈。年増の女には辛い物でも食べさせてリアクション芸、って事か?
ニヤニヤしながら店主が出して来たのは、甘辛コチュジャンで味付けした唐揚げ。その名はヤンニョムチキン。
「見た目は美味しそうだね」
「うん。一見ね」
やっとロケに出れて嬉しそうな藤森に合わせて無理矢理テンションを上げる。辛いのは分かっていながら、藤森もよく楽しそうに装っていられるものだ。
早速私から口にする。恐る恐る口に入れると、初めは美味しいんだけど、
「ん! 辛い辛い!」
悶絶する私に、
「そんなに? 真っ赤じゃないし何かタルタルソースがないチキン南蛮みたいなんだけど……」
藤森は笑みを浮かべて丸ごと口に入れる。
「っあ! 辛っ!」
「でしょう」
苦笑でも浮かべなけりゃやっていられない。一口で行ったのはディレクターの演出。しかも「直ぐには水を飲まないで」とまで言いやがった。
食べ終わった後お腹が痛くなったけど、笑顔で乗り切った。そうやって身体を張った事以外は、ずっと雛壇の中段に座って笑っていた。
想定の範囲内で、無事大役を果たす事ができましたとさ。
武弥と再会して一年近く経った六月下旬の水曜日。事務所に出勤すると、血相を変えた村田に写真付きのプリントを渡された。
「これ読んでみろ!」
見出しは『激撮!! 新鋭若手作家の密会現場 相手は本誌グラビアを飾ったグラドル』とある。当時の私のグラビアと一緒に、シオとレストランで夕食を食べながら談笑している場面と、ホテルへ入って行く場面が掲載されていた。
「今週の『SATURDAY』に載るんだってさ。さっきファックスされて来た。神谷君とそんな関係だったんだ?」
『SATURDAY』……再登場がこんな形とは……。
「自分が売り出し中の身である事、忘れてないよね?」
「忘れてはないですけど、神谷君と私は独身なんですよ? 何か問題あるんですか?」
「あのなあ・・・・・・」
村田は渋い顔になった。
「恋愛禁止なら禁止って、最初から言っといてくださいよ!」
完全に開き直り、半ばキレ気味に言った。そうでもしなければ収まりが付かない。
「もう良いよ・・・・・・」
村田は閉口した。案の定!
でもシオの方が気になったので、昼休みに電話を入れた。
「オレも(編集)担当者から『大事な時期なんだから困りますよ』って注意されたよ」
「やっぱりね。それで何て返したの?」
「お互い独身だし恋愛くらいするでしょ? って言ったら渋々黙った」
「ハハハッ! 同じだ」
「オレ、近々引っ越すんだけど、今度からオレんちに来ないか?」
「え!? 良いの?」
「ホテルには行き辛くなったし、オレは構わないよ」
彼の言葉に甘え、以後、私達は文京区本郷のシオのマンションで会うようになった。これから記者やパパラッチに集られるのかと不安だったけど、一回素っ破抜かれたっきりで、取材すら来なかった。
「一回載せて飽きちゃったんじゃねえの?」
シオは強がってはいたけど、表情は安心していた。
七月三日(土)と四日の二日間、お台場にあるアウトレットモールで浴衣イベントがあった。うちの事務所からは私を含め四人が出演。有名ブランドの浴衣に袖を通して、更にオシャレにさせるアクセサリーとバッグを身に付けて着飾った。
このイベントが、竹本紀子にとって最後のイベントになる。今年で三十路の竹本は、私が言うのは変だけど未だ売れないアイドル。うちはAV女優も抱える事務所だから、そっちの方に進むかと打診されたらしい。でも竹本は拒絶して引退を選んだ。
後輩を妬み、いじめ抜いた女。その一番の標的となっていた松本めぐみは、イベント中、心なしか勝ち誇った表情をしていた。
二日間のイベントを終えた後、ちあきとモール内のカフェに入った。ちあきはアイスティーを、私はアイスコーヒーを注文し、二人でバニラアイスも頼んだ。
「咲良ちゃんって出身どこだっけ?」
「静岡です」
「そーなんだあ。お茶処だね。お盆とかには帰るの?」
「いえ。私、親にデビューの事話してなくて。バレるのは時間の問題だって思ってたんですけど、いざその時が来たら言い合いになっちゃって」
「反対されたんだ」
「写真集の内容もちょっと大胆だったから、それから気まずいんです」
ちあきの雰囲気に気を許し、家庭状況をベラベラ喋ってしまった。ちあきは微笑を浮かべ、ゆっくり頷いた。
「私も同じような経験があるから分かるよ。私も父親が猛反対してね。でもデビューしてから二年後に末期癌で亡くなったの」
そんな過去があったんだ。
「結局認めてもらえないまま亡くなっちゃった。母親も父程ではなかったけど反対だったの。でも最近になって、やっと理解してくれるようにはなったんだけどね」
「良い親子関係になれたって事ですか?」
「そんな感じがする。父親は残念だったけどね。咲良ちゃんにも、いつかそんな日が来るよ!」
ちあきは説得するような口振りで言うと、いつも通りの明るい笑顔を見せた。
あんな親だからどうだか……。
当たり前の事だけど、ちあきの話を聞いて、改めて「人に歴史あり」だと思う。同時に、今を明るく生きている人は、何かしらの壁を一つか二つは乗り越えているのだと、二十代も後半になって学んだ。
帰宅後、ブログを更新するついでに、コメントをチェックした。
『いつも笑顔に癒されます』『最近ますますかわいくなってきてるね』といった好意的なものや、中には女性から、『この前のイベントで着てた服、どこのブランドですか? 超~かわいくて似合ってました』という質問も寄せられる。
とてもありがたく、快くお答えすんだけど、その一方で、『DVD観たんだけどさあ、カメラアングル悪くてつまんなかったよ』こんな批判もある。
そんなの監督に言えよ! コメントだけにとどまらず、撮影会とかでも、
「そのブーツ、茶色より黒の方が良いと思うよ」
さらりと言って来る人もいる。自分はTシャツをインしてメタボ体型なくせして、彼氏にでもなったつもり?
ムカつくけど、
「今度から気を付けます」
笑顔で対応するしかない。
芸能人の仕事は人を魅了させる事。でも多種多様の世の中で、全ての人を満足させる事は不可能だ。人は好意を持ち過ぎると、自分の好みに合わせようとする。それでいて八方美人だと直ぐに飽きたりして。
芸能人は事務所の方針にも左右されちゃうけど、八方美人にならず、芯を持って自分を顕示し続ける。人間同士が交流して行く上で、常に付いて回る課題なのだろう。
九月下旬の木曜日。政長の長女、良子と四年ぶりに再会した。同じ東京在住でも、ほんと身内とは最近疎遠になっている。去年武弥と再会したのも四年ぶりだから、四年周期にでもなったのかもしれない。
カフェに入ってお茶する事にした。
「最近全然帰ってないんだってね?」
「うん。住民票もこっちに移したから用ないし」
アイスティーにストローをさしながら答えた。自分でも素っ気ないと思った。
「でも皆心配してるよ。お爺ちゃん達だって会いたがってたし」
「・・・・・・確かに、祖父母に顔も見せないは、ご先祖様にお線香も上げないはじゃ、罪だよね・・・・・・」
自責の念に駆られていると、
「っあ! お盆に帰った時、政孝お兄ちゃんのハウスも見たよ」
良子は暗い表情になった私をフェローするように言った。
「相変わらずほっそいおっさんでしょ?」
「本当、政孝お兄ちゃん細身だよねえ」
良子は笑いながらタバコに火を点けた。その姿を見ていると、感慨深い気持ちが涌いて来る。
「お互い年取ったよね」
「どうしたのいきなり?」
「だって子供の頃から知ってる者同士が、タバコ吸いながら話すようになったんだもん」
「まあ、そう考えたらね」
良子は納得したのか、「年取った」の言葉に不服なのか、ビミョーな表情で頷いた。
親にグラドルの件がバレた時、身内とは当分会いたくないって思ったけど、やっぱり友達とはまた違う安心感を与えてくれる存在だ。
十月中旬の火曜日。仕事から帰ってポストを開けると、小・中・高校と同じだった中田有里から、結婚式の招待状が届いていた。
八月に久しぶりに電話が掛かって来て、
『私、十一月に結婚するの』
と報告された。
「本当!? おめでとう!」
相手は二つ下の公務員と言っていた。
私ももう二八歳。同級生の中には男女関係なく、子供がいる人も増え始めている。電話で祝福していた時も、招待状を目の前にしても、物思いに沈む。私、今のままで良いのかなあ?……。
自分の可能性を試そうとグラドルデビューを決意した事は、以前、政孝に言われた「向上心を持て」につながると思う。でも、シメ子に言われた「誇りを持ちなさい」は、二年経っても持てないままだった。
グラドルがどうこうではなく、私の心根の問題だ。私にとってグラドルは、誇りを持てる職業ではなかったんだ。そう思うんだったら、いつまでも続けていても自分にとってプラスにならないし、誇りを持ってやっている周りの子達に失礼だ。
私は、そろそろターニングポイントの時期に来ていた。
翌日、出勤途中に不参加に丸をした招待状を、ポストに投函した。今の私は、人の幸せを祝福する気持ちには、正直なれなかった。
「早ければ年内で引退させてほしいんです」
「まだ可能性あるし、何とか考え直せないか?」
村田が弁舌する。
二十代も最後の年となった八月上旬の土曜日。六本木の事務所の応接室で、村田と私、松下を交えて引退についての話し合いがなされた。松下には年明けから、それとなく引退を仄めかしてはいたけど、まともに取り合ってくれなかったり慰留されたりと、埒が明かなかった。
そこで、村田に直訴して話し合いの席を設けてもらったのだ。
「別に仕事がつまらない訳でも、辛くなったからでもないんです。来年三十になる事を考えると、この辺が良いターニングポイントかなって思うんです」
「後一年だけでも頑張ってみる気はないの?」
松下は飽く迄慰留させたいようだ。仕方ない、私の方からカードを切る事にした。
「このまま行けば「AV」じゃないですか? そこまでして顔を売る気はないですし、この四年でそれなりにファンも付いてくれましたから、私は満足してます」
私にも、撮影会や握手会で必ずといって良い程顔を出してくれる人がいた。東京都内、近郊、中には関西から来てくれる人もいる。馴れ馴れしくて鬱陶しい時もあるけど、やっぱりありがたい。
「そこまで言われちゃあ、翻意を促す事はできなさそうだな」
「毎回だけど、担当のタレントが辞めるのは寂しい」
村田と松下は諦めの表情になった。多分、それは私を立てる芝居だ。だって私が辞めても、アイドルになりたいって子は山程いるんだから。
「こっちも無理言ってデビューさせちゃったし、君がそう思うんならそれで良いよ」
「ありがとうございます。・・・・・・事務は辞めなくて良いですよね?」
「うん。それ以外に、今までのお礼と言っちゃあなんだけど、何か望む事はある?」
「そうですねえ・・・・・・じゃあ、社員として雇ってください」
駄目元……いや、強引にでも叶えてもらおう。
「社員か・・・・・・そういやずっとアルバイトだったよな。良いよ、その代わり引退してからね」
やった!! 心の中で力強いガッツポーズをした。
十一月から、私は<株式会社 ミスコーポレーション>の正社員として働く事が決まった。
グラドルとして最後の仕事となるイベント前日の夜。武弥から曾祖父の兼一が亡くなった事を知らせる電話が掛かって来た。
『今日の朝、布団の中で。老衰だって』
頭が真っ白になって言葉が出ない。
『お母さんから「私じゃ駄目だろうからあんた電話して」って言われたんだけど、帰って来れる?』
「うーん。丁度明日から抜けられない仕事が入ってるんだあ」
やっと言葉は出てきたけど……イベントには必ず出演する事が、村田との約束だ。
『仕事なら仕方ないか』
あっさりとした口振り。武弥には他意はないんだろうけど、突き刺さる。
地元にはもう五年も帰っていない。それどころか、兼一の百歳の誕生日祝いにも帰らなかった。
「距離もそう遠くないんだし、もう一度くらい帰っときゃ良かった・・・・・・」
後の祭り……。姉をよそに妹は、
『まあ、しょうがなくない? もう死んじゃったんだしさ』
あっけらかんとした口振り。ちょっとは察しろよ!
せめてもの供養のつもりで、思い出を話す事にした。
「元気なお爺ちゃんだったよね。踊りが好きでさ」
『うん。特に神楽の時は生き生きしてた。昨日までは普通だったらしいんだけど』
「もうこの世には未練がなくなったって事なのかなあ・・・・・・」
しばらく沈黙し、兼一を懐かしんだ。
「それで、そっちの様子はどうなの?」
『睦仁お兄ちゃんからだろうけど、「孫一同」って花が出てる』
そういう時だけは長男一家……。
「「若を除いて孫一同」に書き替えてもらってよ」
睦仁には何の恨みもない。けど……いつもは政長に代わって本家の面倒を看ている政孝の事を思うと、憎らしくなる。
『またそんな事を言う・・・・・・』
「「孫一同(一人を除く)」でも良いからさ」
『あのねえ・・・・・・』
武弥の呆れ顔が目に浮かぶ。不謹慎だけど二人で笑った。
その刹那、急に寒気に襲われた。窓は開けていたけど、特に寒い日でもない。携帯を持ったまま窓を閉める。ひょっとして……曾お爺ちゃん?
兼一の霊が私のアパートにまで来たのか? そんな事を考えていると、突然無言になった事を不審に思った武弥が、『姉貴』と問い掛けて来た。
「ああ、ごめんごめん・・・・・・今回の事で、伯父さん地元に帰りそう?」
『さーどうだろう? 私の目には全く』
そんな風には見えない……っか。政長にも「守るべきもの」がある、って事だ。
「そっか・・・・・・誰も身内がいない街に生活基盤を築いて家も建てたのに、それを捨てろって言う方が、そもそも酷なんだよね。伯父さんの気持ちも分かる気がする」
さっきは憎らしく思ったくせに……。父への想い、地元を離れたからこそ推察できる、伯父の気持ち……。二つが交錯して、一人で板挟みになっていた。
『まーその問題は、お父さんと伯父さんに任せれば良くない?』
「私達が何だかんだ言ってもしょうがないか」
電話を切り、再び窓を開け、空を見上げてタバコを吸った。それにしても、さっきの寒気は本当に何だったんだろう――
翌日十一月十二日(土)から二日間、原宿の表参道ヒルズで、バッグと靴の有名ブランドが集まったイベントが開催された。勿論、顔は終始笑顔にしていたけれど、心は葬儀にも出ない事から来る兼一への謝罪の念と、今までの感謝の気持ちで一杯だった。
そしてこのイベントが、私にとって四年間の芸能生活の集大成となる。
翌週の火曜日から、私は人生初の正社員生活が始まる。
最後のイベントから一夜明けた月曜日の朝。武弥から、
『お葬式が終わって火葬場に行く途中、紅葉がすっごくきれいだったよ。心の中でひいおじいちゃんに、「山々が鮮やかに色付いてるよ。見える?」って話しかけた。たぶん、おじいちゃんも見惚れてたんじゃないかな』
とメールが入った。
昼間、一日休みをもらっていたので外に出た。自宅近くの公園に入り、上を見上げると、もみじやいちょうが赤と黄色に色付き、陽光に照らされ更に鮮やかに見えた。
曾お爺ちゃん、東京の紅葉も綺麗だよ……。
この葉っぱ達も、あと少しで散ってしまう。色付く葉散る、残る葉も、散る運
命……。死別は悲しい。でも悲しがっている人にだって、いずれ死は訪れるのだ。
ぼんやりと考えながらベンチに座り、しばらく見惚れた。
正社員となって約八ヶ月が経った、七月上旬の火曜日の夜。亮子から久しぶりにメールが届いた。
アイドルをやっている事がバレたのが四年前。しばらく音信不通の時期を経て、メールのやり取りはちょっとずつ再開したけど、電話に関しては、いけないとは思念しつつ全て無視していた。
『今年のお盆は帰って来ないんですか? ひいお爺ちゃんの初盆だし、しばらく帰ってないんだから、一度帰っておいで。今年は武弥も帰るって言ってるし。連絡を待っています』
去年は結局帰らず、今年で六年も帰っていない事になる。ご先祖様にお線香も上げてない……。久しぶりにランと散歩をしに帰ろうと思った。
翌日、出勤して早々に村田にその旨を告げた。
「そんなに帰ってなかったのか!? 来月なら良いよ。一度帰ってゆっくりして来な。有給と合わせて十日くらいはさ」
村田の言葉がこんなにありがたいと思ったのは、引退を了承してくれた時以来だ。
昼休み、早速亮子に「今年は帰ります」と返信した。
八月上旬の木曜日。文京区本郷のシオのマンションで「事」を済ませ、二人でベッドの上で寛いだ。
「私、明日から地元に帰るから」
「ふーん。そういやワカの地元ってどこ」
「静岡の田舎町」
シオは何気なさそうに訊いたので、私も何気なく答えた。
「お盆に合わせて休みもらえたんだ?」
「去年曾お爺ちゃんが亡くなったんだけど、お葬式にも出なかったし、今年初盆だから社長に頼んだの」
「曾お爺さん幾つで?」
「百六歳。大往生だよね・・・・・・」
宙を見詰めた。曾孫のこんな姿を見て、兼一はどう思っているのだろう?
「長生きされたんだ・・・・・・話変わるけど、オレらのこの関係も、もう六年だな」
「本当に全然違う話・・・・・・でもあっという間だったね」
以前、二人で通っていたインターネットカジノ<プラフット>は、今年始めに常習賭博容疑で摘発され、経営者などが逮捕された。最後に行ったのは、竹本が引退する直前頃だったと思う。そんな事も含めて、いろーんな事があった。
「あの時、何で告ったか・・・・・・」
シオはタバコに火を点け、一息吐いた。
「今だから言うけど、合コン仲間との賭けだったんだ」
「賭け?」
「ジャンケンに負けた奴が会社で一番かわいい娘に告って、成功すれば証拠にその娘と写メを撮る。上手く行けば次回の合コンは全部奢ってもらえるってルールだった」
「やっぱ遊びだったか。「一番かわいい娘」って、取って付けたかのように」
「本当だよ。オレはワカが一番かわいいと思ってた」
シオはマジな表情になった。けど鵜呑みにして良いのやら……変な空気になる前に話を進める事にした。
「でも負けたよね? どう言い訳したの?」
「失敗しやしたーって笑って済ませて、次回の合コンの費用全部出す羽目になった・・・・・・人の心を弄ぶような事はするもんじゃないよな。今頃になって申し訳ないって心底思う」
「君なりに反省してんだ。でも何でその時言わなかったの? 写メくらい写ってあげたのに」
「セフレになろうなんて言って来る女初めてだったし、何か怖かったんだよね」
シオは伏目がちに笑った。私はそれを、私を遊びの道具に使わなかった彼の良心だと受け取った。
翌日の午前九時にシオのマンションから自宅に戻り、九時五十二分の電車に乗って地元の町に向かった。片道約二時間。富士山が見えて来ると相変わらず気持ちが沈む。帰りの富士山は解放感もあって見惚れていられるのに……。同じ風景でも、気持ちが違えば全くの別物だ。
正午前に地元の駅に着いたけど、私の「迎えはいらない」との言葉通り、両親の姿はなかった。二人共仕事を休んでまで迎えてくれる必要はないから。
駅からタクシーに乗り、実家に着いてポストの中の合鍵を使って中に入る。手洗いうがいを済ませ、水をコップ一杯飲んで二階に上がり、武弥が開けた穴をチェックした。
大きく開けたもんだねえ……。
それはそうとまだ眠かったので、お昼も食べずに自室に入って横になった。
「ワンワンワンッ!!」
二時間後、ランが吠える声で目が覚めた。『ガチャッ』と玄関が開く音が聞こえたので一階に降りると、
「あの犬、私によく吠えるんだよね」
武弥が疲れた表情でリビングのソファに座っている。
「あんたランの面倒看た事なくない?」
武弥が散歩に連れて行く姿は疎か、頭を撫でている光景すら見た事がない。
「駅からはタクシーですか?」
「当たり前じゃん! 歩く訳ないよ」
相変わらずサバサバとした答えな事。
「私の事は覚えてるかな?」
両親、ランと会うのも六年ぶり。少し不安だったけど、近付くと威嚇もせず近寄って来た。私の足と手を嗅ぐと認識してくれて、ランは手を甘噛みするスキンシップを始める。
覚えててくれてたか! 安心したのも束の間、改めてランの姿を見て唖然とした。毛がボウボウできったない! これほんとに飼い犬?
幾ら忙しいからといっても、ブラッシングしてあげる時間もないのか? 直ぐにブラシを持って来てブラッシングしていると、後ろから車の音が聞こえ、政孝が帰って来た。
「(ランは)覚えてたか?」
「みたいよ」
私はランの相手をしたまま、振り返らずに答えた。六年ぶりとなる父子の会話は一旦終了。家に入る直前の政孝の後ろ姿を見て、また唖然とした。髪が真っ白になっている。随分お爺さんになって……。
私だってもうアラサーだ。年老いて行く親をまざまざと見せ付けられた。
それから約十分後、亮子も車で帰って来た。
「覚えてた?」
夫婦揃って第一声がそれ?
「犬は視覚より嗅覚で覚えてるんじゃない?」
「そう・・・・・・ねえあんた、まだアイドルやってるの?」
一番気になるのだろう。亮子は私の耳元で囁いた。
「去年で引退した。今は正社員になって事務所の事務職に専念してる」
「その方が良いわ」
亮子の声は衷心から安心した様子だ。
「お母さんこそ、まだ血圧の薬飲んでるの?」
「あんたに心配されなくても大丈夫よ。最近は落ち着いてるから」
亮子は笑ってるけど、負けん気にも見える。この十年、夫と娘の事で心労が絶
えなかったと思う。私の点では、やっと肩の荷を下ろさせる事ができたんじゃないかな。
私も、最近になってやっと、亮子がヒステリックを起こすのは、愛情の裏返しなのだと思えるようになった。
「お母さん」
「何?」
「今までごめんね。それと、ありがとう」
笑顔で言うと、亮子は一瞬、私に怪訝な目を向けた。唐突ではあるけど、言うなら今だって思ったから。
「何なのいきなり・・・・・・ありがとうって、遅いわよ!」
亮子は照れ臭そうに笑い、私から目を逸らした。でも、その目に光るものがあったのを、私は見逃さなかったよ、お母さん……。
亮子は私に背中を向けたまま、大きく溜息を吐いて向き直った。
「それより、武弥が開けた穴見た?」
「見事だったね」
「雨漏り、壁の染みと穴・・・・・・実はそれだけじゃないのよ」
「まだ何かあるの!?」
「向こうの庭のブロック、この前、力久の叔父さんに見てもらったら、「このままだと危ないから補修した方が良い」って言われたの。気にはなるんだけど、そこまでする費用はまだ貯まんないしねえ」
力久の叔父さんとは、建設会社社長で、私の叔母の夫だ。
一段下に建つ家との境目に積まれたブロックが、危険に晒されている。
「やっぱりこの家、死に掛けてるのかなあ?」
「どうだろうね」
亮子は他人事のように言った。
「建って十三年しか経ってないのに、ガタ来過ぎじゃん?」
複雑な心境のままランに餌をやって、中に入った。
夕食は焼肉。我が家のご馳走は、夏は焼肉。冬は水炊きかしゃぶしゃぶと決まっている。
晩酌をする政孝に酒乱の気が出るか心配だったけど、ビールはアルコール度数が低いためか、今日は落ち着いている。私がアイドルをやっていた事は、政孝も当然知っているはずだけど、何も訊いて来なかった。
久しぶりとなる一家揃っての夕食は、思い出話に花を咲かせる訳でもなく、テレビを観ながらの淡々としたものだった。
翌日の正午過ぎ、武弥と一緒に三田居本家に向かった。亮子の車を借りて私が運転したけど、助手席の武弥は座席を後ろに引き、少し倒している。それだけではなく、足を伸ばして、お気に入りの音楽をガンガン掛けてお寛ぎモード。彼女、中学くらいからこんな感じ。あんたは大物になるよ……。
そうこうする内に本家に着いた。「こんにちは」と挨拶しながら入ると、丁度お昼休みで、政康、益子と政孝の三人が揃っていた。政長一家は来週帰って来るそうだ。
「あんたいつ戻って来たの!?」
「どれくらい帰って来ないかなって話してたんだ」
政孝から私が帰って来た事は知らされていただろうけど、政康と益子は私の姿を見るなり目を丸くした。武弥に対しては、去年兼一のお葬式で帰っているので普通だったけど、私に対しては、驚愕の表情あり満面の笑みありと格別だ。
早速、仏壇の前に座った。優しく微笑んだ兼一の遺影を見て、
「本当に亡くなったんだ・・・・・・」
と呟いた。
「穏やかな顔だったよ」
隣に座った武弥が、線香に火を点けながら言った。毎回私達を迎える度に見せてくれた笑顔。大好きだった神楽を楽しそうに舞っている姿を思い出して視界が滲んで来た刹那、
『リンリーン!』
武弥は手を合わせていた。
マイペースな奴……。人の事は言えない姉だけど、隣の妹に苦笑しながら私も目を閉じて手を合わせる。
「曾お爺ちゃん、本当に長い間ご苦労様でした。そして、楽しい思い出をたくさんくれて、ありがとうございました・・・・・・さようなら」
やっと別れの挨拶ができて微笑を浮かべていると、
「丁度二年前に帰った時に、曾お爺ちゃんから「仲良くしろよ」って言われたの」
武弥は徐に言った。
「仲良くしろ?」
「お爺ちゃんとお婆ちゃんが作業に出て行って、二人っきりになった時にね。ほら、お父さんと静岡(市)のおばさんが言い争ったの、知ってるでしょ?」
静岡市に住む政康の弟の奥さんは、政孝が家を継ぐと知って、本家を継ぐのは長男だと言い張り、政孝と口論になった事があった。
「曾お爺ちゃんも目の当たりにしてたから、お前達は身内と争うような事になるなよって意味なんじゃないかな? 「若にも伝えておいてくれ」って言われた」
「最後の教え、肝に銘じます」
遺影の兼一と目を合わせた。
「私は、口も腕力の喧嘩も苦手だから心配ないけどね」
「分かんないよお? うちらもあの親父の血を引いてんだから。どっちかが十年後くらいにお酒飲んでワーワー言ってるかもしれないじゃん?」
武弥は不気味な笑みを見せた。
「縁起でもない事を言うな!」
左肘で妹の身体を軽く小突く。
キッチンへ戻り、祖父母とお茶を飲む。
「今仕事は何してるの?」
「正社員で事務やってるよ」
やっと本当の事を胸を張って言えた。
「そう! 正社員なら良いじゃない」
政康と益子は安心した様子で、頷きながら微笑んだ。
三十分程経ち、
「じゃあそろそろ・・・・・・」
武弥も立ち上がり帰ろうとした。
「親父の職場を見て行ったらどうだ?」
政康の言葉に、
「ああ、それが良いよ」
益子も同調した。
私は迷ったけど、
「一度一目見てみたら?」
武弥の言葉を受け、渋々益子に着いて行く事にした。
ほぼ初めて間近で見るビニールハウス。中では政孝が一人で作業をしていた。
「これ、お父さん一人で組み立てたの?」
「そうよ」
益子が念を押すように答える。
「政孝ー!」
益子は声高に息子を呼ぶと、
「婆ちゃんも作業に戻るからね」
と言ってハウスを後にした。
「今年も実ってるじゃん」
武弥がハウスに入り、しゃがんでトマトを覗き込んだ。政孝が栽培しているトマト『桃太郎』は、青々としていて出荷直前まで実っている。
「毎年台風にはヒヤヒヤさせられるよ。ほら」
政孝が微笑みながら出て来て、ビニールを指差した。見るとビニールに穴が開いている。
「八年前の台風で?」
「ああ。このハウスは耐久性が高いはずなんだけどなあ・・・・・・」
武弥は一人、ハウスを散策し始めていた。
「仕事は基本一人だからな。今はラジオが友達だ」
政孝は胸ポケットから携帯ラジオを出しながら笑った。その優しい笑顔に、何だか胸が締め付けられる思いがした。
「前に、オレの跡を継いでくれる青年と出会えるのかって言ったの覚えてるか?」
「忘れたくても忘れられないよ」
脹れっ面を装った。
「あれ、もう気にしないでくれ。今後は別姓の夫婦も増えて来るかもしれないしな。って、都合良過ぎるか?」
政孝は伏目がちに笑う。
本当よ……。
「最近まで仕事が忙しくて、気持ちに余裕が持てなかった。仕事のせいにしてはいけないけど、お前達の話に耳を傾けないで、一方的だったな」
この十年の内に、政孝の心にはこれまでの自分を自己分析するゆとりができていた。そこには、かつて威厳だけを保っていた父親は存在していない。
「やっぱ中暑っ!」
武弥が額から汗を流しながら出て来た。
「オレもJAの人に同じ事を言ったら、「トマトはもっと暑いんですよ!」って怒られたよ」
二人は笑い合っていたが、私は込み上げて来るものが抑えきれなくなり、何も言わずに急いで車を目指した。
車に乗った途端、涙が溢れ出て止まらない。悲しさでも悔しさでも、父を不憫に思った訳でもない。一つ言える事は、心をリフレッシュさせる、とても心地好い涙。
ハンドルに俯せになって泣いていると、
「私運転しようか?」
半開きにした窓から、武弥の呆れた声が聞こえた。
「お願い・・・・・・」
顔を上げ、涙を手で拭う。
「泣くような場面あったけ?」
「涙は心の汗って言うでしょ」
あれだけ涙が出たという事は、私の心には、相当な毒素が溜っていたのだろう。それが、やっとデトックスされたんだ。
窓を全開にしてドアに両腕を乗せる。
「ちょっと姉貴、クーラー掛けてる意味ないじゃん!」
武弥の尤もな不満を無視して顔を出すと、真夏の風が清々しかった。
夕方、ランと散歩に出た。もう老犬だというのに、散歩に行くと分かったらジャンプして喜んでいる。そしてのっけからダッシュ。みーんな長生きなんだね……。
今日は仲山城に行こうと思い、橋を渡り山道を進む。
<仲山城跡公園>に着くと、三人の子供が遊具で遊び、その光景を二人の母親が見守っていた。
城址碑の後ろに建つ祠の前へ行き、ご先祖様に日頃無事に過ごせている感謝と、長い間帰らなかった事を謝罪し、手を合わせた。
広場に戻り、親子から離れたベンチに座って一旦休憩。
「お座り」
ランもちょこんと座ったけど、基本落ち着きのない奴。直ぐにうろちょろし始めた。リードを確り握り、景色を眺めながらタバコに火を点けた。
『サッサッサッ』
背後から芝生を踏む靴音。段々と近付いて来る。振り返ってその人と目が合い、驚愕した。
「ここに来るだろうって思ってたよ」
「シオ・・・・・・何でここにいるの!?」
「君を追っ掛けて。っとしか言いようがない」
シオは悪戯っぽく笑いながら私の隣に座った。
「ワンワンワンッ!!」
ランが警戒する。
「大丈夫。この人知り合いだから」
シオが笑顔で「っよ!」と言うと、一応吠えるのを止めたけど、ジーっとシオから目を離さない。
「でも何で分かったの? 初めて来たんでしょ、この町?」
「おれはね。ここの城跡、ワカと縁があるんでしょ?」
「そんな事まで知ってんだ・・・・・・」
平安時代中期から、駿河国(現在の静岡県)北東部一帯を支配していた三田居氏は、駿河国内でも最古の豪族だった。伝承では石高は五万五千石くらいはあったらしい。
三田居氏は、室町時代から戦国時代に掛けて今川氏に属していた。
しかし、永禄三年(一五六○年)六月十二日。今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死すると、その後、駿河に侵攻して来た武田信玄に鞍替えした。
天正十年(一五八二年)。信長は徳川家康と共同で武田領国へ侵攻を開始し、同年四月三日、武田信玄の跡を継いだ勝頼が自害して武田氏が滅亡し家康が駿河国を確保すると、三田居氏は徳川氏に付いた。
時の有力大名の下風に立つ事で、三田居氏は平穏に領地を統治していたが、豊臣秀吉の天下となると、それは一変する。天正十八年(一五九○年)、秀吉の天下統一事業が完了し、新たな国割りにより家康は関東に移封され、三田居領の西隣には豊臣系の大名が入った。
この時、三田居氏当主だった若武には、秀吉から所領を安堵するという通知はなく、西隣の大名の領地にも、三田居領は含まれていなかった。これは発令者の重大な誤り、ケアレスミスである。
これが大名と三田居氏との間で所領問題を生じさせる因子となった。三田居氏にすれば所領没収の命令もないまま、領地が大名に与えられた事には納得がいかない。大名側にしても、三田居氏が滅亡したり追放されたりして領地をもらった訳ではなく、宛行状にも三田居領十八ヶ村の文字はなく無理にその所有権を主張する訳にもいかなかった。
そこで大名は、三田居領をも手中に収めようと画策し、若武と協議した上で、
「関白殿下(秀吉)へ謁見する為、大坂へ上った際、某が良いように執り成してございまする」と偽りを持ち掛け、若武も「何卒よしなに」ということになった。
三田居氏を擁護するつもりなど全くない大名は、秀吉と対面した際、「三田居は逆心を企てている模様でございます」と言上し、秀吉は憤怒するが「三田居の処置は某にお任せくださいませ」と返答。秀吉は大名に「任せる」と討手を委任した。
帰国した大名は、三田居氏の筆頭家老、柏葉宗摂に目を付け味方に引き入れる。
「我が方に味方した暁には、三田居に代わりそなたがこの領を収められるよう、関白殿下に取り持って差し上げよう」こう策略を掛けた。
この話に宗摂の心中は揺蕩する。家老から領主へ立身出世ができるという単純な欲。それと、三田居氏と柏葉氏はかつて領地争いで鎬を削っていた過去がある。しかし室町時代に起こった戦に惨敗し、三田居氏の下風に立たざるを得なくなった。
敵対していた三田居氏と柏葉氏だったが、宗摂は近隣の豪族との戦で数多の戦功を立て、若武から信任を受け筆頭にまで上り詰めていた。だが、若武を滅ぼして自分が領主となる事は、いわば先祖の雪辱を果たすに等しい。
宗摂は勘考に勘考を重ねた末、
「承知致しました」
と私信を送る。この瞬間、柏葉宗摂は大名の策略にまんまと引っ掛かってしまったのだ。
宗摂から私信を受け取った大名は、
「思惑通りじゃな」
静かにほくそ笑む。
実は大名は宗摂の家柄を精査していた。だからこそ家老に白羽の矢を立てたのである。若武は家老に敵の息が掛かっている事を、看破できなかったのだ。
天正十九年(一五九一年)九月二七日夜。宗摂の手下二十人と大名の軍勢百五十人は、三田居氏の本拠、仲山城に向け進軍した。
付近まで来た所で大名軍は待機し、九ツ(午前零時)になった頃、宗摂は一人で城に忍び込む。宗摂は筆頭家老であるが故、城の内部を熟知している。
若武は城内の屋敷で就寝中、宗摂に寝首を掻かれて殺害され、刀で首を落とされた。享年六五だと伝承されている。当時としては結構な高齢ではあった。
若武の首を刎ねた宗摂は城内に火を放って退散。それを合図に大名軍は一気に城に突撃した。この奇襲戦で三田居一族のほとんどが討ち死にし、若武の嫡男、若宣も最後まで応戦するも戦死。瞬く間に仲山城は落城した。
生き残った三田居一族、旧臣らは命を助けられ大名の支配下に置かれ屈服した。
殺害された若武の跡は三男の若信が継いだが、すでに昔年の勢いはなかった。
しかも若信は暗君な性質で、弟で四男の若氏が謀反を企てているとの讒言を信じて水牢に閉じ込めたうえ殺害。更に、兄弟の中で傑物とされて将来を嘱望されていた、五男の鎮武をも殺害してしまう。
その後、若信は酒色に耽り慶長三年(一五九八年)に子供がいないまま病死。同時に六百五十年余り、二七代に亘り相続されて来た三田居氏嫡流の血脈も断絶した瞬間でもあった。よって、うちは本家ではなく分家の子孫という事になる。
因みに主君を裏切った宗摂は後に、
「いとも簡単に反旗を翻すとは、言語道断である」
と策略を掛けた大名から攻め込まれ、敢えない最期を遂げている……。
「戦国時代には、本能寺の変みたいな事が全国各地であったんだよなあ・・・・・・」
「そういう時代だったと言えばそれまでだけどね。お家の為、自分がやらなかったらやられちゃうから」
シオは遊具で遊ぶ子供達の方を見た。
「あの子達が嬉々としているこの場所は、悲しい物語の舞台という顔も持っている・・・・・・」
こいつストーリーに酔ってるな。男、取り分け作家って、自分の世界に入ると主役気取りだから。
「裏切られた若武って人の一字をもらって、若なんでしょ?」
「っそ。もうアラサーなのに。年取ったら絶対からかわれる。四月で三十、知っとるけ~のけっ?」
両手の人差し指でシオを指した。「知っとるけ~のけっ?」。明石家さんまが、昔のテレビ番組のコントで演じたキャラのフレーズだ。
「オレだって十二月で三十。同じだ~がねっ!」
シオも私の真似をして両手で指差して来た。彼が私の前で戯ける姿を見たのは初めてだ。
「妹はたけみって名前なんだけど、若武の武と南無阿弥陀仏の弥って書いてね。友達からは「タケちゃん」って呼ばれたり、時々「たけや」って男読みされてムカつく事もあるみたいだけどさっ」
「そうなんだ。でも若って別に年だけじゃなくね? 精神はいつまでも若くあれって意味にも取れるし」
何だか照れくさっ!
「それよりよく勉強したねえ、よその町の歴史を」
「昨日資料館で売ってた郷土史の本でね」
シオは遠くを見詰めて一服した。
「平穏に領土を治めてた三田居氏を滅ぼした大名、知ってるよね?」
「神谷元種・・・・・・っん、神谷?・・・・・・まさか!?」
彼の顔を凝視する私と、シオは目を合わせてゆっくり頷いた。
「その成れの果て。オレは次男だけどね」
あまりの驚きで言葉が出ない。シオ、神谷汐弥は、私の先祖、三田居若武を滅亡させた、神谷元種の子孫だったのだ。
「初めて会った時から分かってたの?」
「いいや。三田居って苗字知った時「もしかしたら?」とは思ったけど、静岡出身って聞いた時やっぱ気になったからネットで調べたんだ。確信を持ったのは、昨日本を読んでから」
「一か八かで来た訳ね・・・・・・でも元種って人、確か江戸時代に罪人を匿った罪で改易されて、群馬県内の藩に預けられたんだよね?」
「そう。先祖はそのまま土着したみたいだけど、オレの爺ちゃんの代で東京に移ったんだ・・・・・・敵同士がセフレになるなんて、オレにとっちゃ奇跡だけど、ワカにしてみりゃ皮肉だよね」
シオはまた遠くを見詰めた。
「もしかして・・・・・・私に恋した?」
シオは無言でタバコの火を消し、携帯灰皿に入れた。
「好きでもない相手の地元に行く奴なんていないよ」
「恋愛関係になるのは御法度って決めたよね?」
わざとにんまりして確認すると、
「どんな罰でも受ける。敵の子孫だからってワカの親族が反対しても、覚悟はしてる」
シオの表情は真剣だった。
「ほーう」
今日は気持ちだけ受け取ると答えた。シオは今日中に東京に帰ると言い、途中まで一緒に帰って別れた。
今日は、良い意味で精神が動揺した日だ。と思っていたら……。
「あのう、ひょっとして三田居さんの娘さんですか?」
「……ええ、そうですけど、どちら様でしょうか?」
「突然声を掛けちゃって済みません。一度謝りたいと思っていたものですから」
見知らぬ男性は頭を下げる。はあ? 何の事……。
「あっ、オレ、柏葉宗摂の子孫の一哉です」
「そ、そうでしたか……」
今頃謝られても……とも思うけど、敵の子孫が二人も現れるなんて、今日の私の運勢って一位? 最下位?
でもかずやって人、服装はカジュアルだけどシオに比べて髪もブラウンだし見て呉れも紳士そうで超イケメン!
「何で私が三田居の娘だって分かったんですか?」
「いや、盗み聞きするつもりはなかったんですけど、さっき金髪にしてる男性が……」
「じゃあ若、また会社で!」。右手を挙げて発せられたシオの別れの挨拶がフラッシュバックする。
「……って聞こえちゃったんで、もしかしたらって思って声を掛けちゃいました。オレ、親から聞いて知っていたんです。三田居家には若さんと武弥さんっていう姉妹がいるって。済みません」
柏葉は再度頭を下げる。でも爽やかな笑み。
「いえ、気にしなくて良いですよ、そんな事」
私は動揺しながらも「かわいく」破顔。でも、私の親は何にも教えてくれない。敵だからだろうか。
「この町にお住まいなんですか?」
「いや、オレは今東京に。休暇取れたんで久しぶりに里帰りでもしよっかなあって」
「私も東京に住んでるんですけ、同じく休暇で帰郷したんです」
「そうですか。一緒ですね」
ジーンズのポケットから携帯を取り出し、
「あのう、連絡先交換しませんか?」
「え!? オレ敵の子孫ですよ。三田居さんは良いんですか?」
「だってこんな事って滅多にっていうか、普通あり得ないじゃないですか」
これも、奇跡だ。私にとっては……。
「まあ、そうですよね」
かずやも携帯をポケットから取り出した。
柏葉かずやと「無事に」連絡先を交換したけど、心は大いに揺蕩した状態で帰宅する。私にとっては別に悪い告知じゃなかったけど、揺蕩した後は何か凄い疲労感に襲われた。
今日の私の運勢って、一体何位だったんだろう。
翌日――
『ガラガラガラ!! ガシャンッ!! ガシャンッ!!!』
午後二時過ぎ、自分の部屋でファッション雑誌を読んでいると、外から尋常ではない物音がした。
「ねえ、今の何の音!?」
隣の部屋にいた武弥も部屋から出て来た。
「分かんないけどうちの敷地からだよね?」
二人で庭に出てみると、政孝と亮子が呆然と立ち尽くしている。離れた所で繋がれているランも気になるらしく、こちらを窺っていた。
「何があったの?」
政孝が目で「見てみろ」と合図した。下を見ると、庭のブロックが自壊し、下に建つ家の敷地内に大量に飛散している。義理の叔父の「補修した方が良い」というアドバイスが虚しい……。
為す術もなく全員が立ち尽くす中、
「フフフフフッ・・・・・・」
こんな状況で亮子が笑い出した。
「バカ! 何がおかしいんだ?」
そう言って妻を注意する政孝も半笑いだ。
「フフフッ……ハハハハッ!」
伝染したように私と武弥も笑い出し、気付くと家族全員が笑っていた。
「ちょっと三田居さん! 何なのこれ!?」
下段の家の奥さんが顔を出し、惨状を見て驚愕している。丁重に謝るべきところで、
「ごめんなさいねえ。フフフフッ・・・・・・」
亮子は尚も笑っている。
「済みません……ハハハッ」
政孝も同様。
「笑ってる場合じゃないでしょうよ!」
奥さんがツッコミを入れるが家族はお構いなし。家族で笑い合うのは十年ぶりくらい。それがこんな事態でというのも、何ともうちらしい――
了