結び目
何やら楽しい夢から耀は目を覚ました。天井のはしのカーテンから差し込む明かりがすでに黄色い。朝もなかばをまわっているのだろう。土曜だった。頭が軽い。それに反してからだはまだぐったりしているようだった。休日ぐらいはぐずぐずしてもいい道理だが、そうもいかない。予定があった。慧子が来る。耀は起きるやいなや、すぐさま思い出した。
なおベッドに浸かりながら、枕の上に手をのばし、ナイトキャップがわりに頭をつつんでいた赤いタオルをとって、額を覆った。いつものことながら寝ているあいだに、跳ねのけてしまう。それから腕をのばして携帯電話をひきよせると、十時前だった。秒針がすうっとながれるようにまわっている。
やはりアナログ時計にかぎる、と耀は思った。デジタル時計の有無をいわさない数字の配列は、ストレスにしかならない。目をつむった。しばらく夢うつつに浮遊するうちふたたび瞼をひらき、二三度まばたきして、こんどは静かに身を起こした。
十時半をまわっている。
耀は勢いよく立ちあがるなりカーテンを打ち開いて台所へ行き、布巾を手にもどってくると、テーブルやソファをひとふきし、それから歯磨きに時間をかけ、シャワーをあびて濡れた髪の毛に指をとおしながら部屋の掛時計を一瞥すると、十一時半になっている。
耀はベッドのはしに腰を下ろすと、じっと掛時計を見あげた。
秒針がひとまわりしても、分針はカチリと歩を進めはしなかった。つくづくと見なければ感知できないほどのゆるやかさで動いているのだ。耀はそれをいま初めて知った気がした。
髪をかわかして紺のチノパンをはき、黒のパーカーに腕を通そうとしたところで呼び鈴が鳴り渡った。
思わずびくりとして握り拳を天井へ突きあげながら肩をそびやかした。慧子が来るにしてもだいぶはやい。くだらない勧誘だろう。舌打ちして、無視を決め込もうとしたとたん、うるさく鳴り響いた。秒針がすうっとながれていく。細長い縫い針めいた銀色だった。眺めているとたちまち心が鎮まった。静かだった。
してみると敵はもう立ち去ったのだろうか? 今になってどんななりをしているのか気になった。確かめようと思うまもなく、今はまだ一階のべつの部屋をあたっているに違いないと気がついて、上げかけた腰をそのままに落ち着けた。
しかしそれにしても静かである。彼のところだけを狙い撃ちしたのだろうか? まさかとは思うものの、慧子だとしたら。
にわかに耀はドアへと忍び、フードをかぶって覗き窓に目をつけた。誰もいない。ドアチェーンをかけ、音を立てないようそっと鍵をあけた。ゆっくりとドアノブをまわす。すきまから細めにのぞくと、陳列された自転車がみえるだけで、人の気配はない。
ほっとして外にでると、平和な休日の静けさである。耀はこちらへ尻を向けてならんだ自転車のサドルを指先でトントンと叩きながら廊下をすすんだ。
道路をまたいだ茶色の家屋の頭上の秋空が雲一つなく晴れわたっている。こちらからは細めにしか見えない青空の死角から、元気な鳥たちの会話がとどろいた。
耀は歩道に降り立つと、右手の線路のほうを向いて額に手をかざし、仰向いた。けれども太陽をみつめる勇気はない。ちぎれたような雲がかすかに流れていく。それからしばし佇んでいると、うしろからリンリンと打ち鳴らす響きにおもわずアパートの壁へ身を寄せた。
が、予期に反して隣を過ぎ行く影はない。
折からブレーキの軋みをききつけ、両手をパーカーのポケットに突っこみながらちらと振り返ると、自転車にまたがった慧子がなかば前かがみにニコリとしていた。細い足によく似合うショートパンツをはいた片足をペダルにかけ、片足は地面をふんでいる。
黒のタイツにつつまれた膝頭が透けていた。スニーカーの結び目がゆるんでいる。ひざまずいてきゅっとしてあげたい。
「おはよ」片手をあげて、大きな瞳でほほえみながら慧子が声をかけると、
「おはよ。ちょっといい?」
と言うなり、耀は彼女のそばに寄って足元へしゃがみこみ、
「えっ、なに」
と、にわかに甲高くさけぶ彼女をよそに、するりと結び目をといてから今一度ちょうちょを作り直し、片手であごをつまみながらその出来を吟味しだした。ペダルにのせた片足を彼にあずけたまま、
「ねえ、恥ずかしいよ。ひと来ちゃうから」
という慧子の言葉には答えず、まっすぐ立てた人差し指を口元にあててみせ、こんどは反対へとまわると、きゅっと結ばれてふわりとかかる蝶結びを見つめながら、小首をかしげて、ふいに仰向き、
「いいよね?」
「なんのこと? ダメだよ。そんなことしちゃ」
靴紐の先をつまんで微笑んだまま有無をいわさぬような耀に、
「ダメ。やだ」慧子はイヤイヤするように首を打ち振った。
ほどけて結ばれるあいだじゅう──彼は紐のとおされた穴から、いくつか抜き取りさえしたのだ──慧子はきょろきょろあたりを見渡すうち、角をまがりこちらへむかって来る母子がみえた。
片手に買い物袋を提げ、片手に小さな娘の手をにぎりブラブラ打ち振っているその母親と目が合うやいなや、慧子はぽっとうつむき、
「ひと来ちゃったから、邪魔になっちゃう。ありがとう、でももういいよ」
そう優しく声をかけたそばから、耀はあおむいて彼女を見つめると、口元だけでにっこり笑ってみせ、むすばれた紐の先をそっとつまんだ。
読んでいただきありがとうございました。