第七十七話 想いと思い
芹緒と美琴は準備運動を済ませるとプールサイドに近寄る。
「芹緒さん、泳ぎは?」
「問題ないよ。美琴さんは?」
「私も大丈夫」
お互いがお互いの水泳力を確認して足を水につける。思ったより冷たくはない。温くて心地良い。
そこから身体に水をかけると芹緒はその場で軽くジャンプするとプールに足から滑るように潜っていく。
プールの水深は美琴の身長より少し低い程度。つまり立っても頭は半分水の中だ。
芹緒は結んでいない金髪を水中でゆらゆらと揺らしながら、バタ足だけで水中からいくつか見える足に向かっていく。
浮き輪から見える小さなお尻は水着から判断すると葵のものだろう。葵も身長が低い。遊ぶなら浮き輪が正解だ。
バタバタあっちこっち楽しそうに動いているのは姫恋の足だ。水を得た魚が如く、水に入っていてもすいすいと歩き回っている。
プールの床面に立っているのは二人。さくらと桜子だ。
さくらにイタズラを仕掛けたら大変なことになる。芹緒は潜水したまま背後から桜子に近付くと突然水面に飛び出して桜子の両肩に手をかけた。
「きゃああああ!?」
桜子の驚きの悲鳴が上がるが、芹緒の接近に気付いていたさくらはすまし顔だ。
「びっくりした?」
肩から聞こえる芹緒のおどけるような声に桜子は大きく安堵のため息をもらす。
「びっくりしましたわ……。優香様がこんなイタズラするなんて思わなかったものですから」
「ごめんね、プールにみんなを招待してくれた桜子さんに感謝したくて」
「感謝するなら他にも方法はありますのに……もう」
そう言いながらも桜子の声音は嬉しそうだ。
近くではしゃいでいた姫恋も芹緒と桜子に近寄るとがばっと抱きついてくる。
「アタシも感謝感謝!!」
姫恋の飛び込み抱きつきの勢いで三人はそのまま倒れて水中に投げ出されてしまう。
芹緒は注意深く桜子を見る。そして泳げることを確信するとそのまま再び潜水で今度は葵に近付く。
「ばあ!」
「おお、優香空元気」
「……」
やはり葵には通じない。
先ほど芹緒姿の美琴に対して見せてしまった自己嫌悪による失態、そして紫苑有栖との軋轢をみんなに見られてしまったことへの後悔。そんな感情は葵にはお見通しだった。
桜子と姫恋はすでに立ち上がり、そこに美琴も加わって水を掛け合って楽しそうに遊んでいる。
そんな二人を横目に葵は言葉を続ける。
「心配ない、みんな優香の、コンプレックスくらい、知ってる。美琴は、欲望に忠実な、だけ」
浮き輪に寄り掛かる芹緒の頭を葵はそっと撫でる。美琴に続いて二人目だ。女子中学生に撫でられる大人はどうなのか? そう考えた芹緒の感情を読んで解析した葵が言葉を紡ぐ。
「大人とか子どもとか、関係ない。可愛いものを愛でたい気持ちは、一緒」
「でも僕はみんなにこれ以上迷惑かけたくないから」
「それも無用。優香はもっと、自分の感情、曝け出すべき」
芹緒の心からの言葉も葵は気にせず、むしろもっと曝け出せと言う。
「希望も欲望も全部。ずっと溜め込むの、良くない」
芹緒からすれば葵の言葉はただの誘惑にしか聞こえない。
「……君たちを滅茶苦茶にしたいと思っても?」
「お互いそう思ってるから問題ない」
「……」
芹緒は内心頭を抱える。
芹緒が大人として、倫理観で欲望を押さえつけている男として、女性に対して触れることが出来なかったコンプレックスからの欲望を口にするが、葵にはどこ吹く風だ。たぶん美琴も桜子も同様だ。このお嬢様方は大人の男の欲望に対して全く怯まない。そして彼女たちが芹緒を滅茶苦茶にしたいというのもウソではない。
葵たちが芹緒に対して好意を抱いている以上、芹緒が彼女たちに対して抱く性欲は、彼女たちにとって追い風にはなっても離れていく理由にはならない。
まだ上流社会に馴染んでいない、庶民感覚の抜けない姫恋にこんな欲望をぶつけたら流石に逃げ出すだろう。
そう考えたが姫恋のオープンな生理の態度を思い出し芹緒は考え直す。同性であってもあそこまで曝け出さないと思う。他の男性ならともかく、芹緒が言えば姫恋は断らないかもしれない、と。
芹緒は慌てて首を横に振って邪な考えを頭から追い出す。
今の肉体が男でなく女で良かった。男だったら今頃は仄暗い欲望への承認に下半身が反応していたに違いない。
「……そういうことは言っちゃダメ」
芹緒はなんとか言葉を捻り出す。もちろん葵はその言葉とは裏腹の芹緒の感情を読んでいるだろうが、それでも言葉にしないとこのまま流されかねない。
「そう?」だが葵は芹緒の大人の言葉をやはりさらりと流す。「言葉にして、何度も、何度も想いを優香にぶつけないと、優香は想いに、応えてくれない、よね?」
「その場限りならともかく、人生を賭けて、っていうのはあまりにも厳しすぎるでしょ。想像すらつかないよ」
「愛は困難を、乗り越える、そう私も、信じたい」葵は頬を少し朱に染めて顔を横に背ける。「私たちも、家族愛以外は知らないから」
「……」
彼女たちは何度も言うがまだ中学生だ。そして箱入りのお嬢様でもある。
確かに彼女たちはすでに閨事を仕込まれているだろうが、それは全て相手を悦ばせるための『手段』にすぎない。
彼女たちは基本的に相手は親や家の都合で勝手に決められ婚姻を結ぶ。そこに愛があるかは誰にも分からない。
そんな立場にある彼女たちが、芹緒に抱いてしまった『好き』という気持ち。
これはその相手の芹緒ですら否定出来ない、彼女たちだけの大切な想いだ。
芹緒に出来るのはその気持ちに応えるか拒否するか。それだけだ。
そして彼女たちは、ただ夢見る少女ではない。家というものがありながら、それでも芹緒を『好き』という気持ちに素直に動いている。その行動に損得感情などない。
眩しい。
芹緒は素直にそう思う。
芹緒は彼女たちに好意こそ抱いても、まだ想像出来て『ワンナイトラブ』くらいの気持ちでしかない。彼女たちの人生を背負って人生を生きる覚悟など出来ていない。これが中年弱者男性の想像の限界だった。
「優香、一人で背負う必要はない。二人で、みんなで背負おう?」
葵の力は厄介だ。
芹緒の感情を読み、芹緒の考えを推測し、芹緒が欲しい言葉を見つけて誘惑してくる。
「甘えていい。大人とか子どもとか、関係ない」
葵が腰を曲げて浮き輪から下へ抜け出すと、そのまま芹緒の近くに浮き上がって抱きついてくる。
葵の赤い顔が芹緒の目の前に迫る。無表情なのに瞳だけが潤んでいる。女の子はズルい。
「優香、好き」
その言葉とともに葵が芹緒に口づけをしてきた。芹緒を逃さまいと強く強く抱きしめる。葵の足が芹緒の足に絡む。葵の舌が芹緒の口腔内に侵入してくる。芹緒の舌は逃げ惑うが葵の舌は的確に捕まえ絡め取る。
「んっ、んんっ///」
芹緒はされるがままだ。それが葵と芹緒の今の気持ちを示していた。ただ受け身でしか好意を受け取れない芹緒。
「んっ……。大丈夫、優香。優香はそのままでいい。私が、私たちが、何とかする」
唇を離し、まるで乙女のような態度の芹緒を前に、立場がまるで逆転したかのような男前な台詞を葵は言い、芹緒の頭を自分の胸で抱きしめる。薄くても確かにあるふくらみ。そして弾む鼓動。
だが芹緒が入れ替わっている美琴と葵の身長はほぼ一緒。先ほどわかったようにこのプールの深さは芹緒がまっすぐ立っても頭半分しか出ない。そんな芹緒と同じ身長の葵が芹緒の顔を自分の胸の高さで抱きしめたら。
「芹緒様!」
それにさくらが気付いたのは、水中に頭を沈ませた芹緒がぐたりとなったあとだった。
「優香、ごめん」
芹緒が目を覚ますと側にいた葵が謝ってきた。
幸い芹緒が気を失っていたのはほんの数分らしい。
(この身体になってからよく意識を失うな……)
芹緒はぼんやりした頭でそう考える。
伊集院家でのぼせたりもしたし、今回もだ。男だった頃は意識を失うことはなかったので、女性は意識を失いやすいのかなと思ったが、よく思い返してみれば男だった頃はあの体で無理をしたこともされたこともない。意識を失うほど無理をしないのだからそんな経験がないのは当たり前だ。
芹緒が起き上がると、傍にいたさくらが声をかける。
「ご無理はなさらないほうが」
「大丈夫。さくらさんありがと。葵さんも気にしないで」
「うん」
さくらは無言で頷き葵はこくんと頷く。
桜子たちは近くにはいなかったが先ほどと同じ場所でこちらを見ていた。あまり大げさになっても困るので助かった。
芹緒は目立ちたくない。自分なんてみんなの輪の外にぽつんと一人いるのがお似合いなのだ。そう思っている。
大きく手を振るとみんなが手を振り返してくれる。
正直ずっと孤独で女性とは無縁の人生を送ってきた芹緒にとって、それでも今の環境はとても嬉しいしありがたい。
これ以上望んだら罰が当たる、というかここまでは無料で、ここから先は努力という名の課金が必要だ。
彼女たちの言葉を今まで真剣に考えたことはない。
それはそうだろう。
仮に彼女たちの言葉を受け入れれば、彼女たちの両親や家を相手することになる。
今までただ死ねなかっただけのゾンビのような生き方をしてきた芹緒が、家格の高い人々に対し、提示出来るものなど何もない。
これが男女逆であれば、次期当主である美琴たちが女である芹緒を妾にするという話であれば、問題は何もないだろう。
正妻ではなく妾なら力の有る無しも関係ない。
年齢差も関係ない。上流社会では老男性が若い女を囲うことも珍しくないと彼女たちは言っていた。
壁が高すぎる。
そしてさらに仮定を重ねて、彼女たちの両親や親戚から認められても、九条家、伊集院家といった家を動かさなければならない。
葵は『私たちに任せて』というが、彼女たちの想いに何も返せないのはもどかしい。しかし中年と呼べる年齢で男に戻ってもこれから何かを為せるとも思えない。
だから芹緒は今まで真剣に考えてこなかった。
そういえば姫恋が両親に会ってほしいと言っていたか。
そこで自分はこの夢から覚めて現実を知るのだろう。
その現実の世界で芹緒はなお、彼女たちのために前に進めるのか。
芹緒は無理に決まっている、と横になったまま自虐的な笑みを浮かべる。
彼女たちには悪いが、どれほど彼女たちの想いが強くとも、芹緒が仮に前向きになったとしても、『現実』という大きな壁は越えられないだろう。
一定の納得をしたことで満足した芹緒は身体を起こし、さくらに連れられてビーチシートに横になる。サイドテーブルにはフルーツだらけのカラフルなドリンクが用意されていた。つつじが静かに頭を下げる。
夢はいつか終わり、現実がやってくる。
今はただ、芹緒は目の前にある夢を楽しむ。
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