第七十話 仮面
美琴の部屋についた四人は、美琴の勧めで窓際のソファーセットに腰を下ろす。
美琴の部屋は邸宅の二階にある。そしてそのソファーセットからは九条家の庭が一望出来る。
だが普段ならすぐにベランダに駆け出していきそうな姫恋は、今日はソファーに座ったままそわそわと美琴の言葉を待つ。
それとは対照的に、美琴はソファーに背中を預けて目を閉じている。桜子や葵も同様だ。
しばらくして使用人たちがお茶やお菓子を持ってきて下がると、美琴は口を開いた。
「私たちのライバルになりそうな彼女たちについて。相談しましょ」
「あの事件の際、私が見かけた人数はざっと二十人ほどでしたが……さすがに全員が全員、優香様になびく訳ではないと思うのですけれど」
桜子が当時の様子を顔をしかめながら口を開く。同じ女性として吐き気がするほど悲惨な有様であった。だが、あの状況と今芹緒になびいているのは分けて考えられる。
「うん。一人は家族と家に帰るって聞いた。でも今芹緒さんの近くに五人、それに対して家に帰ったのは一人。割合多いよね?」
「比率でいうと十五人位でしょうか……さすがに内部分裂起こしそうですけども」
「彼女たち以前に」葵が無表情のままお茶で口を潤して言う。「私たちが、まだ親に話してないのが、問題」
「なんだよねえ」
「そうですね……さすがにまだ優香様を両親に紹介するまでには至っておりません。美琴様と違って私の許嫁はまだそのままですし」
「「「はあ……」」」
そうなのだ。
彼女たちがいくら芹緒を旦那(嫁?)に迎えようとあれこれちょっかいを出していても、彼女たちの一存では何も決まらない。
両親や親族に正々堂々と紹介しなければならないのだ。
だが、今の芹緒の姿は美琴の姿。美琴姿の芹緒を親族に紹介しても意味はない。そもそも事情を知っている九条家はともかく、何も知らない伊集院家や芹澤家、中川家はどこから説明するべきか。
そしてこれも美琴はクリアしたが、桜子にはまだ正式な許嫁がいる。その許嫁を正当な理由で変えてもらわねばならない。葵や姫恋は許嫁がいない分まだ桜子よりはマシだが、それでも美琴姿の芹緒を紹介するのはハードルが高い。そして芹緒の姿が元に戻ったとしても彼との年齢差は明らかに問題になるだろう。
何せ九条道里と同年代、桜子の母親より年上なのだ。
他の両親とは少しだけ芹緒が年下というくらいである。
この年齢差で娘を嫁に出す許可を出す親はそうそういない。力があるならともかく、元の芹緒に力はないはずなのだ。
だからこそ彼女たちは『芹緒家』の擁立なんていう無茶を考え、そこの第二婦人などを狙っているのだ。
それをあの仮面の女性たちに横からかっ攫われたらたまらない。
「あー……」そこに姫恋が少し気後れした感じで声を出す。姫恋にしては珍しい。「アタシ親に今度会ってって言っちゃった……ダメだった?」
「姫恋……」美琴が頭を抱える。「芹緒さんと私、どっちを連れていくのよ」
「二人とも? ちゃんと説明したらいいかなって」
「姫恋、二人の入れ替わりは九条家の、秘密。打ち明けた時の優香の態度、忘れた?」
「いや、うーん、家族までならいいかもだけどさあ、でも一人だけ抜け駆けはズルいわね」
「ごめん」
「あっちの女性たちもさすがに芹緒さんが元に戻るまでは何もしないとは思うんだけど。でもあと一ヶ月半か……。私たちと既成事実作るにしても芹緒さんと許嫁状態ならともかく、上流社会に何の関係性もなかったら芹緒さんが逮捕されちゃう。彼女たちのほうが有利だわ」
「優香様に後ろ盾がないのが厳しいですわね……。あの方たちでしたら優香様のお手付きで済むことが、私たちですと立場がありますから」
「それでもこちらも動くべき」
「ちょっとお父様に連絡しておく。『芹緒さんを伊集院家、芹澤家、中川家に紹介します』ってね」
「許可いただけますでしょうか?」
「連絡したら問題ないでしょ」メッセージを父に送った美琴はあっさりと言う。「待っているだけはもうやめたわ」
「芹緒様、紅茶です」
「芹緒様、お菓子です」
「芹緒様、お洋服を準備いたしました」
「お肩をお揉みいたしますね」
彼女たちの控室に着いた芹緒たち。仮面の女性たちは椅子に腰掛けて集中している芹緒に甲斐甲斐しく世話を焼く。というか構ってオーラがものすごい。
「ありがとうね」「美味しいね」「今日はこの服でいいよ。ありがとうね」「肩は大丈夫だよ、ありがとう」
精神集中していた芹緒はそれでも毎日一人一人に声をかける。
芹緒は嬉しくてたまらない。女性にチヤホヤされていることではなく、彼女たちが自発的に動いていることに対してだ。
生きる気力を失い紫苑鷹秋の肉人形と化していた彼女たちが、今は弾むような声で楽しそうに芹緒に話しかけてくれる。
あの絶望していた姿を知っているだけになおさら喜ばしい。
彼女たちは自分たちの身体を密着させて柔らかい部分を芹緒に『当ててんのよ』してくるが、葵なんかは芹緒の手を取って自分の胸を触らせてくる。それに比べれば芹緒には対して気にならない。無意識で女性同士のスキンシップなんて微笑ましいと思っている。
そんな彼女たちの活発さが芹緒の心にエネルギーをくれる。
「それじゃあ行ってきます。皆さんも頑張ってね」
そう言って芹緒が部屋を出ていく。その小さな後ろ姿に頭を下げる彼女たち。扉が閉まると彼女たちはいっせいにため息をつく。
「芹緒様、やっぱり女性の姿だからスキンシップには動じないんでしょうか」
「かもしれませんわね。あの世界で出会った芹緒様とだったら私いくらでも奉仕しますのに」
そう言ってグラマラスな仮面の女性は腕を組んで豊満な胸を強調する。
「あれほどずっと私だけを心配してもらえたのは生まれて初めてですもの。あの愛をまた向けてほしい……」
「一生分いただいたと言っても過言ではないかと。でも、欲しいですわね……」
「皆さん、訓練をしましょうか。芹緒様が戻られたときに私たちに落胆されませんように」
仮面の女性の中で一番早く目覚めた、つまり最初に芹緒に救われた女性はそう言って訓練を始める。他の女性たちもそれに続く。
そして彼女たちは自分たちに与えられた控室でそれぞれ勉強を始める。
彼女たちは家を捨てた。
自分から捨てたものもあれば家族から捨てられた者もいる。
紫苑鷹秋によって辱められた自分たちの存在が、家族にとってスキャンダルになりうることは十分理解している。
それでも彼女たちに悔いはない。
新たに生きる道を指し示してくれた芹緒に恩返しするために。
今は九条家でメイドの修行をしているが、九条家や芹緒からはメイドを強制されたわけではない。ただ働き口としてまずはどうか、というだけだ。
彼女たちが望めばそれ以外の道も用意されている。さすがに上流社会で顔と名前を出すことは難しいが、それも不可能ではない。彼女たちさえ望めば九条家がそういった道も準備してくれると芹緒は言っていた。
彼女たちは自由だ。その上で彼女たちは芹緒つきのメイドを目指して勉強している。
芹緒からは『僕は元に戻れば一般市民だからメイドさんは……』と言っていたが、それはそれで都合がいい。芹緒を支えたいと願う彼女たちで芹緒を養うだけだ。つまりヒモ生活。
芹緒は彼女たちの砕けた心を元に戻す過程で彼女たちの心を見ている。同時に彼女たちも芹緒の心を見ている。
芹緒のぶよぶよに太った体。
弱虫な心。
頭でっかちで行動出来ない意思。
そして芹緒が未だに自殺を考えていること。
全て知っている。
それら全部を含めて彼女たちは芹緒が愛しい。
確かに男性的な魅力は乏しいだろう。だが芹緒にはそれを補って余りある愛情がある。ただその愛情も自身の体を醜いと貶め他人とろくに関わろうとしなかった結果、誰にも伝わらなかった。
芹緒は愛情に飢えている。
そして心を砕かれた彼女たちも愛に飢えていた。
芹緒の愛情という名の水を注がれて、彼女たちの心は立派に花開いたのだ。
そんな愛情溢れる芹緒が、自殺を考えていることが分かったときは驚いた。
なぜその心境で私たちに生きろというのか。
そう問われた芹緒はただ一言。
『君たちには未来があるから』
芹緒は自身を醜いモンスターだと自認し、年齢ももう遅いと自分を諦めている。
だけど貴女たちは違う、奪われたものは取り戻せないけどやり直せる。今からでも遅くない、未来への道はあるから。そう説いた。
そして芹緒に愛を未来を注がれた彼女たちは芹緒に恋をした。
だがここで困ったことが分かった。
芹緒は今まで家族以外の他人、特に女性に愛されたことがないため、恋愛感情に疎い。ないといってもいい。
芹緒の内心には思春期時代への強烈な渇望があった。恋に恋する時期に未知の希望あふれる恋愛の道を手をとって歩きたいという願い。
だけど現実ではそれは叶わず、芹緒はただいたずらに歳を取り続けた。そして全てを諦めた。
芹緒が自分たちを救ってくれたのは優しさ、愛情だけではない。
『こんな自分でも役に立てるから』
狂おしいほどの存在価値への渇望。芹緒の愛情の源泉はそれだ。
だからいくら彼女たちが心から愛を語りかけても、芹緒には全く伝わらない。
これがマンガやアニメの鈍感主人公ならまだ良かった。
彼らは鈍感なだけで他人からの直接的な愛情には気付くことは出来る。
だが芹緒には直接的な愛情をぶつけても信用してくれない。なまじ頭でっかちで知識だけを詰め込んだ分、他人から差し出される愛に対して猜疑的すぎる。理由を求める。
芹緒の渇望には届かない。
そんな状況で先ほどの可愛いお嬢様たちだ。
彼女たちからは分かりやすいほど芹緒好き好きオーラが感じられた。
別れ際ちょっとした挑発をしてみたがとても可愛い反応をしてくれた。
彼女たちは芹緒の『思春期をやり直す相手』として格好の存在だろう。
幸い芹緒はまだ自身の本当の欲望に気付いていない。だからまだ彼女たちは自分たちに対して優位を取りきれない。
元々自分たちもお嬢様だったから分かる。彼女たちは何がなんでも、どんな手を使ってでも芹緒を自分たちのものにしようとしてくるだろう。
その過程で芹緒の渇望に気付く者が現れるかもしれない。芹緒の心の飢えを満たすのが自分でありたいと願いながらも、誰でもいいから芹緒を助けてあげてという相反した想いを仮面の女性は持っている。
それはそれとして。
「皆さん心を癒して家に戻られるといいのですけれど」
そう願った彼女の想い虚しく、芹緒はまた一人、自身の首に抱きついたグラマラスな女性を彼女たちに紹介するのだった。
九条邸は広い。
屋敷だけではなく庭まで広い。
多くの使用人が働き、その誰もが紫苑有栖の姿を見ると手を止めて頭を下げてくる。
皆有栖の性格を知っているのか、わざわざ声をかけてくる者はいない。有栖もわざわざ舗装された道を外れてまで使用人に突っ掛かりはしない。それでも使用人たちからはしっかりと敬意は感じる。
ムカムカする。
有栖はふん!と鼻息を鳴らす。
ここは気に入らない。
紫苑家の邸宅よりも過ごしやすい。気に入らない。
使用人たちは声こそかけないものの、有栖を怯えるような目で見てこない。気に入らない。
有栖つきのメイドたちは紫苑家から連れてきたが、ここのメイドに及ばない。気に入らない。
あらゆる面で紫苑家が格下だと突きつけられているようで、気に入らない。
有栖は赤い豪奢なワンピースを翻しながら、行く宛もなく庭園を歩く。
そしてガゼボを見つけるとベンチに座り、スマホを開く。
結局のところ、有栖には行き場がない。
特に美琴姿の芹緒が来ると有栖の行動が何故か制限される。
だから有栖は芹緒が来る前にいつも部屋を抜け出す。
ショッピングという気分ではないし、買っても置くのは自宅ではないのが癪だ。
与えられた自室に引き篭もるというのも負けた気分になる。
そして大抵辿り着くのがここだ。
かと言ってここでスマホを開いているのも十分負けた気分ではあるが、天気が良い分まだ精神的に良い。
どうせ合図をすれば自身のメイドがおっかなびっくりやってくる。
大体、あの醜い中年男がここで客人扱いされてるのも有栖には理解出来ない。それも娘の身体を乗っ取っているというのに。
有栖だったらそんなことされたら間違いなく自死を選ぶ。あんな醜男に自分の身体を好き勝手されるなんて考えただけで鳥肌が立つ。
しかもその入れ替わりで父との許嫁が解消されるなんて笑い話にもならない。美琴を『お母様』なんて死んでも呼ぶ気はないが、それでも父がそのためだけに自身より年下の九条道里に媚を売っていたのも知っている。
父のプライドの高さは知っている。何度有栖もその身に降りかかる鉄拳で思い知らされたか。
そんな父がプライドを捨ててまで得ようとしていた獲物に逃げられた。
聞けばその入れ替わりには再現性もないと聞く。そんなたまたま発動しただけで力認定するだなんて舐められたものだ。
確かに誘拐は犯罪だ。それは有栖も認める。
だが物事には全て原因がある。
九条美琴が許嫁を解消したから、父は追い込まれて誘拐という犯罪に手を染めたのだ。
人間追い込まれれば判断力も鈍る。追い込んだのは九条家だ。
そして行き場のなくなった自身がここにいるのも親の罪を自覚しろと言われているようで腹が立つ。
有栖はスマホでゲームを起動する。
そのゲームはMMO。
際限なく金は注ぎ込み、キャラはワールドでもトップクラスだ。トップでないのは単純に様々なイベントやギルド関連を無視してその分の報酬がないからだ。その報酬にしたってただの名誉だの見た目だののお飾りだ。
有栖はゲーム内チャットをのぞき込む。
ギルドにこそ所属しているが、特に何かをするわけではない。それでも有栖のキャラの強さや知名度だけでギルドではチヤホヤされる。そういうのはウザい。
今見ているのはそういうのとは関係ない、ただのゲーム内フレンドだ。
有栖のキャラの強さや知名度ではなく、ただキャラ名『アリス』に対してフレンドリーに接してくれる『ユウカ』。
最近は『忙しくなるかも』と言ってきて朝や夜の挨拶くらいしか帰ってこないが、一時期はチャットばかりで楽しかったものだ。
博識で常識があり、有栖のワガママな考えに対しても多方面的な考えを披露する女キャラ『ユウカ』。
ニートか専業主婦かネカマか。それはどうでもいい。
ただ話していて楽しい。
『紫苑有栖』という外見にとらわれず、有栖の考え方や気持ちに一定の距離を保って接してくれるその関係は心地よかった。
本当は今こんな状況だからこそ、『ユウカ』とは話をしたい。
だがそんな切望も有栖のプライドが邪魔をする。
ただ一人、スマホの前。
そこでだけ有栖は仮面を外して一人の少女として息をする。
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