第六十四話 初潮
「懐かしい感じだねえ」
姫恋はそう言いながら夜空を見上げる。その声には少しの寂しさがこもっている。
姫恋の声につられて、芹緒も足を止めて空を見る。あいにくの曇り空だが、まだ陽が暮れてばかりのまだ明るい空に、薄白い雲が全体に広がっている。
「姫恋さんも夜歩くのはお嬢様になってから減った感じ?」
芹緒の問いに姫恋は「うん」と答えるとさらに言葉を続ける。
「お父さんがお金持ちになってこっちに引っ越したからね。知らない街だしお金持ちの娘ってことでお父さんもお母さんも夜は危ないからダメって」
「それはそうかもね。小学校のお友だちとも離れちゃったんだっけ」
「うん。美琴たちと会えたことはいいことだけど、それとは別にやっぱりね?」
「うん。僕も就職の時ほぼ強制で地元からこっちに来たから、気持ちはわかるなぁ。あの頃はSNSもなくてメールくらいだったから、メアド知らない子とは疎遠になっちゃったな」
「そっかー。アタシはみんなとSNS交換してるけど、やっぱりみんなの話題にはついていけないよ。アタシの話なんて『うらやましー!!』くらいしか返ってこないし」
喋りながら姫恋がつないだ手をギュッと握る。芹緒も優しく握り返す。
姫恋の手は柔らかくて温かくて、とても触り心地がいい。ただ今は、芹緒の体温を分けてあげたい気持ちだ。
子どもの頃の引越しはとても大ごとだ。
今までつないできた学校や近所の友だちの輪が壊れ、文字通り世界が変わる。
家だって住み慣れた幼い頃からの思い出のある場所から離れてしまう。
芹緒も子どもの頃は家や生活空間ごと移動出来る漫画やアニメ、そしてキャンピングカーに憧れたものだ。
いつもの姫恋なら『新しい環境ワクワクしてたんだ!』くらい言いそうだが、彼女はこちらに引っ越して入学した、お嬢様学校の聖桜女学園の空気に馴染めなくて困っていた。そんな場面を美琴に助けてもらっている。
いつも明るい姫恋が途方に暮れてしまうくらい、彼女の人生にとって引越しは本当に大きなイベントだったのだろう。
「優香さんも中学校は同じ小学校のみんなとは違うところ行ったんでしょ? 寂しくなかった?」
「僕は地元から電車だったからね。それほどみんなと違うつもりはなかったんだよ。……元々友だちもそれほどいなかったから寂しくはなかったけど、たまにみんなの集団に会うと、やっぱり距離というか溝は感じたかな」
「へえ、優香さん優しいのにお友だち少なかったの?」
「泣き虫だったしね」芹緒は当時を懐かしむ。『泣き虫優香ちゃん』とよくからかわれていたものだ。「あとは友だちと遊ぶよりも本を読むのが好きだったから。図書館にある本を下校中読みながら帰ったり」
「歩きスマホだ!」
「今だとそうなるかも」
姫恋があははと声を上げて笑う。やっぱり姫恋には笑顔がよく似合う。
「私たち友だちだもんね?」
「あはは……」
「お○○○見せ合った仲だよ!!」
「声が大きいよ!?」
「あははは!」
芹緒が順調に結婚をして子どもがいれば娘くらいの年であろうくらいの子に、『友だち』と言われてむず痒いが、恋愛対象よりかはまだ受け入れられる。
「そういえばさ」姫恋が何の気なしに尋ねてくる。「優香さんの好きな女性のタイプってどんな感じ? やっぱりおっぱい大きい子? 美琴みたいなのがタイプ?」
「げほげほっ!?」
姫恋は話題を急転換させるのが好き、というかそういうクセがあるのかもしれない。
急な角度から飛んできた質問に芹緒は困惑する。おっぱいとか美琴とか。
「胸のサイズよりも好きな人の胸は好きなんだと思うよ」
「おっぱいのサイズ、大きいの好き? 小さいの好き?」
芹緒にしてみれば、というか男なんて所詮、さわることが出来るなら大きさはどうでもいいはずだ。さわれないおっぱいなぞ絵に描いた餅以下だ。見るのも素晴らしいが、やはりさわりたい。
だがそんなことを言った日には、姫恋たちから『おっぱいさわらせようアタック』が始まるのは目に見えているので言わない。さわりたいがそんな下衆な欲望を子どもに聞かせたくない。そもそも今ならこの身体でさわり放題だ。……それもどうかとは思うが。
「男にとって女の子の胸はあるだけで幸せな気分になれるから。サイズじゃないんだよ」
「じゃあ好きになる人はどんな人? 芸能人でも私たちの誰かでもいいよ」
芹緒が無難な回答をするがおっぱいから人へ、姫恋の追求は止まらない。
芸能人はともかく『私たちの誰か』なんて答えるつもりは毛頭ない。答えたら大惨事だ。
そして芹緒はテレビを見ないし、そもそも画面の中の平面の三次元の女性に興味がない。同じ平面画面の中なら、二次元の女の子のほうが好きなのが芹緒である。
もちろん自分の目で見る三次元の綺麗な女性には目を奪われるが、大抵芹緒には縁もゆかりもない女性である。芹緒は横目で見て『綺麗だな』『可愛いな』と思って通り過ぎるだけだ。
かといってここで二次元の女の子キャラクターを例示するわけにも行かない。その行為がどれだけ女性を、人間をひかせる行為なのかくらい分かっている。
だからここでも無難な回答をする。子どもの頃から漠然と思い描いていた男女の理想の関係を。
「お互い背中を合わせて好きなことが出来る関係かな」
「うーん?」
芹緒の回答に思った通り姫恋は首を傾げる。芹緒の答えはあまりにも抽象的すぎる。顔も身体も好みとしてあげてないのだから。
「一緒にいてお互いがお互いを変に意識せず、安心して自分の好きなことをして、でも相手の温かさは感じたい、って感じかな」
「優香さんは外見とかの好みはないの?」
「あはは」芹緒は自虐気味に笑う。「僕の外見がよろしくないのに、相手に要求するのっておかしくない?」
「まーたそういうこと言う」姫恋が繋いだ手に力を入れる。「今の美琴の姿じゃなくて、前の優香さんの写真も美琴に見せてもらったよ? 確かに太ってるけど可愛いよ」
「男性は可愛いと言われても嬉しくないんだよね、でもありがと」
姫恋は素直だ。芹緒が入れ替わってから知り合った人の中では一番といっていい。そんな彼女から芹緒の姿を否定する言葉が出なかったことに芹緒は素直に感謝した。
だが姫恋の中では次の話題に移っていた。
「じゃあ年下と年上どっちが好み?」
「……」
芹緒は沈黙する。もちろん年下だ。男なら大抵年下と答えるのではないか? だがこの場で真っ正直に『年下』と言うとまたかん違いを生んでしまいかねない。
年下は年下でも『自分より相対的に年下』であって、『絶対的な年少』という意味ではない。
二次元ならロリからお姉さん(二十代)まで行けるが、それは二次元だからだ。二次元を楽しむとき、自分の年齢は棚に放り上げる。
「本来の僕の年より3歳位年下かな」
世間体を気にして思ってもいないことを口にする。芹緒の好みはずっとずっと下だ。
恋愛をしたことがない芹緒は、だから恋愛に憧れている。
今の年齢で、今の姿で、恋愛が出来るとは思っていないから。
そして愛されたいから、芹緒は生まれ変わるなら『女』ではなく『女の子』になりたかった。誰からも愛される『少女』に。
「私たちはOKと」
「姫恋さん?」
「小学生もいけると」
「姫恋さーん!?」
「あははは、冗談冗談!!!」
どうにも芹緒は姫恋たちには弄ばれる運命らしい。
そうしておしゃべりをしているうちに目的のショッピングビルに到着した。
「おトイレ行こ」
ショッピングビルに入るなり、姫恋はそう言って芹緒の手を引いて女子トイレに入っていく。歩いているうちに催してしまったのだろう。
連れて行かれる芹緒的には、トイレに一緒に行くことの意味は見いだせないが、女子がよくグループでトイレに行くことは知っている。これもそんなものだろう。
女子トイレに入ること自体に心理的抵抗はまだあるが、今の芹緒の見た目で男子トイレに入るわけにはいかない。
個室に入っていった姫恋をしばらく化粧室から眺めていたが、自分も催す前に済ませようかと個室に向かいかけたその時。
「優香さん……優香さん……」
姫恋の入った個室から、自分を呼ぶ弱々しい姫恋のかすれ声が聞こえた。
芹緒はすぐに姫恋の個室の前に行くと、そっと声をかける。
「姫恋さんどうしたの?」
「血……血が……」
呆然とした声でつぶやく姫恋の言葉で、芹緒はすぐに姫恋の身に何が起きたか気付く。姫恋に生理が来たのだ。
「姫恋さん、生理用品持ってきてる?」
「どうしよう……」
姫恋の声はショックで震えていて、芹緒の声が聞こえているか分からない。
ショックを受けるのは当然だ。
自分の身体からケガもしてないのに血が出るなんて、知識として知っていても実際に見てしまえばショックだろう。姫恋はまだ十三歳の女の子だ。
女の子はみんな通過する成長過程とはいえ、それをすぐに受け止められるどうかは個人差があるはずだ。
「姫恋さん落ち着いて。何か僕が助けられることある?」
「わかんない……」
「……姫恋さん、ここ開けて?」
このままではらちがあかない。
芹緒はそう決心して思い切って、だが優しく姫恋に声をかける。
幸い、すぐにドアが開く。芹緒は個室に滑り込み、静かに鍵をかける。
芹緒の顔を見るや姫恋は俯いていた顔を上げ立ち上がり、芹緒の腕を強く握る。
その顔は血の気が引いて真っ青で、身体は小刻みに震えていた。
股の間からぽとりと赤いものが下着に滴り落ちる。下着のクロッチ部分は赤く染まっていた。
「姫恋さん、生理用品は持ってきてる?」
芹緒は姫恋の背中を優しくさすりながらもう一度聞く。よっぽどショックだったのだろう、目に涙を溜めた姫恋は芹緒の顔を見つめながら青い顔をゆっくりと左右に振る。
芹緒もついこないだ、ようやく終わったばかりで何も持ってきていない。
「姫恋さん。すぐ戻ってくるから少しだけ待っててくれる?」
「やだ」
姫恋の震える手が芹緒の腕を強く掴んで離さない。
そんな姫恋を芹緒は落ち着かせるように抱きしめる。
「分かった。それじゃあつつじさんたちに連絡して「それもやだ!!」」
イヤイヤをするように首を強く振って駄々をこねる姫恋。そんな姫恋に芹緒は努めて優しく声をかける。
「うん、そっか。でもこのままトイレにいてもどうしようもないよ? 僕が生理用品と替えの下着を買ってくるから、それまで待ってもらえないかな?」
「……すぐ帰ってくる?」
姫恋は置いていかれるのが怖いと言わんばかりの顔で芹緒を見つめる。
「すぐ帰ってくるよ」芹緒は安心させるように微笑む。「よく知ってるお店ばかりだから。だから少しだけ待ってて」
「……うん」
心細そうな姫恋の手を辛い気持ちで外すと、芹緒は個室を出て女子トイレを出る。
「芹緒殿「ダメ。僕がやらないと姫恋さん傷ついちゃう」……わかりました」
女子トイレの外の通路にはさくらがいて、芹緒に話しかけてきたが、即座に芹緒はさくらがするであろう提案を拒否する。
今の姫恋は、芹緒以外誰にも知られたくないのだろうということは、つつじたちを拒否したことからも容易に想像がつく。
あまりにも素早い対応は姫恋を安心させる一方で、誰かに知られたかもという疑念を持たせてしまう。
助けを求められたのは芹緒だ。
なら芹緒が助けないでどうする。
芹緒は最短ルートで買い物を済ませると女子トイレに戻ってきた。不審者が来なかったことを頷きで伝えるさくらに、芹緒は小さな黙礼で返すとすぐに姫恋の個室へ戻る。
「僕だよ」すぐに鍵が開いて芹緒は中に入る。「新しい下着買ってきたから汚れたのは捨てるね?」
姫恋がこくんと頷いたのを確認すると、芹緒は姫恋の足から血がつかないように注意深く下着を抜き取る。
そして小さく折り畳んでトイレットペーパーにくるむと、隅にあるサニタリーボックスに放り込む。
「少し冷たいよ?」
芹緒はそう声をかけてから、姫恋の血で汚れてる部分を流せるティッシュでそっと拭いていく。
幸い足や尻などに大きく漏れてはおらず、性器周辺の汚れを拭くだけで済んだ。
「靴脱がせるね。……はい、これ穿いて」
芹緒は姫恋に下着を穿かせると、そこにナプキンをセットする。そして靴を履かせて姫恋の身体を支えながら立ち上がらせると、下着を上に上げる。
ショートパンツの内側に経血が染みていないか確認してみると、少し赤くなっている。
なのでトイレットペーパーで押さえて乾かし、ショートパンツも穿かせて上げていく。
立たせた姫恋に少し回ってもらって、外から分からないか確認する。幸いそこまで染みてはいないようだった。
これなら一見して誰かにバレるということはないだろう。
「ありがと……優香さん」
服を着てようやく落ち着いたのか、ショックから立ち直った姫恋は芹緒にお礼を言う。
「気分はどう?」
芹緒はそう尋ねながら姫恋を便座に座らせる。貧血になっているかもしれないと思ったからだ。
「少しだけお腹痛いけど、それ以外は大丈夫かも」
「そう、良かった」
姫恋の言葉に芹緒は内心安堵した。
他人の生理のお世話なんて生まれて初めてだった。芹緒は今まで男性として知っていた知識と女の子になって得た経験をフル動員し、姫恋に不安を与えないよう余裕ある態度で振る舞っていたが、ずっと心臓がバクバクだった。
安心して脱力した芹緒は、もたれるように労うように姫恋を抱きしめる。
「帰りは迎えに来てもらおうね」
そう言う芹緒のワンピースの裾を姫恋の手が掴む。
「あの……」姫恋は顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうに言う。「このこと誰にも言わないで……?」
「もちろん言わないよ」芹緒は抱きしめたまま姫恋の頭を撫でる。「こういうのはプライベートなことだからね。バレないように口裏合わせるよ」
「ありがと……ね」姫恋がはにかみながら芹緒の背中に手を回す。「優香さん男の人なのに頼もしいね」
「そりゃあねえ」芹緒は笑顔を浮かべて軽口を叩く。「生理に関しては姫恋さんより先輩だから」
「あはっ」ようやく姫恋が笑顔を見せる。「女の子のことに親身になってくれる男の人ってステキだと思う」
「ありがと」
そして芹緒は一足先に個室を出て、女子トイレの外にいるさくらに視線を投げかける。さくらはすぐに音もなく芹緒の前に来る。芹緒は小声でさくらに伝える。
「車を手配して。あと姫恋さんの生理の話は秘密で」
「わかりました」
そう言って素早く立ち去るさくら。それに少し遅れて姫恋が個室から出てくる。
「ちゃんと手洗いしようね」芹緒は言う。「血は危険だからね」
「優香さんありがと」姫恋は手を洗う芹緒の横に立つと、少ししゃがんで芹緒のほほに口付ける。「もっと好きになっちゃった」
化粧室には大きな鏡がある。そこにはキスをする二人の少女が映されている。
その顔は耳まで真っ赤なのがお互いに見えてしまっていた。
自分の努力に対する姫恋からのご褒美のキス。芹緒はこれをとても嬉しく受け入れた。
それから二人は迎えが来るまでの数分間、トイレ横のベンチに隣り合って座りおしゃべりするのだった。
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