第五十八話 集結
芹緒を抱き抱えていた男は、最初こそ周りの景色が溶けて流れていくようなスピードで走っていたが、段々とそのスピードが鈍り、ついには立ち止まってしまった。
「……?」
あれだけ走ったにも関わらず汗一つすら浮かべず、男は不思議そうに微かに首を傾げる。
それに対して芹緒は冷や汗をかきながら吐き気を抑えるのに必死だった。
景色が流れ行くスピードの割には対して揺れなかったものの、それでも着の身着のままでの風を切るスピード体験は、芹緒の平衡感覚を狂わせていた。
「下ろして……吐いちゃう」
「……」
芹緒の涙目の懇願に、男は辺りを見渡すと廃工場を見つけ、そこに体を忍ばせて中に入る。その一室の埃だらけの床に懐から出した大きな広い布を敷き、そこに芹緒を下ろした。
「勝手に吐け」
渡された紙袋に芹緒は遠慮なくげーげーと吐いていく。今日は水以外何も口に入れておらず、胃の中は空っぽのはずなのに、吐き気だけが喉を逆流して胃の奥をぎゅうぎゅうと締め付ける。
(うう、吐き気は生理のせいもあるよね……あ)
そこまで考えて、芹緒はそろそろナプキンの替え時だと感覚で気付く。このままだとナプキンから血が漏れて、股間を赤く濡らした酷い姿を見られるハメになる。
せっかく一旦下ろしてもらったのだ、吐瀉物の入った袋を持ちながら芹緒は男に声をかける。
「あ、あの……」
「私はしばらく離れる。逃げようと考えるな」
芹緒が何を訴えたいのかを察したか、スーツ姿の男は背を向けたまま、部屋を出て行く。
ギィィバタン!
軋んだ音を立ててドアが閉められる。
逃げ出すつもりなど毛頭もない芹緒は、不安げな表情を浮かべながら、一人残された部屋の中を見渡す。元は事務所だったのだろう、ちょっとした教室くらいのスペースだ。そして机や椅子といった粗大ゴミがそこら中に転がっている。埃の匂いと鉄の錆びた匂いが鼻につき、気分が余計に悪くなる。
トイレや隠れられそうな個室は見当たらない。
(……ここで変えろ、と?)
初めてナプキンを変えるにはなかなかハードな環境である。だが背に腹は代えられない。
あの男はすぐ戻ってくるかもしれないのだ。
芹緒は羞恥心に悶えそうになりながらも、ズクズク痛みを訴えるお腹を叱咤して立ち上がる。
幸い先ほど男が出て行ったドアからはこの布敷きが敷かれている場所は見えない。
念のため窓からも見えない位置を見つけると、血で汚さないよう、そっとパジャマの下を脱ぎ、床に敷かれた布の上に置く。
パンツ一枚になった芹緒は、生理用品の入ったピンクのポーチを持って、慎重にパンツを下ろしてしゃがみ込む。
「うわあ……」
まだまだ真っ赤に染まるナプキンを見て思わず呻き声を上げる。血を見慣れないせいか、はたまた貧血のせいか頭がクラクラする。
外気にさらされた股間が湿った環境から解放されて少しだけ心地良い。
汚れたナプキンを畳むと、先ほど吐いた紙袋に放り込み臭いが上ってくる前にすぐ口を閉める。
そして新しいナプキンのビニールを破り、広げてパンツにセットしていく。
(僕何してるんだろう)
不意に自分の姿を客観的に考えてしまい、あまりのシュールさに気が抜けそうになる。
金髪の美少女が一人、人気のない廃工場にしゃがみこんで股間を丸出しにし、生理用品をセットしている。
男の頃ならこの情景に何らかの劣情を抱いたことだろう。
血で汚れたナプキンにさえ劣情を抱く性癖があることも知っている。
だが生理用品をセットしてるのが自分となるとひたすらに情けない。恥ずかしいし不安で仕方ない。
足元の冷たい床からじんわりと体温を奪われ、股間をさらしていることへの居心地の悪さが倍増する。
だというのに、こんな少女が不安を抱える姿に劣情を覚える男がいるなんて。
複雑な気持ちを抱えたまま、立ち上がった芹緒はパンツを上げ取り上げたパジャマの下を穿く。
そして股間の重たい気持ち悪さから少し解放され、一息ついていると再びドアが大きな音を立て、男が戻って来たことを知らせる。
男は何も言わずに芹緒が座っている布敷きの反対側に座る。
「……」
「……」
据わりの悪い沈黙が流れる。
どうもこの男はただの悪人とは思えない。いや、人攫いが悪なのは確かなのだが。悪人なりの美学があるように思える。
芹緒は思い切って男に声をかける。
「さくらさんとはどういった関係ですか?」
「あいつは私の稽古を受けた弟子のようなものだな。途中でお前の付き人になったが」
男は何でもないように芹緒の質問に答える。
「そうだったのですね。お名前をお聞きしても?」
「服部一」
「服部様はどうして私を攫ったのですか?」
「契約をしたからだ。私の『契約』術のことは聞いたな?」
打てば響くように会話のキャッチボールが続く。
「はい」芹緒は頷く。さくらと服部があれだけ大声で話していたのだ、聞こえていないと言うと怪しまれる。「契約は同時に出来ますか? 例えば私を家に戻してください、とか」
「契約は一回結んでいる間は他は結べぬ」
「では契約が終われば私とも結んでいただけるのですか?」
「契約は一日に二度までだ。残っていれば結べる」
「私を助けてくださいとお願いしても?」
「契約が結ばれれば構わぬ」
『契約』の話題すら何でも答えてしまう服部。芹緒は不安になってつい聞いてしまう。
「そこまでお話されてもよろしいのですか?」
「問題ない。お前が次の依頼者になる可能性もあるのだからな」
なるほど。
芹緒は得心がいく。
この男、服部一は『契約』をとにかく守る。
「服部様、今日の契約はあと何回残っているのですか?」
「二回だ」
つまり契約は昨日結ばれたということだ。
「そろそろ行く」
服部は徐々に契約の力が戻ってくることに疑問を覚える。がそれは些末な問題だ。
この女を依頼者の元へ連れて行き、金を受け取る。
それだけが彼の目的なのだから。
「き、聞こえない……」
美琴はさつきの運転するレンタカーの中で頭を抱える。
芹緒が誰かと会話しているのはなんとなくだが分かる、だがそれ以上が分からない。
さつきにはただ『非常事態、運転以外考えるな』と言い聞かせ、紫苑邸方面へ向かわせている。
つつじやさつきはメイドの中でも精鋭だ。尋問されても簡単に情報を引き出されないように訓練されている。思考を空っぽにすることなど造作もない。
苦悩する美琴を乗せレンタカーは走る。
「……と言ってる」
一方つつじの運転するリムジンの中では、芹緒と服部が廃工場でしていた会話の全容を、葵が皆に伝えていた。
「……もうダメ、聞こえない」
がその会話も届かなくなったらしい。葵は大きく息を吐くとぐったりと倒れ込む。慌ててそれを姫恋が受け止める。
「つまり一日に二回、契約満了させれば、その無敵男はゲーム……その場から除外されて無害になるんだね」
ゲームをよく遊ぶ姫恋がゲームになぞらえて発言したものの、さすがに友人が誘拐されたのをゲームに例えるのはダメだと途中で気がついたらしい。
「もしくはどこかで私たちが先に契約を結ぶという手もありますわ」
桜子が頬に指を当ててそう言う。
「葵殿、助かりました」
さくらがお礼を述べるが、葵は寝たままちっちっと指を振る。
「お礼はまだ。優香を助けてから。最後までついてく」
葵の台詞にさくらは首を横に振る。
「これ以上は危険です。お互い情報交換も出来ました。突入は九条家の護衛部隊で行います。皆さんをお守りする余裕はありません。つつじは後方で控えますので、そこで一緒にお待ちください」
「私たちの力は役に立ちますわ」
桜子はそう言ってさくらの視線から目を外さない。
「アタシは力ないけどついてくよ。優香さんのためだもん」
「あなた方が傷付くと美琴様や芹緒様が悲しまれます」
さくらの言葉にも三人は譲る様子を見せない。さくらは心の中で頭を抱える。
この調子だと置いてきても勝手について来そうだ。
だからと言って一緒に連れていくのも論外だ。
(吉沢さん、恨みますよ……)
さくらは先ほど桜子たちを押し付けた使用人に恨み節をぶつける。
だが所詮いち使用人、仕える者の言葉はよっぽどでなければ拒めない。
吉沢も自分の主が何をするのか知っていたら、さすがに止めただろう。
さくらは護衛部隊の隊長だ。何度も決断してきた。
少しの間目を閉じ、そしてさくらは覚悟を決める。
「では連れて行く代わりに約束を二つだけ」さくらがそう言うと、三人の真剣な目がさくらに集まる。「あなた達を私の指揮下に入れます。今から私はあなた達の上司です。現場についたら私の命令に従うこと。そして絶対に無理はしないこと。この二つです。守れますか?」
さくらの提案に
「わかりましたわ」
「はいっ!!」
「いえすまむ」
三者三様の肯定の返事が返ってくる。
さくらの肩に美琴、桜子、姫恋、葵の無事な生還が乗る。これは課せられたのではない、自分で背負い込んだものだ。
さくらは決意を新たにする。
そしてつつじは何か悟ったような、呆れたような表情を浮かべつつ紫苑邸を目指す。
さつきとさくら、桜子……。
同じような名前になってるのはダメですねぇ。
(お嬢様……伊集院いいな、名前どうしよう、和風にしたいから桜子なんていいな!)
桜子登場話投稿後、さくらと被ってることに気付く。
これぞLIVE感ですね!(違う)
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