第五十六話 逃走
「つつじ! 家に向かうな!!」
芹緒の看病をしていたさくらが、何かに気付いたように顔を上げ叫ぶ。
「!!」
その叫びを聞いたつつじは辛そうな顔をさらにしかめつつ、即座に道を切り替える。
その間にさくらはスマホを取り出し、どこかへ電話をかける。
「……?」
突如車内が緊迫した空気に包まれたことに芹緒は気付いたが、押し寄せる腹痛と吐き気と頭痛で上手く思考がまとまらない。
ただ何か悪いことが起きたことだけは分かった。
「タイミングが悪すぎますね……」
つつじが必死の表情でハンドルを操作していく。
そしてつつじもさくらにかなり遅れたが、ようやく事態を把握することが出来ていた。
芹緒のアパートが何者かに包囲されている。
つつじの運転するリムジンが街道を走り抜けるたび、前面以外スモークガラスで覆われた車が、まるで機械仕掛けのように同じ挙動で発進し追走してくる。
そんな車をバックミラーで確認するたび、つつじは車線を変え、Uターンし、高速に乗り即座に降り、後続車を撒きにかかる。
少しずつ撒いているはずだが、追走する車の数は全く減ったように見えない。
つつじは不調を訴える身体に鞭打ち、頭をフル回転させ、事態の打開を図る。
「護衛部隊には?」
「ダメだ、つながらない。おそらく彼らは今、何が起きてるかすら知らない。定期連絡で異変に気付いてもらうしかない」
「次の定期連絡は?」
「約五十分後」
「間隔は?」
「一時間間隔。内部に詳しい奴か漏らした奴がいる」
「五十分、ね」
つつじはハンドルを握る手に力を入れる。
普段、つつじとさつきはペアで運転している。
芹緒のアパートに来るときもつつじとさつきは追跡されないよう慎重に運転してきた。
ショッピングのときもそうだ。美琴がいることがバレないよう、芹緒の地元のショッピングモールに行った。
情けない。
つつじは自分の身体を罵倒する。
つつじは昨日から生理が始まった。
そして生理が始まったにも関わらず、つつじ一人で運転して伊集院家まで行ってしまった。
おそらく身体のコンディションが落ちていて、何者かに目を付けられてしまったのだろう。
普段ならつつじとさつき二人一組で、どちらかが生理や体調不良になってもお互いフォローしていたというのに。
悔やんでも悔やみきれない。
本来なら芹緒のお願いを聞くべきではなかった。
(さつきがいない時に動いてしまった)
何度も何度も自分を罵りつつも運転に集中する。
それでも道を変え速度を変え、街路を縫うように走り抜ける。
「どこに逃げる? ……伊集院家に行く? ありえない」
つつじは思考を言葉に出す。
伊集院家まで行けば確かに安全だ。そこまで辿り着けるなら。そして身内の恥を晒すなら。
今回のミスで自分が処分されるのはいい。
だがこれは明らかに身内の犯行だ。
そして犯行動機を持つ人物につつじもさくらも心当たりがある。
「紫苑鷹秋……」
「ですね」
美琴の元許嫁。
彼女が自死しようとした諸悪の根源。
美琴が男になりたいと思ったのすら、彼のせいかもと邪推してしまう。
まだ成人していなかった頃のつつじやさつき、そして小学生のさくらに手を出そうとしたことも一度や二度ではない。
あの男はそもそも使用人や女を見下している。
あの嫌らしい、昏く澱んだドブのような目つき。
どのような『力』を持つのかつつじたちは知らない。美琴ですら知らないらしい。
身内の犯行の対処に伊集院家の力や借りを作れば、九条家の立場は厳しいことになるだろう。
だがそれでも美琴を守らねば。
……一使用人の立場では決断出来ない。
「気配が消えました……か?」
高速に乗りしばらく車を走らせ、つつじはそうさくらに確認する。
リムジンの周辺には追走車どころか後続車、対抗車の存在も確認できない。
だがバックモニターに映るさくらの顔色が悪い。
「これは……捕まりましたね」
さくらの言葉と同時、ガンッ!!!と猛スピードで走るリムジンの屋根が音を立てて凹む。
見ればその屋根の凹み方は靴が二足、並んだ形だ。
「な、何がっ!?」
つつじは驚愕するが、さくらは苦虫を噛み潰したような顔でつつじに指示する。
「排除します」
そう言ってつつじに車を止めるよう指示を出す。
顔色が悪い芹緒を乗せて急ブレーキは踏めない。
つつじは静かにリムジンを路肩に止める。
さくらは一言、
「私が出たら伊集院家へ」
そう言い捨てるとさくらは外へ飛び出した。
同時につつじは全ての感情を捨てアクセルを踏み込んだ。
が。
「どうして……っ!?」
リムジンは大きなエンジン音こそすれど、少しも動かない。つつじは自分がアクセルとブレーキを間違えたかと思い、もう一度確認してアクセルを全力で踏む。
だが無情にも結果は同じだった。
そしてバックミラーを見て言葉を失う。
スーツ姿の男が立っていた。
黒い。
スーツや髪色も黒いがそれだけではない。
存在が黒い。
それだけでも異様だが、
男は左手でリムジンのリアバンパーを掴み、リムジンを止めていた。
そして右手でさくらの蹴りを受け止めていた。
規格外の化け物じみていた。
「逃げるな」
スーツ姿の男が口を開く。その声はリムジンの中にも響く。芹緒にも聞こえる。
「九条美琴を置いていけ」
「お嬢様を置いていくとでも思うかあぁぁ!!」
頭に血が登ったさくらは、片手が使えない男の死角を狙って攻撃するが、全て右手だけで防がれる。
片手だけなら、と思いさくらは攻撃を仕掛けたが通用しない。
……そもそもこの男が天井に着地した時から、さくらはこの男の正体を察していた。
(勝てない)
さくらは彼の強さを知っている。
さくらを鍛えてくれたのがこの男、服部一だからだ。
今はリムジンを止めるため、片手が塞がっているが、両手を使われたらさくらなど一瞬で倒される。
さくらは思い出す。
服部一。
彼は忍者の末裔、寂れ果てた隠れ里の長だ。
格闘術だけでも強いというのに、彼は忍術すら使う。
今、高速道路に車が走ってないのも、彼が人払いをした結果。
そして片手でリムジンの動きを止めるなどという理不尽な力も彼の忍術の結果。
そしてさくらは思い出す。
ただでさえ強いこの男が無敵になる術を。
「服部殿!!」さくらは男と大きく距離を取り声を張り上げる。「あなたの忍法、今回の契約術の内容はなんだ!?」
芹緒は生理、つつじも生理。
さつきは美琴の付き添いで遠く離れた病院へ。
そしてさくらはこの男が『契約』を遂行することで無敵になることを知っている。
今の状態では、勝てない。逃げ切れない。どうしようもない。
だが、彼はなんと言った?
『九条美琴を置いてけ』?
服部一はここにいる、中身が芹緒の九条美琴と、外見が芹緒優香である九条美琴の、一体どちらを指定している?
答えは明白だ。彼がここにいるのが答え。
服部一は契約を使っても外見でしか判断出来ていない。
……判断を間違えてはならない。
繰り返すが、今の服部一は無敵だ。契約遂行の為には無敵と化す。
最悪なのがここで全滅することだ。さくらが倒れつつじも倒れ、芹緒が連れ去られてしまっては、終わりだ。先ほどのカーチェイスの時とは状況が大きく違う。
だから『契約』だ。
『契約』の内容次第では……。
『この小娘、九条美琴を誘拐し、九条家関係者や警察関係各所に知られることなく、そして私の存在を知られることなく、五体満足でここまで連れてこい。……暴れるようなら多少手を出しても構わんが処女を奪うなよ』
服部は隠すことなく、契約内容をさくらに届くよう大声で諳んじる。
「さくらよ」そして服部はなんでもないように語りかける。「私の『契約』術を知るお前ならば分かるだろうが、九条家関係者や警察関係各所にこのことが知られれば、つまり私のこの『契約』の内容を知った上で邪魔をすれば、九条美琴の命は保証できん。さてどうする?」
車内にいるつつじや芹緒にも服部の言葉が聞こえてくる。
忍法? 契約術??
芹緒は回らぬ頭を必死に回して考える。
細かいところまではわかっていないが、あの男は『九条美琴』を攫いに来たらしい。
『契約』術。
暴れさえしなければ、五体満足で依頼主のところまで届けられるのだろう。
誰を? 九条美琴を。
僕だけを? 今ここにいる僕だけを??
「私は九条家関係者だが?」
「お前たちは常に行動をともにしていた。私の『契約』は万能ではない。お前たちが知るのはやむを得ないことだ」
「ならば」さくらは切り出す。「九条美琴を差し出す。私達を見逃せ」
「是非もない。無駄が省ける」
さくらは遠回りしつつ、リムジンの後部座席を開ける。
「さくら!!!」運転席のつつじがヒステリックに叫ぶ。「貴女何を考えているのっ!?」
「……全員の無事を」
「バカじゃないの!? 美琴様はともかく私たちはどうなってでも……」
「あの男が『五体満足で連れてこい』、『暴れるなら手を出す』と言いました。彼のあの『契約』は必ず守られます。『契約』が守られる限りあの男は無敵です。つまり美琴様は無事にここから抜け出せます」
「抜け出す!? ねえさくらちゃんと説明なさい!!」
「美琴様」さくらは芹緒の額の汗を手でそっと拭う。「必ず助けます。しばしご辛抱を」
「分かった」
芹緒はさくらの目を見てしっかりと頷いて、さくらの意図を探る。
あのさくらが手も足も出ない相手だ。勝てないことが分かったのだろう。
そして大声での二人の会話。
さくらはこの『契約』に綻びがあることに気付いたのだ。そして芹緒も。
九条美琴とは芹緒優香であり、芹緒優香とは九条美琴なのだ。
片方だけでは文字通り片手落ち。
この男は、芹緒姿の美琴も連れて行かない限り、きっと依頼主のところまで辿り着けない。
そう、どこまでも『願望』だ。
芹緒はあの男が言う『契約』術なんて知らないし、聞いたこともない。
ただ、さくらの言うことは信じられる。
さくらが『必ず助ける』と言うのだから、心配はいらない。
気付かずパニックになっているつつじには悪いが、ここで説明するわけにはいかない。
さくらはきっとこの男から距離を取った上で、『契約』には書かれていない方法を探してくるはずだ。
そしてさくらに抱き抱えられた芹緒は、スーツ姿の男の腕に収まった。
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