第五十二話 お泊まり会⑨ キキイッパツ
いつから『僕』を使っていた!? いつから『私』を使わなくなっていた!?
芹緒は混乱した頭で考える。
美琴の姿になって数日間、芹緒は確かに『僕』という一人称を使っていた。
だが美琴たちからの罰ゲームで、芹緒は一人称を『私』にするようになったはずだ。
『それと今日からお互いの呼び方呼ばれ方を見た目に合わせましょう。そうしないと他の人に不信感を抱かれますから』
美琴の姿になって初めて外出の日。そう決まった。芹緒も羞恥心に悶えながらも納得した。
違和感を与えず、美琴の身を守る大事な約束。
それからは時々ポロッと『僕』という言葉が出たり、自覚を持って使ったこともある。それでもあくまでも『私』を常に意識して使ってきた、はずだ。
だが。
芹緒は今日これまでを思い返す。
桜子や姫恋、葵たちと過ごすのが楽しすぎて、気が緩みまくっていた。
「もしかして伺ってはいけない質問でしたでしょうか?」
顔面蒼白になった芹緒を見て吉沢がそう恐縮する。
違う、吉沢さんは悪くない。
もちろん桜子さんたちも悪くない。彼女たちはずっと自分たち以外がいる場所では、芹緒のことをわざわざ『美琴』と呼んでくれていた。
気が緩んでいたのは彼女たちのせい、では決してない。彼女たちのおかげで芹緒はリラックスさせてもらっていたのだ。
「あ、う……」
言葉が出ない。
何か言わなきゃ。
気が焦る。
頭が回らない。
「……はい美琴、バレちゃったー」
芹緒ではない声が大広間に響く。
葵だった。
普段声を張らない葵が明瞭な声を出す。皆に聞こえるように。芹緒を安心させるように。
「ゲームに負けた、罰ゲーム。それすらこなせず。美琴あうとー」
「……美琴様、十回、『僕』とバレないように言わなくてはいけない罰ゲームだからと言って焦りすぎでしてよ。……くすぐりの刑、決まってしまいましたわね」
葵の言葉に桜子がするりと乗ってくる。
芹緒、頭を回せ!! 芹緒は彼女たちの言葉を脳内で整理する。
芹緒は四人で遊んでいる間に罰ゲームを科せられた。その罰ゲームは『僕という一人称を十回言うこと』。四人以外の誰かに指摘されたら罰ゲーム失敗。くすぐりの刑が待っている。
こういう話に葵と桜子がしてくれた。あとは芹緒がそのレールに乗るだけだ。
「私、くすぐり弱いから焦ってしまいました。……素敵な席でこんな遊びをしていて申し訳ありません」
芹緒はそう言って吉沢や職人の後藤に軽く頭を下げる。
二人は顔を見合わせると慌てて首を横に振る。
「美琴様、気にしないでください。私どもの桜子が『いつもの通りに振る舞ってください』と言ったので、回数をここで稼ぐ算段をされたのですね」
「気にしておりません」
「お二人ともありがとうございます」
そう言って芹緒は再度頭を下げる。本当は土下座したいくらいの気持ちだが、美琴の立場でそれはやりすぎだろう。二人を困らせたいわけではないのだ。
「くすぐるの楽しみだねえ」
ようやく何を言えばいいのか理解したらしい姫恋が、ニヤニヤと笑いながら芹緒を横目で見る。
「お、お手柔らかに」
桜子、葵、そして姫恋のおかげで芹緒はこの場の窮地から脱することが出来た。
涙が出るほど嬉しい。と同時に涙が出るほど情けない。
「どうぞ、マグロの大トロです」
場が落ち着いたところで、先ほど芹緒が注文した寿司がのせられた小皿を、吉沢が運んできて芹緒の目の前に置く。
芹緒は心の中で両手でほっぺたを叩くと気合いを入れ直す。もう油断はしない。
運ばれてきた小皿には、普段芹緒が食べている二貫百円の回転寿司とは全く違う、白く脂の筋が網目のように広がった刺身が酢飯の上に乗っている。
目の前で握られた寿司だけあって色艶が美しい。見ているだけで口の中によだれが溜まる。
「いただきます」
芹緒は箸で寿司を取ると、醤油に少しつけて口に入れる。
さすがに庶民の芹緒でもマグロの寿司は食べたことはある。
だが大トロの寿司はマグロのそれとは全く違った。
口に入れて噛もうとする前に、溶けた。脂の甘みがじゅわあと口いっぱいに広がる。
いつも食べているマグロが『魚の肉』ならこれは『クリーム』、いや『バター』に近い。でもしつこくない。
旨みと甘みが幾重にも重なって芹緒に幸福感を運んでくる。
美琴の舌は美味しさを伝えてくるが、芹緒にはその美味しさを言葉に出来ない。
ただ素直な言葉が出てくる。
「美味しい……!」
美味しいしか言えない自分のボキャブラリーの貧困さに、芹緒は無駄に年齢を重ねただけの、自分の人生経験の厚みのなさを痛感する。
「ここのお寿司美味しいよねえ!!」
ウニを食べた姫恋が笑顔で感想を言う。職人の後藤さんも嬉しそうだ。
そうだ、難しく考えなくていい。
美味しいものを食べて難しい顔で講釈を垂れるのは専門家に任せておけばいい。
芹緒たちはただ美味しいものを美味しいと素直に表現すればいいのだ。
「皆さん次は何を注文なさいますか?」
桜子が声をかける。
「美琴と同じ、大トロ」
「ウニ!!」
「……ウナギをお願いします」
「赤貝を」
四人の注文を聞いた後藤は小さく頷くと、手際良く寿司を握り、それを吉沢が配膳する。
「お好きに注文してくださいね」桜子はそう言うと「ヒラメをくださいませ」
「……ウナギ」
「ウニ!!!」
「……」
芹緒は何も言わずウナギを口に運び、今まで食べたウナギがまるでゴムとしか思えないほどの美味しさに目を丸くする。そして小鉢に手を伸ばし芹緒なりに丁寧に口に運ぶ。
そんな間にも姫恋と葵はどんどん頼んでいく。
「ウニ!!!」
「……姫恋様、まとめて頼んでもよろしいですわよ」
「あはは、ありがと! じゃあ五個まとめてください!!」
「……甘海老」
「美琴様は」桜子が声をかけてくる。「お寿司はもうよろしいですか?」
「ええ」芹緒は美琴になりきる。「お気遣いありがとうございます」
半分本当で半分嘘だ。
芹緒は普段回転寿司に行ってもマグロやウナギ、あとは真っ当なお寿司とはいえないものを頼むくらいで、様々な種類のネタを食べたことがない。
食べることが好きな芹緒は、食べることに失敗したくて冒険をしなかった。
食べること以外もそうだ。常に同じこと、同じものしか選択しなかった芹緒は、アニメやゲーム以外、人に何かを薦められるようなこだわりがない。
ウニもイクラも食べようと思ったことすらない。
桜子や葵、姫恋が眩しく感じる。
「桜子」葵が不意に声をかける。「新しいゲーム、思いついた」
「なんでしょうか?」
「美琴に、私たちのオススメ、食べてもらう、ゲーム」
「ウニ食べる!?」
さっそく姫恋がウニが一つ残った大皿を芹緒に渡してくる。
「ええ!?」
「美琴は、一番好きになったもの、決める、それ選んだ人の、勝ち」
「皆さん楽しんでいらっしゃるんですね」
吉沢が微笑ましいものを見るような笑顔でうんうんと頷く。
芹緒は改めて葵の頭の回転に驚く。
葵は感情が読めるとはいえ、心が読めるわけではないだろう。だから読み取った感情から推測し、最適解を導く。
芹緒が今諦観していたことを見抜き、何を諦めていたか考え、現状を突き合わせ、類推して答えを出した。
新しいゲームとすることで、先ほどの芹緒の一人称『僕』が罰ゲームだったことをさらに補強するアイデア。
「美味しい、はずっと言ってらっしゃいますものね」そして桜子は少し考えるように言葉を切ると「私はアジをお薦めいたしますわ」
「甘い桜子」葵はくっくっくと悪役のように笑う。「今までの、美琴の注文から考えれば、サーモン」
後藤が素早く握ったアジとサーモンを、吉沢が配膳する。
「あはは……」
芹緒の目の前には姫恋の(食べ残しの)ウニ、桜子の選んだアジと葵のサーモンが並ぶ。
そして全員の視線が芹緒に興味深く集まる。
「いただきます」
芹緒はまずはウニに視線を移す。
艶やかな黄金色をしたウニ。
恐る恐る箸で持ち上げ口に運ぶ。
舌に触れた瞬間に溶けていき、ほんのり甘くてクリーミーな旨みが口の中に広がる。
これがウニなんだ……。
もちろん美味しかったがこれはゲームだ、今言うわけにはいかない。
続いて桜子の選んだアジ。
銀色の皮が煌びやかに光っている。
刻みネギとおろし生姜が添えられ、香りが立ち上る。
醤油につけ口に運ぶ。
爽やかで滑らかな旨みが舌の上をすっと駆け抜ける。
脂はほどよく乗っているのに、重さは一切ない。
噛むほどに清涼な甘みがじんわりと広がり、添えられた生姜の香りが後味を引き締める。
ウニのとろける甘さとはまったく違う、澄んだ海のような旨みに心を奪われる。
アジの開きはよく食べるがお寿司は初めて食べた、だがこれはクセになりそうだ。
最後に葵が薦めてくれたサーモンを口にする。
舌に乗せた瞬間まったりと濃厚な脂が広がり、柔らかい身が舌を包み込む。優しい甘みは食べやすく、芹緒が慣れ親しんだサーモンを思い起こさせる。
三つのお寿司を食べ終え、皆の顔を見渡すと、三人の視線が期待に満ちて芹緒に注がれていた。桜子のウィンクが目に入る。
「……判定は?」
葵の言葉に芹緒は心の中で決めていた言葉を口に出す。
「どれも好きになりました。ごめんなさい、ありがとう」
「そんなぁ!?」
「これも予想されていた答えですわね」
「ちゃんちゃん」
大広間に温かい笑いが巻き起こる。
このゲームで少し前までの緊迫した空気は完全に消え、芹緒たちは楽しく美味しい食事をおおいに楽しんだのだった。
2025/9/23
作品編集ページで50話についたニコニコマーク、なんだろうなって調べたら『リアクション機能』というものなんですね。
初めてみました。
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