第二十四話 ジョギング
部屋に戻った芹緒はベットにぽすんと座るとそのまま横に倒れて枕に頭を乗せる。
子どもの頃に戻ったかのような身体の軽さにはもう驚かない。
「今日も色々あった……」
そう呟いて仰向けになって身体を大きく伸ばす。揺れる胸。まだ慣れないけれど今日一日歩き回って遠慮なしに揺れる自分の胸を見て感じて何度も体験してしまっている。
朝から甘やかしでからかわれ、お店ではさつきの着せ替え人形にされ、下着売り場では公衆の面前でスカートめくりをされ、戻ってきたら美琴が脂肪吸引手術やら陰茎の手術やらを明日すると急な宣言をし……。
だが確かに彼女たちも芹緒をからかって楽しんではいるが、基本的に彼女たちの行動は芹緒のためになることばかりだ。
ベッドも木の匂いがかすかに香る新品に置き換えられていた。ヘッドボードには小さな観葉植物が置かれている。
マットも柔らかく芹緒の身体を受け止めている。
先ほどとは反対側、部屋の奥に身体を転がして手足を丸めて小さくなる。
二の腕に挟まれた胸が存在を主張し、逆に縮こまらせた両足は股間に何もないことを伝えてくる。
動くたびに芹緒の脳に『お前は女だ』と主張してくる。
(これに慣れちゃいけない)
芹緒はそう思っている。
美琴として振る舞うのはいい。
女の子として振る舞うのもまだいい。
だけど自分自身が自分を女だと認識してしまったら、そして女の子として好きなことを好きなだけしてしまったら。
もうあの醜い体には戻れない。
ただでさえ客観視するだけでも辛いのに。
つつじやさつきはこの身体で満足し尽くしてほしいようだが、芹緒からすればそうなってしまったら意地でもこの身体を離したくなくなってしまうだろう。
そんな状態元で戻れば自殺一直線だ。
(……それでもいいのかな)
ふと芹緒の脳裏にそんな考えが横切る。
これは来世もらえるはずのご褒美が今世の意志があるまま受け取れた素晴らしい『夢』ではないか。
来世こんな可愛い女の子になれるかなんて保証はないのだから、今だけは、この二ヶ月だけはこんな『夢』を素直に受け取ってもいいのでは。
元に戻って絶望したらまた自殺に挑戦したらいい。これくらいの気持ちでいないと毎日が辛い。
こんな馬鹿なことを考えて芹緒は目をつむる。
精神的にも肉体的にも緊張して疲れたのか、芹緒は近くに置いてあったタオルケットを身体にかけ目をつむるとそのまますぅっと眠りについた。
翌朝。
芹緒はぱちりと目を覚ます。
こんなにぐっすりと寝て気持ち良く目覚められたのはどれくらいぶりだろうか。
スッキリとした頭でそう考えて芹緒はハッとして上半身を起こす。そしてタオルケットの中に手を入れ、股間の布の感触を確かめる。
昨日のおねしょの悪夢が脳裏をよぎっていたが、今日その手に感じられたのは、乾いた手触りのよいパジャマの感触と滑らかな股間の柔らかな感触だけだった。
(さすがに三日連続おねしょはしなかったか)
一昨日の恐怖によるおもらしはともかく、昨日のは最悪だった。大人としても美琴の身体としてもよろしくない。
これからも寝る前の水分には気をつけよう、そう頷きながらタオルケットをどかして芹緒はベッドを降りた。
「美琴さんおはよう」
ドアを開けると美琴が廊下にいて挨拶してきた。
「おはよう芹緒さん」
スッキリした頭だと理解が早い。芹緒は『家の中でも九条美琴』ルールを思い出して対応する。
罰ゲームの可愛がりは昨日一日だけだから気にしなくていい。
よく見れば美琴はパジャマではなく、芹緒の知らない服を着ていた。昨日調達したのだろう。
ファッションセンスが壊滅的な芹緒には特に感想はない。そしてとりあえず『褒める』といった行動も思いつかない。
「もう行くの?」「うん」
芹緒の問いに美琴は頷く。
「おはようございます美琴様」
大荷物を抱えたメイド服姿のさつきがそう挨拶をし、芹緒たちの間を抜けて外に出て行く。玄関の外はまだ薄暗い。
「美琴様おはようございます。顔を洗いましょう」「自分でやります」「女の子の洗顔は男性のそれとは違います。今日だけお手伝いさせてください」
真っ赤なジャージに身を包んださくらが挨拶を交わしつつ芹緒の世話を焼こうとする。
芹緒としては昨夜書いたメモを見ながらと思っていたのだが、さくらとしては不安らしい。
「昨日やったし……」
そう言い返そうとする芹緒にさくらが身を寄せて耳打ちする。
「昨日はつつじと一緒にお風呂入ってましたよね? 風呂上がりの流れで覚えられたのですか?」
その言葉に芹緒の身体が震える。
昨日のおねしょのことはさくらには知られたくない。
「いえ、お風呂上がりのほかほか姿を見れば分かりますよ」
芹緒の不審さに少し考えてさくらはそう言う。
そんなさくらの言葉に「そうだったんだね、私朝お風呂に入ることにしたんだ」と話に乗り、ごまかすように「ちゃんと覚えられてないかもしれない……だから今日さくらさ……さくらに教えてもらって覚えようかな」
そう言ってさくらに頭を下げた。がすぐにさくらが抱きついてきて背中をぽんぽんと優しく叩かれてしまう。
「さ、さくら!? 罰ゲームは昨日まででしょ!?」
今までこんな距離をつめるような素ぶりを見せなかったさくらの行動に芹緒はどぎまぎと慌ててしまう。
さくらは美琴の背より少し高いだけだ。だからつつじやさつきだと胸に包まれていた顔が、さくらとは顔と近い。さくらの整った顔や長い睫毛が横目に入る。
「口で言っても分かっていただけないので。基本的に私たちに頭を下げる必要はありませんよ」
そうさくらは耳元でささやき離れる。くすぐったくてぞわぞわして芹緒はこくこくと頷くことしか出来ない。
「それじゃあ行ってくるね」
結局さくらに構われている間に美琴たちの準備は整ってしまったようだ。
つつじの運転で美琴たちを病院まで送るらしい。
すでにつつじとさつきは車へ。
着替えることが出来なかった芹緒は玄関先で美琴を見送ることになった。
「いってらっしゃい。本当に無理しないでね」
「ありがと。いってきます!」
美琴は笑顔で元気よくそう答えると玄関を出た。そして扉がバタンと閉まる。
しん、と静まる廊下。独り暮らしの芹緒にとってはいつも通りの静けさのはずなのに妙に寂しさを覚えてしまう。
「では洗顔をしましょうか」
玄関に立ち尽くしていた芹緒はそうさくらに言われ安堵を覚えていた。
さくらの指導で洗顔を終えた芹緒は、さくらに手渡されたピンクのジャージに着替えていた。
「髪をまとめますね」
さくらは芹緒の後ろに回ると芹緒の長い金髪を器用に操り、ポニーテールを三つ編みにしたような髪型にしてくれた。
「これで負担が少なくなると思います」
芹緒は頭を軽く振るが、確かに髪が広がることによる重さを感じない。
「ありがとう」
そうお礼を言うとさくらははい、とだけ答えた。
さくらは玄関に小さな椅子を置き、そこに芹緒を座らせる。そして座った芹緒の足にジャージと同じピンクを基調としたランニングシューズを履かせ、紐を調整していく。
そう、これから芹緒とさくらはジョギングに出かけるのだ。
大人になってからこのかた、芹緒は小走りくらいはしたことはあれど、走るなんてことをしたことがない。かれこれ二十年以上ぶりに走ることになる。
あの肉塊の姿で走ることは不可能だったが、この小柄で若い身体であれば、走ることに恐れはない。むしろ少しワクワクしている自分に芹緒は驚いていた。
「さあ行きましょう」
さくらは小さなリュックを背負うとそう芹緒を促した。
この身体になってから初めて女性を感じさせない服装で芹緒は外に出た。
外は日こそ登り始めていたがまだ空は薄暗い膜に包まれていた。
芹緒は大きく息を吸う。春の朝特有の冷たくも清々しい空気が芹緒の肺を満たす。
「準備運動をしますので美琴様は私を真似て身体を動かしてください」
マンションの出入り口を出るとさくらはそう言って準備運動を始める。
屈伸、腰回し、手首や足首回し、腕回しに肩回し、アキレス腱伸ばし。その場足踏み。
さくらを真似て身体を動かす芹緒。美琴の若い身体は芹緒の思うがままに伸び伸びと動く。
知らず知らずのうちに芹緒は小さな笑みを浮かべていた。
「では行きましょう。私のペースに合わせてください」
さくらの声で芹緒たちは走り出す。
さくらのペースは初めから美琴の……芹緒のペースに合わせられていて、芹緒はゆったりとしたペースでテンポ良く足を動かす。
普段見慣れた町並みが、車で通り過ぎるよりもゆっくりと、歩くよりも速く芹緒の視界を流れていく。
ブラをした胸は大きく揺れる。腰は左右に揺れる。太ももの間には何もないことを何度も伝えてくる。
だけどそんな『女としての現状』の感覚より芹緒はジョギングそのものを楽しんでいた。
規則正しく行われる呼吸。足の動きとリンクしていてリズムがよくて嬉しくなる。
軽やかにアスファルトを踏みしめ翔ぶように跳ねる足。
身体が温まるのが心地良い。
滲み出す汗が気持ちいい。
普段の芹緒ならウォーキングで目安としている場所を遥かに越えて芹緒たちは走り続けていく。
「お嬢様、休憩しましょう」
十数分経ってさくらにそう言われたのは、普段の芹緒なら間違いなく車で来るような場所だった。
「はあーっ!」
走っている間よりも身体を止めるほうが辛いとばかりに芹緒は大きく息を吐く。
そこは小さな公園だった。
車で見かけたことこそあれど、中年男性である芹緒はわざわざ足を踏み入れたことがなかった場所だ。そこにあったベンチに芹緒は腰を下ろす。
「こちらのドリンクをどうぞ」
「ありがと、んーっ」
「そんな一気に飲まず、口の中をまずは湿らせてください」
「ん」
さくらがリュックから取り出し手渡してきた水筒は冷たすぎず飲みやすい温度だった。それを一気に飲んでしまってさくらに注意された芹緒は、ストローから口を離さず首を縦に振って肯定の意を伝え、言われた通りに口に含んだドリンクを口の中全体を湿らせるように転がしていく。
そんな芹緒の姿を微笑ましげに見ながら、さくらはドリンクを飲みつつ芹緒の顔や首といった箇所の汗を軽いタッチで拭っていく。さくらは全く汗をかいていなかった。
「では帰りますか」
しばしの休憩ののち、さくらに促され芹緒は立ち上がる。
一度休憩したことで少し身体が動くことに慣れるのに時間がかかりそうだが、さくらと一緒に軽くその場で足踏みをしているとすぐに身体が走る気になってきた。
そして二人は来た道を戻り始めた。
行きでは人を見かけなかったが帰りでは何人か同じように走ってる人とすれ違う。
二人は軽く頭を下げ、相手も軽く頭を下げていく。
同じ道を通っているはずなのに行きと帰りでは見える光景が異なる。
芹緒はそんな風景を楽しみながら家まで走り続けることが出来た。
「身体が温まっているうちに軽くストレッチを」
マンションまで戻ってくるとさくらはそう言ってストレッチを始める。芹緒は見よう見まねでそれに追随する。
気持ちよかった。
とにかく身体を動かすことが気持ちよかった。
こんな気持ち、子どもの頃ですら味わったことはないだろう。
体育の授業の中で運動することがすっかり嫌になってしまった芹緒にとって初めての感情である。
心地良い疲れが芹緒を襲うが、昨日の精神的な疲れより気分がいい。
「お嬢様どうでしたか?」
「最高」
芹緒の様子を見て答えを見透かしているかのようなさくらの問いに芹緒は短く、正解を答える。
「それは良かったです。これから毎日続けますね」
「はい」
そして二人は部屋へと戻っていった。
「お風呂は一人でいいです!」
「私たちの誰かが合格を出さないと一人ではちょっと……」
洗面所で服を脱ぎ先に浴室に入っていた芹緒は、後からバスタオルを巻いて入ってきて困ったように言うさつきと問答していた。
芹緒にもさくらたちの言い分はわかる。わかってしまう。
適当に出来ます、では彼女たちは困るのだということを。
この身体はあくまで『九条美琴』のものだということを。
それにさくらはつつじやさつきと違ってタオルを巻いている。まだ芹緒に対して恥じらいがあるということだ。
全裸ではないバスタオル姿もなかなかそそるものがあるが芹緒はそんな邪念を振り払う。
「わかりました……しっかり見ていてくださいね」
結局芹緒はさくらを受け入れ髪を洗い始める。さくらは浴室の入り口で立ったままだ。
身体を洗う順番は、髪、顔、身体の上からの順だ。
ぬるま湯で髪を軽く洗い流し、何度となく洗ってもらって彼女たちが選んでいたボトルを手に取りそのまま髪に馴染ませる芹緒。
「違います」
さくらの声が浴室に響く。そして芹緒の椅子を動かして芹緒の前に膝立ちで陣取る。
「えっ!?」
芹緒が驚いた声を上げる。驚いたのはさくらの行動にではなくその姿だった。
さっきまでバスタオルを巻いていたはずのさくらが今や一糸纏わぬ姿になっていた。
そのポジションだとさくらの慎ましい胸や股間が見えてしまう。……生えてない? じゃなくて!
「さ、さくら! タオルはどうしたのっ!?」
「私も濡れてしまいますし。元々私も今のお嬢様に対して隠す必要はないと考えておりますので」
「そうだったの!?」
「今はそうですね」
さくらはこともなげにそう流すと、芹緒が手に取っていたシャンプーをポンプを押して手に取る。
「泡立てるのに髪を使って泡立ててしまっては髪を痛めてしまいます。まずこうやって手で泡立ててから……」
手の平でシャンプーを揉んでいくうちにどんどんもこもこの泡が作られていく。
「ゆっくり頭を指の腹でマッサージするように洗い、髪も優しく両手で軽く揉むように洗っていきます」
芹緒の長髪を前に流したさくらはそう言って芹緒にも見えるようにやってみせる。
昨夜聞いてわかっていたつもりだった芹緒だが、やはり百聞は一見にしかず、だと痛感する。
「シャンプーは十分に洗い流したあとはコンディショナーを髪の全体に行き渡らせて……、軽く頭の上でまとめます。やってみますか?」
「うん」
さくらに促され、芹緒はコンディショナーを髪全体に纏わせ、濡れた髪を悪戦苦闘しながらも頭の上にまとめていく。
「こうやってコンディショナーを髪に馴染ませている間に顔や身体を洗います。先ほど洗顔は教えましたから一人でやってみましょうか」
さくらはそう言って芹緒に実践させる。
さくらはよく出来た先生だと芹緒は洗顔しながら思った。
やってみせ、やらせ、ダメならどこかダメか伝え、またやらせる。
一番身につくスタイルだ。
「洗顔はもうバッチリですね」
さくらの太鼓判をもらって芹緒は嬉しくなってしまう。
「身体も昨日お一人で洗われたとさつきから聞いております。念のため見せていただいてもいいですか?」
「お願い」
さくら先生にすっかり慣れてしまった芹緒はそう言ってボディソープを手に出すと泡を作り出し、その泡で肌を優しく撫で洗っていく。
「問題ありませんね」
さくらは全身を洗い上げた芹緒をそう褒めた。
「ありがと。なんか嬉しいけど恥ずかしいね」
「それでは湯船へどうぞ。私も身体を洗いますので客観的にご覧ください」
そう言って身体を洗い出すさくらを芹緒は複雑な心境で湯船の中から見つめる。
さくらは確か高校生だったはずだ。現役女子高生のお風呂シーンをこんな間近で見ていいものか。
もちろん今の芹緒の姿は現役女子中学生だ、だが鏡で見ない限り『自分の身体』という認識がどうしても拭えない。
さくらは芹緒の視線など気にも止めない様子で腕を上げ脇を洗いその際に胸が見えてしまう。
わかっている。
間違っているのは芹緒自身だということを。
彼女たちは芹緒を信頼して(もちろん女性の身体で何か出来るとは考えていないだろう)こうしてあられもない姿を見せているのだ。
この信頼を裏切ってはいけない。
そしてこの場合、信頼を裏切らない行為というのは彼女の裸を見ないことではなく、下心なくさくらの行動を観察して一人で出来るようになることなのだ。
幸い芹緒の脳がどれほどさくらの身体を性的に見ても、美琴の身体は何も反応しない。
芹緒は胸や股間に視線を向けようとする湧き上がる下心を思考の脇に追いやり、さくらの身体を使った女の子の身体の洗い方の教育を受けたのだった。
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