「甘やかし」と「解放」
「……」
様々な衣類がマネキンに着せられて煌びやかに飾られている。
普段でさえ女性用衣類のエリアは避けて通る芹緒にとって、足を踏み入れるにはハードルが高い女性向けブティック。しかも明らかに高級そうな雰囲気が入り口から漂っており、入店した芹緒の足を思わずすくませるある種の荘厳さがあった。
春が近いからだろうか、ピンクや黄色といった明るい色彩に彩られた、男性向けではお目にかかれないとても華やかな空間に、芹緒はただ圧倒されていた。
「まずはこれらを試着してみましょう」
そんな芹緒の様子を知ってか知らずか、いつの間にかさつきが片手に色とりどりの布を掛けて声をかける。
「は、はあ……」
芹緒は周囲の雰囲気と何やら嬉しそうな様子のさつきに圧倒され、そのままフィッティングルームへ追いやられていく。
圧に負け素直に試着室に入る芹緒。その後ろから一緒に入ってくるさつき。
「ちょっと! どうして入ってこようとするの!?」
芹緒からすれば当然の抗議もさつきは意に介さない。
「お一人で着たり脱いだりするよりかは早いです。お嬢様とわたしの仲じゃないですか、ささ、早くわたしを入れてくれないと目立ちますよ」
目立つ。
それは芹緒にとって敏感に反応するキーワードだ。もちろん今は中年デブモンスターではなく、見目麗しい美琴の姿なのだが、それでも目立つのは嫌らしい。
フィッテングルームのカーテンが閉められ芹緒とさつきの姿がさくらの視界から消える。
さくらは芹緒に似合いそうな衣類を選びながらもフィッティングルームの様子に注意を向けるのを忘れない。
時折、芹緒の「んっ……」とか「ちょっとそこはっ!?」みたいな声が聞こえてくるが、この三日間で慣れた声なのでスルーする。
女性の肌は男性よりも敏感なようで、40を越えた中年男性からすると肌から入ってくる刺激には弱いのだろう。美琴の着替えではそのような声はほとんど聞こえて来なかったことからも、まだまだ芹緒は美琴の身体に馴染めていないようだ。
さくらは芹緒の元の外観やそこに至った経緯については冷ややかな評価を下している。
元々鍛錬を積み重ねているさくらにしてみれば、そんなに自分の体が嫌ならダイエットなり筋トレなりすればいいという話だ。自堕落だと思う。
それでもそんな人間もいても問題ないとも思う。どこまでいっても自分は自分、他人は他人。他人の生き方や存在に文句をつけられるほど自分は偉くないし驕ってもいない。
一方で、では芹緒が今の自分に失意しかないから死んで来世(?)に期待をかけるというのはある程度理解できる。
現実問題、ある程度の年齢に達してしまった彼にとって取り返せない時間や経験があるということなのだろう。
さすがに目の前で来世に行こうとしたら全力で止めるが。
その取り返せない時間や経験を、美琴の身体を借りて女性とはいえ体感出来るようになったのは側から見ても良い方向だと感じる。身体を貸している少女が本意はどうあれ『ご自由に』というのだから、利用しない手はない。
芹緒は現時点で美琴の身体に取り憑いた生き霊のようなものだ。
そしてその生き霊が芹緒であって良かった、とさくらは安堵している。
何も出来なかったというのは何もしなかったということ。
美琴の大事な身体を彼は粗末には扱わない。
自分の娘くらいの年代のさくらたちの言葉に恥ずかしがったり遠慮したりしても、自分の扱いに対して『この小娘たちめ!』と脈絡なく不機嫌になったりしない。
美琴との最初の遭遇にしても、彼は死を目前にしても自棄になることなく、美琴の身体と命を第一に考え、さくらに殴られても彼女を怖がることはあっても責めることはなく、メイドたちを受け入れている。
世の男性が全員が全員、芹緒のような男性ではないとさくらは知っている。
美琴の許嫁の紫苑鷹秋を挙げるまでもなく、不埒な男性は多い。
何もしてこなかったが故に、何も知らない少女。
そんな彼女の存在を微笑ましく感じるさくらであった。
「さくらさん、どうですかこの服!」
さくらがしばし物思いに耽っていると、フィッティングルームのカーテンが開いて、さつきが顔を出した。その背中から芹緒が不安そうな顔を出して外の様子を伺っている。
「ほらお嬢様、前に前に」
さつきの声と手が芹緒を促し、芹緒がカーテンの側までそろそろと近づく。
「いいですね。よくお似合いです、お嬢様」
さくらが思わず目を細めて笑顔で頷く。
白の長袖のブラウスの上からピンクのノースリーブワンピースを着た芹緒がさくらの言葉に顔を真っ赤にして俯く。
「お嬢様は可愛いって言われ慣れてませんからね。さっきから照れちゃって可愛いんですよー。ほら回って見せてあげて下さいな」
その言葉に芹緒はおずおずと身体を回転させる。その動きに合わせてワンピースの裾がひらりと舞う。
「とても可愛いですよ」
「可愛いですよねぇ!」
そう言ってさつきは芹緒の頭を自分の胸に押し付けて抱きしめる。芹緒が何やら言っているがその内容は聞かなくてもわかっているのでさつきは意に介さない。
さくらも普段の美琴なら着てくれないであろう可愛らしい服装に感動していた。
美琴は可愛らしい服装を好まない。今思うとあれも「男になりたかった」気持ちの現れだったのかもしれない。
「それじゃあ次の着てみましょう!」
そう宣言して芹緒の頭を抱きかかえたまま再びフィッティングルームに入っていくさつき。
芹緒の受難(?)はまだまだ始まったばかりだった。
「……なるほど」
美琴の提案を聞いたつつじは少し考えるそぶりをしながら美琴の様子を観察する。
隣を歩く中年男性は明らかにつつじのパーソナルスペースの内側にいる。歩くたびに荒い息遣いがつつじの耳に届く。
そのことに生理的嫌悪感を覚え、そして嫌悪感を覚えたことに内心ため息をつく。
見た目はともかく、中身は仕えるべきお嬢様だ。
そして本来の外観の持ち主の中身にも嫌悪感はない。
だから。
やはりこの外見は彼にとってマイナスだ。
そうつつじは結論付ける。
ただ、美琴の提案には納得だが、彼自身に甘過ぎるし美琴に厳しすぎるのではないか。
そう思うつつじは美琴に問う。
「芹緒様のご提案には賛成ですが、急ぐ必要もないかと……」
芹緒の肉体改造計画。
九条家の力を使って早急に、彼が自身の体を愛せるように減量やボディメイクなどを行いたい。
美琴が力強く言うその計画に、だけれどもつつじは消極的にノーを出す。
単に男になりたかったのなら、太っていようが痩せていようが異性にモテようがモテまいが今現在の芹緒の姿でもいいはずだ。
せいきの大改造発言はさすがにつつじをしても赤面してしまったが、男性を愉しむというのならある程度のサイズは必要だというのはつつじでも判る。
ただ、他の肉体改造なんて入れ替わりが元に戻ってから本人に苦労させればいい。芹緒の内面を人として好ましく思ってはいても、美琴がそんな苦労をするのは抵抗がある。
正直まだ未成年である美琴にそんな手術を受けさせるのはとんでもないと思うが、美琴の力の発動条件が不明瞭な以上、むしろ欲望を解放させてさっさと元に戻ってもらうほうがよいため、扱いについては芹緒と同様だ。
芹緒はつつじの倍ほど年が上のはずだが、威厳も何もない。積み重ねた時間はあるだろうが人生経験はあまりないだろう。あればもう少し『大人』を感じられると思う。
芹緒はおそらく愛情不足。
メイドたちはそう考え、中でもさつきは過剰なほどに甘やかしている。
一方の美琴。
彼女はおそらく『解放』を求めている。
幼い頃から厳しく躾けられ、ごく身内のメイドたちにしか甘えられなかった彼女。
そんな境遇で家のためにと許嫁が決められ、やがて我慢が決壊した。
確かに男は自由だろう。それはつつじだってそう思う。だからといって男になりたいかと言われたらノーと返す。
結局はないものねだり。
男性には男性の、女性には女性の、見える利点と見えない苦労があり、それはどうしようもないもの。
まだ子どもで思春期に入りたての美琴にとっては少し前の子どもの頃の自分と今の『女性』の自分の大きな差に、周囲から否応なく『女性』として見られることに、苦悩があったのだろう。
そしてそれは残念ながら美琴だけではない。
つつじだって思春期の頃は、自分の意志とは関係なく否応なしに変化する身体に、子どもの自分を性の対象として見る大人がいることに、ひどく狼狽したものだ。
これはおそらく全ての女性が経験することだ。逃げることは出来ない。
男性として完成している芹緒の体は毎月変化が訪れることのない体。
そこに変化を恐れた美琴は逃げ込んでいるだけだとつつじは考えていた。
そこにまさかの『男になりたい』発言。
父親が激怒するのも無理はない。
それでも、それでも、変化のないただ生活するには文字通り息苦しい体にはすぐに飽きるだろう、元に戻りたいと願うだろうと思っていたところにこの芹緒肉体改造計画。
百歩譲ってその案を飲んだとしても美琴が選ぶ道は、芹緒が通る道と比べなくとも茨の道だ。
「そんな肉体改造をしたら芹緒様はしばらく入院生活になりかねませんよ?」
美琴が提案した計画には脂肪吸引手術も含まれている。芹緒が大手を振って歩けるような体にするまでなんて、いったいどれほどの時間がかかるのか。短期間に大量の脂肪を吸引しようとすれば命の危険すら伴うのが脂肪吸引手術だ。
「つつじさんに協力してほしいと思ってるんだけど」
美琴は笑みを浮かべる。
「僕はこのままでもいいし、もし戻ったとしても美琴ちゃんが今世を楽しめるようになりたいんだ。もしこのままなら、肉体改造は僕の希望。戻るなら美琴ちゃんのこれから生きていくための希望。ね? 悪くないでしょ?」
美琴の熱の入った言葉。
「ですが」 つつじの言葉を遮って美琴は言う。
「つつじだって本当はこの体好きじゃないでしょ?」
「そんなことは」
「今この瞬間にも、つつじさんが僕から離れたがっているの、なんとなく理解っちゃうんだよね。不思議」
「う、これはパーソナルスペースというものでして」
「でもそれだけじゃないでしょ」
「……」
言葉に詰まる。それは無言の肯定。
「そしてそれは美琴ちゃんも同じ。いやそれ以上かな。僕を見るたびに美琴ちゃんは悲しそうないたたまれない表情をするんだ。確かに僕は人生経験少ないかもしれないけど人を見る目はあるつもり。美琴ちゃんはいい人だよ、性別関係なくね。そして僕を助けてくれた命の恩人。感謝してもしきれない。でも残念ながらこの体は人に愛されない。今後どうなるにしても恩返しだけはしたい。……このまま元に戻って悔いが残る選択だけはしたくない」
「……」
つつじだって芹緒を見捨てたいわけではない。
確かにお嬢様が一番だが、だからといってその他を切り捨てるような教育はされてないしそんな人間でもない。
芹緒にこのままの体を返せば芹緒は死ぬ。自分たちの目の届かないところで今度こそ自死する。
美琴は言外にそう言った。
つつじだって芹緒が自分自身の肉体を嫌悪していることは理解している。
今五人で一つ屋根の下生活しているが、感じさせないように見えないようにしているとはいえ、美琴以外の本人含め四人が芹緒の体に拒否反応を示しているのではないだろうか。
芹緒の体は残念ながら生理的に無理、受け付けられない。
芹緒が嫌がるのも死にたがるのも解る。
痩せればつつじたちの生理的嫌悪感は減るだろう。
一方でこの嫌悪感は男性だからというわけではない。
むしろそれ以前。
芹緒の体に『不快』として男性を感じる部分はあっても、中年男性ということを差し引いても『快』として男性を感じる部分は皆無だ。
中年男性であっても美琴の父親、九条道里はダンディズム、その身のこなしや佇まい、所作に男の色気を感じられる。
「愛されないままより、愛されてから嫌われるほうが落差を感じて絶望すると思うの」
いつの間にか立ち止まった美琴。その顔は普段美琴の身体で芹緒が浮かべる表情だった。
「お願いつつじ」
「芹緒さんを助けたいの。心も体も。あの人が生きることを諦めないために」
「一緒に芹緒さんを助けてよ……」
そう言ってつつじの手を両手で握る美琴。
「……ふう」
しばし目を閉じ。それから天井を仰ぎ見て大きなため息を一つ。
そして美琴の泣きそうな顔を真正面から見ると、困った子どもをあやすような顔で美琴の肩を叩く。
「ここで立ち止まるのは迷惑ですね。行き先もやることも増えたことですし作戦を練りましょうか」
「つつじ!」
「芹緒様。言葉使いがおかしいですよ。大体、人の多い場所でそんな情けない顔しないで下さい。一緒にいる私が恥ずかしいじゃないですか」