優しいつつじ先生
目覚めた時から異変には気が付いていた。
股間とシーツからパジャマを通してお尻に伝わる、冷たく湿る嫌な感触。
女物の下着は股間に密着してなおさら気持ち悪い。
思えば昨日もやらかしていた。
「どうしよう……」
おもらしなんて四十年以上生きてきてもう記憶の彼方だったはずだ。
それが二日連続。
昨日は恐怖で漏らしただけだ。
じゃあ今日は?
美琴の身体のせいにするのは簡単だが、美琴が今でもおもらし癖があるとは流石に思えない。
あるならあるで説明があるはずだ。
だから、これは、芹緒のせいだ。
憂鬱な気分で身体を起こし、そっとブランケットをめくる。
パステルピンクのパジャマは、股間の部分だけ濡れて色が濃くなっていた。
ブランケットをめくったことで籠もっていたアンモニア臭が芹緒の鼻をつく。
これは現実だ。
芹緒はどん底に突き落とされたような気分になる。とドアの向こうで女性たちの小さな会話が聞こえてきた。
出来ればさくらには知られたくない。
さくらが知れば昨夜の飲み物の件を思い出してしまうだろう。
でも喉が渇いていたのは本当で、さくらは善意で飲み物を持ってきてくれたに過ぎない。
そんなさくらに仮にとしても嫌な思いはさせたくなかった。
さくらが移動する気配がする。
誰かと会話している?
この声は……多分つつじさんか。
彼女とさつきさんには昨日もおもらしでお世話になっている。
彼女たちに会ったのはその時だからだ。
……今思い出すと最悪な出会いだ。
芹緒には替えの服がどこにあるのか分からない。
この身体になった以上、何かしら誰かに頼るしかない。
『……はい、一時間後にお願いします』
つつじさんはどこかに電話していたようだ。
それが終わった気配を感じ、芹緒はベッドを降り、そっとドアを開けた。
「!?」
芹緒と目があったつつじは口を押さえる。
助かった。みんなにバレたくない。
「つつじ……さん?」
芹緒は小さな声で呼び掛け、ドアを開ける。
「はい、私はつつじです、どうしまし……た……」
つつじの視線が頭から下に行き、そして……。
つつじの語尾が小さくなる。
「着替えを持ってきます」
つつじの再起動は早かった。
そう言ってすぐに下着と替えのパジャマ一式を持ってきた。
「部屋に入らせてもらってもよろしいでしょうか?」
「はい……」
この期に及んで自室に入らせないのは無理だ。
部屋の中には濡れたシーツとマットがあり、誰にも知られずに洗濯したり乾かしたり出来ない。
今つつじは芹緒のために動いてくれている。
つつじは芹緒の部屋に入ると一瞬立ち止まり、辺りを見回した。だがすぐに動きを取り戻すとスマホを取り出した。
「つつじです。大至急クリーニングをお願いします。……ええ、静かに願います」
そして電話を切ると芹緒の方を振り向いた。
「芹緒様、お風呂に入りましょう」
「うん」
昨日と同じ流れだ。芹緒は頷いた。
「しばらくは身体が慣れないということで毎朝お風呂に入りましょう」
芹緒の身体を優しく洗いながらつつじは言う。
「大は小をかねる、と言います。お嬢様が芹緒様の体で我慢するのと、芹緒様がお嬢様の身体で我慢するのでは全く感覚が異なると思います」
「はい」
「成人男性と成人女性では、同じ年齢でも膀胱の大きさに差があります。当然女性が小さく、また尿道も短いので長時間耐えるのは困難です。ましてやお嬢様はまだまだ成長期。もっと膀胱が小さいはずです。トイレは我慢せず、すぐに行って下さい」
「はい」
つつじの言葉に芹緒はただ頷くしかない。
「今回のことで食べたり飲んだりすることに抵抗を覚えないで下さいね。芹緒様は誰も体験したことのない未知の経験をされています。失敗しても誰も笑いませんよ」
「出来ればナイショに……」
芹緒が懇願する。
「もちろんです。笑われないこととプライドが傷つかないことは同じことではありませんから。私にお任せ下さい」
「ぐすっ……ありが、と……、うぅ、泣きたくないのに涙が」
安心してしゃくりあげる芹緒の肩をつつじは優しくぽんぽん、と叩く。
「お嬢様の身体は涙もろい。私たちの間ではそういうことにしましょう。お嬢様にはヒミツですよ」
「うん……っ」
「さあ、お風呂に入って下さい。女の子は身体が冷えると辛いんです。しっかり温まったら私を呼んで下さい」
「ありがとう、つつじさん」
ぐしぐしと鼻をすすりながら、髪をタオルで纏めた芹緒はゆっくりと湯船につかる。
「どういたしまして」
まださつきたちは寝ていた。
つつじは浴室から出ると芹緒の自室に入る。
芹緒の自室は大量に物が溢れていた。
和室とダイニングに物がなかった分、ここに詰め込んでいたようだ。
掃除もあまりされているとはお世辞にもいえない。
「けふっ」
つつじは小さく咳き込む。
この部屋で寝れば確かに喉をやられ、水分を求めてしまうだろう。
シンクにあったコップは芹緒が使ったものに違いない。
ただ、それにしては夜起こされるような気配はなかった。いや、確かに先ほどの細いドアの隙間からこちらを伺っていた芹緒には驚かされたが、夜中私たちはそこまで寝入っていたか?
「さくらね……」
さくらがつつじたちを起こさぬよう、気を使って飲み物を芹緒に渡したのだろう。彼女の身のこなしならば音もたてずに移動することなど容易い。
そして芹緒はおもらしをして、内緒にしてほしい、と……。
恥ずかしいことはさておいて、このことがさくらたちにバレると責任を感じるのはさくらだ、だから秘密にしたい?
「……考えすぎですね」
そろそろ時間だ。
つつじは頭を切り替えると濡れたタオルケットとシーツ、マットを抱えると、部屋の外に誰もいないかを確認しながら出ていった。
温かいお湯がとても気持ちがいい。
美琴の身体だと浴槽がとても大きく感じる。
足も伸ばせる。
「大きいお風呂だったんだなぁ……」
入居して初めて感じる事実に、なんだか心までぽかぽかしてくる。
湯船から右手を出して改めて美琴の肢体を観察する。
肌がすべすべだ。
芹緒の肌のように網の目のような割れもなく、瑞々しさに心を奪われる。
よくよく見れば産毛は生えているが、色素はなく、浴室灯にかざすとキラキラと輝いているようにも感じられる。
左手で右手を撫でると程よい弾力を持って滑らかに動く。
女性はこんな素敵な身体を持っているのか。
羨ましい。
芹緒は率直に思った。
女性の身体を楽しむには二つの方法がある。
女として自らの身体を楽しむか、
男として女の身体を愉しむか。
芹緒はずっと容姿とコミュニケーション能力の欠損で女性に相手にされなかったのと、男性のシンボルが小さいこともあって早くから男として楽しむのは諦めていた。
犯罪を犯せばあるいはその欲望を満たせたのかもしれないが、芹緒は何も出来ない動けない生き物だった。
だからといって性転換したいとも思っていなかった。
芹緒に金はなく、何としてもやりたい、というほどの情熱もなかった。
だからこそ、今世に諦めをつけ、ありもしない来世に一縷の望みをかけ、そんな『心の中の神様』を信仰して悪事を働くこともなく、小さな善行を積んでいたのだ。
そんな願った女に今芹緒はなっている。
全くの想定外で、途方もない理の外だが、芹緒は今女だ。
女になって何がしたかったのか?
そう自問するとすぐに答えは返ってくる。
『愛されたい』と。『誰かと触れ合いたい』と。
『女性ならセックスで愛される、犯されたって、それは誰かと触れ合えている、受け身だから犯罪じゃない』という、それはそれは馬鹿げた考えを芹緒は持っていた。
今は?
芹緒の体をした美琴に抱かれる?
即座に内心首を振る。
男の意識がある状態で男に抱かれるのは、芹緒に取って本意ではない。ないと気付いてしまった。
今はこうして美琴の身体にいることで、人に優しくして貰える。
それが無性に嬉しかった。
これが欲しかったんだ。
……ただ、美琴やさつきは芹緒が望む以上のものを目の前にぶら下げてくる。
とても抗い難い誘惑だ。
自分の理性が焼き切れぬうちに戻りたい。
―――本当に?
そんなことをつらつらと考えながら芹緒は朝の長風呂に浸っていた。
そろそろ上がろうと考えていると
『芹緒様、そろそろいかがですか?』
つつじの声が聞こえてきた。相変わらずタイミングが良い。
「はい、上がります」
そう答えて立ち上がると、つつじがバスタオルを持って浴室に入ってきた。
そして芹緒の身体を拭きながら
「全て新しいものに交換しました。誰にも気付かせていませんので安心して下さい」
と小声で伝えてきた。
「ありがとうございます」
「はい。ゆっくり温まれましたか?」
「ええ、お陰様で」
つつじは素早く芹緒の身体を拭き上げると、手の平にショーツを乗せて芹緒に手渡した。
昨日も自ら穿いた。
今さら恥ずかしがっても仕方ない。
パステルグリーンのショーツを上まで上げる。
やはりぴったりと股間に張り付く布の感触が芹緒に『女』という現実を突き付けてくる。
「これも覚えなければいけませんね」
そういって両手で吊して見せたのは、ショーツと同じパステルグリーンのブラジャーだった。
改めて見せられると恥ずかしさが込み上げてくる。
「恥ずかしいのは分かりますが、しっかりと覚えて下さいね。お嬢様の身体です」
それを言われると弱い。
結局どこまで行ってもこの身体は借り物でしかないのだ。
芹緒が好き放題出来る身体ではない。
「ホックが背中にあるので慣れるまで大変だとは思いますが」
「フロントホックもあるんですよね? そちらの方が楽では?」
つい好奇心が首をもたげて聞いてしまう。
ここには背中ホックタイプのブラジャーしかないので、これを付けるしかないのだが。
「ありますがフロントホックは胸の形をキレイに見せることが出来ません。またサイズ調整も難しいため、新しいブラを買う際は背中ホックタイプをお勧めします……、まずストラップを肩にかけて……、そう、そして身体を前に倒してブラのワイヤー、そうそのカップの下を胸の下のラインに合わせて、はい、そしてホックをかけて下さい」
つつじの説明を聞きながら芹緒は身体を手を動かす。
自分からブラジャーをつけるなんて初めてだ。
でも恥ずかしくない。今は女の子なんだから付けるのが当たり前、当たり前。
「バストをしっかりとカップに収めて下さい……出来なければ昨日のようにお手伝いしますが」
「頑張ります」
胸をさわられて悲鳴を上げたことを思い出し、慌てて自分でやっていく。
胸のお肉を集めて入れればいいはずだ。
芹緒はどこで仕入れたか分からない無駄知識を総動員してつつじに言われたことをこなしていく。
「ただ詰め込むだけではいけませんよ。トップバスト……乳首の位置が変なところに行かないように調整して下さい」
「はい」
身体を倒しながら芹緒は淡々と美琴の胸をこね回す。
「それが終わったら身体を起こして下さい」
「ふう」
慣れない作業を身体を倒しながらやっていたので、思わず息をつく。
「確認しますね」
そんな芹緒のブラの中につつじの手が無遠慮に差し込まれていく。
「んんっ!?」
なんとか悲鳴はこらえた芹緒だったがついつつじをジト目で見てしまう。
「初めてにしてはお上手です」
「……どうも」
喜びにくいつつじの賛辞に芹緒はなんとか返事を返す。
「次にワイヤーの位置を胸の下のライン……バージスラインというのですが、そのラインに合うように上に上げていきます」
「胸の付け根がワイヤーによって支えられるイメージですかね?」
「そうです」
つつじの肯定で芹緒の頭の中にイメージがわき、ささっと終わらせる。
「最後に」
長い。そう思ったが芹緒は黙る。女性は大変すぎる。
「ストラップを調整して、背中の横のライン……アンダーラインと言いますが、ここが床と平行になるようにして下さい」
なんとかかんとか、芹緒はブラジャーを付け終えることが出来た。
「鏡を見て下さい。よく似合ってますよ」
つつじに促され鏡を見ると、そこには顔を赤らめたロングヘアの金髪の美少女が下着姿でいた。
芹緒と目が合う。
「!!」
気まずさに慌てて視線を外す。
そんな芹緒をつつじは微笑ましそうに眺めていた。
「やっぱり女性は大変ですね。覚えることが多すぎます」
芹緒はつつじから手渡されたパステルグリーンのパジャマに袖を通しながら言う。
「女性は徐々に覚えていきますからね。芹緒様は焦らずゆっくり覚えていきましょう」
そして二人は洗面所を出たのだった。